ぼくはアプリで童貞を捨てる
ぼくはアプリで童貞を捨てる。なにもそんなことを世界に向けて発信しなくても……と思われるだろうが、これはぼくにとっては幸せなエピソードなのでぜひ書かせてもらいたい。ぼくが生まれて初めてセックスをしたのは、いまから一年と数か月前のこと。新年度を迎えて大学二年生になったばかりの4月の中旬、具体的には去年の4月11日夜のことだ(完全暴露)。
いまとなっては、よくそんな時間と気力と体力があったなと思う。ぼくは大学で放送サークルに所属していて、4月の発表会で全体のプロデューサー(+番組のディレクターと漫才の演者)を務めることになっていたのに、ゲイ向けのマッチングアプリに登録して友達(非セックス目的)を探していたのだ。たぶん、当時のぼくはちょっと人肌恋しかったんだと思う。あるいは、自分がゲイだってことを隠しているのがいい加減キツくなって、そのキツさから開放されるための突破口を探していたのかもしれない。
マッチングアプリに登録するのなんて初めてだったから、そもそもどこに登録すればいいのか分からなかった。とりあえず、「10代や学生が多い」とまとめサイト的なやつで紹介されていたゲイ向けアプリに登録してみたら、その次の日に「はじめまして! 同い年ですね! ぼくも友達募集中なので、仲良くしてくれたらうれしいです」というメッセージが届いた。プロフィールを見ると、ぼくと同い年で同学年の都内の大学生とのことだった。
ぼくは「はじめまして。同学年なんですね。ぼくも都内の大学に通っています」と返信した。事実上何も返信していないのと同じだが、ぼくは人見知りなので臆病な返信しかできない(人見知りなのにアプリに登録したぼく偉い)。「どこの大学? ぼくは(地名)の(大学名)だよ!」。すぐに二の矢が飛んで来た。さっそくタメ口かよ。距離感近いな。向こうが具体的な名前を出している以上、ぼくも正直に自分の大学名を打ち明ける。やっぱりすぐにメッセージが来る。「そうなんだね! 近々会えたりする? ぼくは来週だと金曜の夜以外は大丈夫!」。えっ、もう会う約束を交わすのか。展開が早い。こういうのって最低でも数日はオンラインでやり取りするものかと思っていた。まさか大学生を標的にした連続殺人鬼とかじゃないだろうな。ぼくはおそるおそる「月曜か木曜なら空いてます」と返信する。
次の月曜日。新勧活動を終えて部室で時間を潰したあと、ぼくは集合場所として指定されたJRの某駅(相手の大学の近くの駅)の某改札口へ向かう。こちらはまだ新学期の授業が始まっていないが、向こうは授業がもう開始しているので5限後の19時に来てほしいと言われたのだ。緊張するなあ。写真でお互いに顔は分かっているとはいえ、実際にどこにいるのか分からない。あれー? もしかしてあのひとだったりするのかな……目が合った……あ、近付いてきた……えっ、あっ、あの……
「はじめまして! (相手のユーザー名)です! (ぼくのユーザー名)……だよね? そうだよね!(笑)」。爽やかなイケメンだ。写真より実物のほうがかっこいい。顔立ちはすっきりしているんだけど、目つきは優しい感じ。太っても痩せてもいなくて、身長はぼくより1〜3cm低いかな。大人っぽい黒のジャケットが似合っている。背中になんか大きいケースを背負っているけど、まさか斧とかチェーンソーを入れているわけじゃないよね?
「あっ、は、はい。そうです、(ぼくのユーザー名)……は、はじめまして……」。サークルでは渉外をやっているけどぼくは本来人見知りなのだ。そもそもぼくは先輩から指名されて渉外をやらされてるだけだし。そんなぼくの事情を知ってか知らずか(知るわけない)、相手はぼくの目を見つめながら爽やかな笑顔で言ってくる。「同い年なんだからタメ口でいいよー!(笑) ぼくは上野諒といいます。そこの(大学名)文学部の一年……じゃないや(笑)、新二年生です。二年生になりました!」。ちょっと声が大きいんですけど。それがぼくと上野くんの出会いだった。
「あっ、ぼくは(ぼくの姓名)という者です。(大学名)の二年で、あっ、(学部と学科)で……」。簡単に自己紹介を済ますと、上野くんが「だからタメ口でいいよ(笑)。ぼくの知ってるお店が近くにあるんだけど、そこでいいかな?」と爽やかな笑顔でぼくに提案する。もちろんですとも。ぼくはこの辺に土地勘なんてありません。お店へ歩きながら、上野くんはぼくに「呼び捨てで(ぼくの下の名前)って呼んでいいかな?」とやはり笑顔で言ってくる。ぼくが「……うん」と言うや否や、「(ぼくの下の名前)は今日は何してたの?」と爽やかな笑顔で尋ねてくる。たぶんだけど、上野くんは爽やかな笑顔を他人に振りまくことしかできない。
連れて行かれたお店は「暗くて青いお店」だった。全体的に照明が落とされていて、しかし青色の照明がところどころ照らされてはいる。2〜4人用の丸テーブルが間隔を空けて置かれていて、大人のダイニングバーといった趣きだ。ぼくはこんなお店にこれまで来たことない。思わず予算が気になってしまう。「いらっしゃいませ」とタキシードっぽいエプロンを着た男性の店員さんに案内され、ぼくらは中央のほうの丸テーブルの席に着く。
「お洒落なお店だね……ぼく、こんなお店に来たの初めてだよ」とぼくは正直に告げる。そこには「ぼくあんまりお金持ってませんけど大丈夫ですかね?」という意味も込められていたのだが、上野くんはそんなぼくの深意には気付かず、「そう? (ぼくの大学のある町)にはないの?」と穏やかな笑顔で聞いてくる。「ぼくと友達が行くのはやよい軒と松屋ばっかりだから」とぼく。「そうなんだ(笑)。さっき、(ぼくの下の名前)は放送サークルに入ってるって教えてくれたけど、放送サークルって何してるの?」と上野くん。ぼくは恥を忍んで音声ドラマ(=ラジオドラマ,オーディオドラマ)を作っていると告白する。あー、恥ずかしすぎるだろ!
自分の話ばかりしているのも嫌なので、ぼくは「上野くんは何かサークルに入ってたりするの?」と聞く。上野くんは「同い年なんだから下を呼び捨てでいいよー!」と言ってきたのち(さすがにそれは恥ずかしいので「諒くん」とくん付けで呼ぶことにした)、「ぼくは吹奏楽部! 実はね、今日もお昼に練習があったんだけど……」と言って、さっき背中に背負っていた大きいケースを手元へ引き寄せる。
「ぼくはクラリネットパートに所属してるんだよね」。そう言いながら、上野くんはケースを開けてクラリネットの上半分を取り出し、ぼくに見せてくる。「ここに指をかけて、左手でこの穴を押さえるんだ。この部分が乾燥してると音が出にくくなるんだよ。それでこのキーが……」などと解説してくれるが、ちょっと待ってくれ、周りのお客さんがこっち見てる。「何やってんだ?」「何出してるんだ?」みたいな感じでこっち見てる。しかも上野くんのクラリネットはドデカい型のクラリネットで、上半分だけでもだいぶ迫力がある。いくらテーブルとテーブルの距離が取られているお店だからって、公共の場で取り出していいようなしろものじゃない。他のお客さんから好奇の目で見られて恥ずかしいぞ。めちゃくちゃ恥ずかしいぞ。
しかし上野くんは周囲の視線などお構いなしで(というか周囲の視線に気付いてすらいない)、ぼくにクラリネットの部位を解説し続ける。ぼくはクラリネットに興味がない。申し訳ないが何の興味もない。「へ、へえ……なるほど……」などと相槌を打ちはしたが、頼むからそのクラリネット早くしまってくれと心の中で念じていた。数分後、上野くんは「ま、そんなところかな。うん」と言って、ぼくの顔を爽やかな笑顔で覗き込む。同行者に恥ずかしい思いをさせたことへの自覚も反省もゼロである。上野くんはこういう天然なところがある。きっと育ちがいいんだろう。上流階級の人間はのんびりしているから他人の視線など気にしない。
それからぼくらは食事をしながら、お互いのサークルの話をしたり、お互いの発表会のチラシを見せ合ったり、お互いの学部での専攻の話をした。そして、ぼくらの性的指向の話をした。いつから男のひとが好きだと気付いたのかとか、これまでにどんな子を好きになったのかとか、いま好きな子はいるのかとか。上野くんは幼稚園の頃にはもう自分の性的対象が男性だと気付いていて、小学校高学年の時には同級生の男の子とエッチな遊びをしていたらしい(マセたガキだな!)。ぼくは高校生の時に出会った須川くんの話をした。同級生の男の子で、すごく大好きで大好きで、勇気を出して告白したけど振られちゃったんだという話をした。上野くんはぼくの目をまっすぐ見据えながらぼくの話を聞いてくれていた。
ぼくがリアルでオープンリーゲイのひとと会うのはそれが初めてのことで、須川くんに告白した時を除けば、ぼくがリアルで自分の性的指向を包み隠さず話したのもそれが初めてのことだった。自分の性的指向を偽らないでいいっていうのはこんなにも楽なことだったんだな。ぼくはお酒が進んだ。ぼくも上野くんもビールが好きだから、二人でいっぱい、色んな種類のビールを頼んで飲んだ。時刻はもう22時になっていた。
ぼくとしては正直もっとお話ししていたかったけど、上野くんが「(ぼくの下の名前)、そろそろ出る?」と言ったのでそれに従った。上野くんの頬が赤くなっていて、少し酔っ払ってるみたいだったしね。二人で現金で割り勘にして、ぼくらは暗くて青いお店を出る。「酔い醒ましにちょっと歩こうか?」と上野くんが言った。ぼくは別に酔っ払っていなかったが、終電の時刻にはまだ余裕があるので問題ない。ぼくは「うん」と言って提案に乗り、上野くんの案内で夜の街を散歩する。
「ここがうちの大学!」。初めて見た。なんていうか、荘厳な門構えである。噂には聞いていたが、ここがあの大学のあのキャンパスか。ぼくは自分の大学が絶対的第一志望で、ここは進学先として興味が湧かなかったので受験していないが、もしここの文学部に入学していたらぼくは上野くんともっと早く出会っていたのかもしれない。「(門が)すごい大きいね」。小学生並みの感想を言うと、上野くんは少し誇らしそうに笑う。
ただ、正直に言うとぼくはそれどころじゃなかった。目の前に見える東京タワーが怖かったからだ。ぼくは高所恐怖症である。高いところに上るのも怖いが、高い建築物を見るのも怖い。特にライトアップされた夜の東京タワーと東京スカイツリー、あれらは悪魔の鉄塔だ。本来ならば地上での存在が許されるべきでない。ぼくは怖いので目線を下ろし、地面を見ながら歩く。歩きながら文学部関係の話をしていたら、上野くんが「あ、ここが(某国)大使館だよ!」と言う。へえ。一瞬だけ顔を上げてチラッと視線を送ると、おや、東京タワーが視界に存在しない。東京タワーの悪魔性に気付いた国土交通省が解体したのかな?(単にぼくらが横の路地に入っただけです)
たまに車が横を通過するぐらいで、人通りがない暗い通りである。ぼくは自分がどこを歩いているのか見当がつかなかった。ただ、なんとなく、いや、なんとなくじゃなくても、待ち合わせた駅とは逆の方向へ進んでいる気がする。上野くんはいったいどこまで行くつもりなんだろう。ぼくが「諒くぅん……」と不安を思わず声に出すと、上野くんは「なーに、(ぼくの下の名前)?」と言ってぼくに微笑みかけ、次の瞬間、ぼくの手をつないできた。びっくりした。ふつう、男同士は友達と手をつながない。でも、ぼくは上野くんに手をつながれて、びっくりはしたけど悪い気はしなかった。ひとの体温を感じてなんだかホッとした。さっきまで抱いていた東京タワーへの恐怖と「ここはどこなんだろう」の恐怖が同時に打ち消されたので、ぼくは手をつながれるのを嫌に思うどころか、「このまま手をつないでいてほしい」と思ってしまったのだ。上野くんといれば安心だ。このあたりは上野くんにとって土地勘があるエリアなんだし。
ぼくは元来人見知りだが、一度打ち解けた相手とは気楽にしゃべれる。気になる男の子のことなんかをまた話しながら、先ほどとは違う某国大使館の前を通り、短い橋みたいなのを渡って、広い車道のところへ出る。さっきまでの通りと違ってひとがたくさんいるからか、上野くんがぼくの手を離した。信号を渡る。「そこが(待ち合わせた駅とは違う東京メトロの駅)だよ!」と上野くんが言う。いや、ぼくは待ち合わせた駅から帰りたいんですけど。ぼくが内心ちょっと困っていると、上野くんはこっちを振り返って親指を後ろ向きに突き出し、爽やかな笑顔で言った。「ホテル、行く?」。
間違いなく、あれはこの世で最もいちばん爽やかな「ホテル、行く?」だった。あれ以上に爽やかな「ホテル、行く?」はあり得ない。ぼくはあの時の上野くんの爽やかな笑顔をいまもはっきりと憶えている。コンビニから漏れ出る明かりに照らされた上野くんの爽やかな笑顔を憶えている。当時のぼくは本当に世間知らずの人間だったので(いまでもそうかもしれないけど)、上野くんが「ホテル、行く?」と口に出して言うまで、上野くんが目的を持って夜道を歩いていたこと、自分がホテルに連れて行かれていることを分かっていなかった。上野くんにそう言われて、ぼくはようやく事の次第を理解したのだ。ああ、ぼくはこれから上野くんとセックスするんだ、生まれて初めてセックスするんだって。
もうそこから歩いて一分もなかったと思う。上野くんに先導されて、ぼくは、一見すると高級マンションにしか見えない黒い建物の中に入った。そこから先のことは書くまでもないように思うが、でも、ぼくとしては素敵な思い出なので改めて書きます。書かせていただきます。上野くんに「ホテル、行く?」と言われてホテルに向かっている時、もうぼくは東京タワーのことなんて意識していなかった。それは単にそこからは東京タワーが見えなかったからでもあるが、目の前のひとのさっきまでの爽やかな笑顔が大人の顔つきに変化したのに気付いて見惚れていたからでもある。
