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組織の流体力学 #3|「沈殿」する人々は、川底を守る護岸である ─ 熱意なき94%の正しい処遇

夕方の17時30分。
定時を告げるチャイムが鳴った瞬間、あなたの部下はパソコンを閉じ、鞄を手に取ります。
「お先に失礼します」
その表情には、仕事への未練も、明日の業務への高揚感もありません。ただ淡々と、タイムカードを押して去っていく。

あなたは、その後ろ姿を見送るたびに、胸の中に小さな鉛を飲み込んだような気分になるかもしれません。
「言われたことはやるけれど、それ以上は一切しない」
「もっと成長したいとか、変えたいとか、そういう熱はないのか」

最近、このような振る舞いは「静かな退職(Quiet Quitting)」と呼ばれています。
心は既に組織から離れているが、給与をもらうために最低限の義務だけを果たす状態。

上司であるあなたは焦ります。
なんとか彼らに火をつけようと、1on1で目標を語り、研修を勧め、飲み会に誘うかもしれません。
しかし、彼らの目は凪のように静かなままです。

なぜ、彼らは熱くならないのでしょうか。
そして、彼らが「熱くない」ことは、本当に組織にとって悪なのでしょうか。

今日は、川の「底」の話をしましょう。

「熱意6%」の世界で生きる

まず、少し冷ややかな数字から始めます。
米国のギャラップ社が行った調査によると、日本企業において「熱意あふれる社員(エンゲージメントが高い層)」の割合は、わずか「6%」だそうです。

これは世界でも最低水準の数字です。
裏を返せば、あなたの組織の「94%」は、そこまでの熱意を持たずに働いていることになります。

多くの経営書やリーダーシップ論は、この「94%」を嘆き、なんとかして「6%」に引き上げようとします。
全員が目を輝かせ、主体的に提案し、残業も厭わずイノベーションを起こす組織。それが理想だと。

しかし、ここで冷静に物理法則(流体力学)を当てはめてみてください。
もし、川を流れる水の「100%」が、激流のようなスピードで走ったら、どうなるでしょうか。

答えは「決壊」です。

川底の土砂までが激しく動き回れば、川の形状は保てなくなります。
堤防は削られ、橋脚は流され、組織という地形そのものが崩壊してしまうでしょう。

激流を支える「沈殿」の役割

組織には、必ず「比重の違う水」が存在します。

川の表面を走る水は、軽やかで、速い。
これが前回の記事で触れた「蒸発しやすい上位20%」の人材です。彼らは新しい道を切り拓き、30倍の利益を生み出す「攻め」の役割を担っています。

一方で、川の底には、重く、ゆっくりと動く層があります。
これが「静かな退職」と呼ばれる彼らの正体です。
彼らはやる気がないのではありません。組織のエネルギー保存則の中で、あえて熱量を下げ、比重を重くすることで、「沈殿」という役割を選んだのです。

彼らの仕事を見てください。
請求書の処理、システムの保守、定型的な顧客対応、備品の管理。
それらは決して派手ではありませんが、1ミリの狂いも許されない、組織の血管のような業務です。

もし、彼らが上位層と同じように「クリエイティブでありたい」「ルーティンは退屈だ」と言って、勝手に業務フローを変え始めたらどうなるでしょうか?
その瞬間、組織のインフラは停止します。

上位20%が安心して未踏の地へ冒険できるのは、足元で94%の人々が「変わらないこと」を引き受けてくれているからです。
彼らは、怠惰な沈殿物ではありません。
川底が削れないように守ってくれている、強固な「護岸ブロック」なのです。

「期待値」という契約を結び直す

上司であるあなたが苦しいのは、彼らに「浮上すること(成長や変革)」を期待しているからです。
そして彼らが苦しいのは、沈殿していることに罪悪感を抱かせられるからです。

この不幸なすれ違いを解消するには、契約内容を書き換える必要があります。
「熱くなれ」と強要するのではなく、「冷たいままでいてくれ」と頼むのです。

「君には、このルーティン業務という砦を守ってほしい」
「ここでは、イノベーションや改善は求めない。その代わり、ミスなく、遅延なく、完璧に現状を維持してほしい」
「それができれば、定時で帰っていい。君のプライベートは君のものだ」

これは冷たい切り捨てではありません。
「守り」というプロフェッショナルな役割の認定です。

不思議なことに、こうして役割を定義すると、彼らの顔つきが変わることがあります。
「成長しなくていい」と許可されたことで、逆に「今の業務をより効率的に回す工夫」を自ら始める人もいます。
彼らは、迷いがなくなった分、最強の「インフラの守護者」になるのです。

静けさを愛する

「静かな退職者」がいることを嘆かないでください。
彼らが静かであればあるほど、あなたの組織の足場は盤石です。

彼ら(沈殿層)が定常業務を完璧に回し、エース(激流層)が新しい価値を取りに行く。
この「比重の棲み分け」ができている組織こそが、流体力学的に最も美しい状態です。

定時のチャイムと共に去っていく彼らの背中に、これからは心の中でこう声をかけてあげてください。
「今日も、底を支えてくれてありがとう」と。

さて、これで「空へ飛び出す水(離職)」と「底に留まる水(静かな退職)」の話をしました。
しかし、これだけでは組織は完成しません。

水と土は、放っておくと完全に分離し、やがて固着してしまいます。
組織の壊死を防ぐためには、時折、この層をかき混ぜる「痛み」を伴う行為が必要です。

次回は、現場が最も嫌がる処方箋。
「なぜ、慣れ親しんだ部署から異動させなければならないのか?」
強制対流とエントロピーの話をします。

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この記事は「組織の流体力学」シリーズの第3話です。
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