組織の流体力学 #2|優秀な人はなぜ「蒸発」するのか ─ 1人の退職がもたらす「30倍の損失」と再結合
「少し、お時間よろしいでしょうか」
チャットツールに表示されたその無機質な通知を見た瞬間、あなたの心拍数は跳ね上がったはずです。
送信者は、チームで最も頼りにしているエース社員。
嫌な予感は的中します。会議室で告げられたのは、「退職」の二文字でした。
「どうして急に?」
「あんなに目をかけていたのに」
「待遇も改善したばかりじゃないか」
あなたの頭の中を、混乱と、そして少しの「裏切られた」という感情が駆け巡ります。
トラブルメーカーが辞めるのとは訳が違います。彼らは組織の心臓であり、未来そのものでした。
なぜ、組織にとって一番「辞めてほしくない人」から順に、煙のように消えてしまうのでしょうか。
今日はその残酷なメカニズムを、物理法則と数字を使って解剖します。
「相転移」のメカニズム
少しの間、組織を「鍋に入った水」だと想像してください。
コンロに火をかけ、水温を上げていく。組織が成長し、熱量を帯びてくる状態です。
さて、ここで物理の問いです。
水が沸騰し始めたとき、最初に水面から飛び出し、気体(蒸気)となって空へ逃げていくのは、どの水分子でしょうか?
答えは、「最もエネルギーの高い分子」からです。
これは物理学の鉄則です。
運動エネルギーが高まった分子は、液体という「緩やかな結合」の中に留まることができなくなります。
周囲の分子との結びつきを振りほどき、より自由な空間(気体)へと「相転移」を起こす。
組織でも全く同じことが起きています。
優秀な人(エネルギーの高い分子)ほど、組織の器(鍋)の限界を敏感に察知します。
「これ以上ここにいても、自分の熱量は上がらない」
そう感じた瞬間、彼らは物理法則に従って、組織という液体から「蒸発」するのです。
彼らが辞めるのは、あなたを嫌いになったからでも、恩を忘れたからでもありません。
ただ、彼らの熱量が、あなたの組織の沸点を超えてしまった。
それだけの、しかし抗いようのない物理現象なのです。
1人が消えることの「本当の損失」
「でも、たった1人辞めるだけだろう? 代わりを採用すればいい」
もし経営層がそう高を括っているなら、この数字を見せてあげてください。
「30倍」
ある組織分析のデータによれば、組織内の上位20%の人材が生み出す利益は、中位60%の人材の「30倍」に達すると言われています。
エース社員1人の退職は、単なる「-1名」ではありません。
利益創出能力という観点で見れば、それは「-30名」に匹敵する壊滅的な損失です。
彼らが抜けた後、現場に漂う「あわてて補充したけれど、なにか決定的な推進力が足りない」という虚無感の正体はこれです。
30人分のエンジンが、一夜にして消滅したのですから、残されたメンバー(中位層)がどれだけ残業しても埋められるはずがありません。
エースの蒸発は、組織の「稼ぐ力」を根こそぎ奪う、静かなる災害なのです。
「裏切り者」ではなく「雲」と呼ぶ
では、蒸発しようとする彼らを、どう引き留めればいいのでしょうか?
残念ながら、一度「気体」になってしまった分子を、再び「液体」に戻すことは極めて困難です。
カウンターオファー(給与の引き上げ)や情に訴える説得は、一時的に鍋のフタを押さえつけるだけの行為に過ぎません。
私たちが変えるべきは、彼らへの態度です。
多くの日本企業は、辞めていくエースを「裏切り者」として扱い、二度と敷居をまたがせないように関係を「切断」します。
これは、蒸発した水分を「二度と戻ってくるな」と空へ追い払うようなものです。そんなことを続ければ、やがて川(組織)は干上がります。
自然界の循環を思い出してください。
蒸発した水は、空へ昇り、「雲」になります。
そして雲は、やがて「雨」となって、再び川へ注ぎ込みます。
退職した彼らは、裏切り者ではありません。
組織の外(市場)という空へ飛び出し、新しいスキルや人脈という雨を蓄えにいった「アルムナイ(卒業生)」です。
再結合のためのAPI
これからの「治水技師(マネージャー)」がやるべきことは、引き留め工作ではありません。
彼らがいつか雨として戻ってこられるように、「傘を差さずに待つこと(再結合の設計)」です。
• 笑顔の送り出し:
退職面談で「不満」を聞き出すのはやめましょう。代わりに「君がもたらした30倍の成果」に感謝し、「外で大きくなってくれ」と背中を押すのです。
• APIの開放:
「困ったことがあったら相談に乗ってほしい」「面白そうな案件があったら声をかける」といった、緩やかな繋がり(疎結合)を残しておくのです。
数年後、外の世界で揉まれ、さらに熱量を高めた彼らが、「副業」や「出戻り」、あるいは「パートナー企業」として、再びあなたの組織に関わる日が来るかもしれません。
その時こそ、彼らは「30倍」どころか、「100倍」の恵みの雨をもたらしてくれるはずです。
「蒸発」は、喪失ではありません。
それは、より大きな循環(エコシステム)への旅立ちなのです。
次回は、視点を「空」から「川底」へ移します。
激しく蒸発するエースの足元で、静かに沈殿し続ける「94%の人々」について。
いわゆる「静かな退職」と呼ばれる現象を、私たちはどう捉えればよいのか。
それは怠慢ではなく、組織を守るための「護岸工事」だったのかもしれません。
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この記事は「組織の流体力学」シリーズの第2話です。
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