【短編小説】 花筏
京都駅から烏丸線に乗り換えるための改札を通ったところで恵からの連絡が届く。先に飲んでる。飾り気がないと言ってしまえばそれまでだが、そんな心理的な距離の近さを示すメッセージは気が楽だと安堵する。五条駅で下車して地上に向かう階段を一段ずつ進むたびに盆地特有の皮膚に張り付く湿度が増していく。外は雨が降っているのかもしれない。雨が降ればもう桜は見納めだろうとどこか浮ついた頭の片隅で思う。
五条通に出れば多量の水分を含んだ雲が暮れた空に覆いかぶさってはいるが天気はまだ持ちそうだ。ネイビーのカラーコートを脱いでシャツ姿になれば幾分かは涼しげな風が体に吹き付けてくる。通りを西へと高瀬川に向かって進む。心なしかその歩みが早足になっていることに気がついて、はやる気持ちの根底にあるのは久しぶりに恵に会えるという期待なのか、単に労働の疲れによって渇いた喉を潤したいだけなのか、自分自身にもその感情のありどころはつかみきれない。
高瀬川に沿う木屋町通の小路をマップアプリを頼りに進む。指定された居酒屋の引き戸を引けば、カウンターでジョッキを傾けている恵の姿が探すまでもなく目に入った。実年齢よりも若く見えるその外見は、本人が言うには神経が擦り切れるほど気を張り巡らせている努力の賜物に他ならないそうだ。ブラウンベージュのロングヘアには艶があり、そんな髪を耳にかけて覗かせるルビーのイヤリングは落ち着いた照明の光に反射してその存在を主張している。
応対に入る店員にあちらの女性と待ち合わせで、と目線を加えて伝えればすぐに恵の隣に通される。後ろからお待たせと声をかければ、彼女は久しぶりとすぐさま屈託のない笑顔を作ってみせる。その表情の瞬発力には流石、営業の女だといつも感心する。席について店員にビールを頼めば、恵も便乗してそのままつまみとなる品も頼んだ。
仕事は落ち着いたの、と問いかける。問いかけてすぐにありふれてつまらない話題だと反省する。仕事の繁忙期を理由に会うことを先延ばしにされていたから、存在を蔑ろにされていた恨みみたいなものを言葉に込めてみようと意地悪く思ってしまったのだ。だけどもそんな心情がこれまで彼女に伝わったためしはない。恵は問いかけに答えることもなく強引に自分の話を始める。
「ねぇ、吉野山の桜みて。旦那さんとドライブしてきたの」
スマホに保存された写真を見せられる。接写した桜の写真。舞い散る花びらを両手で掬おうとしている写真。桜の大木の下でパートナーと腕を組んでいる写真。こういうものを見せるとき、彼女はどんな気持ちを含ませているのだろうと思う。牽制なのか、妬かせたいのか、それとも単なる人生の暇つぶしの相手としてみくびっているのか、彼女だったら後者だろう。年が離れていて異性として意識されていないのは伝わるし、特段自分だって彼女に惚れ込んでいるわけでもないのだ。それでも、スマートフォンの液晶をスライドしていくその指に指先を重ねてみたいと欲望が湧くことがある。いまだって、彼女のそれをそのまま取り上げて運ばれてきたビールジョッキの中に沈めてしまえたら彼女はどんな反応をするんだろうなんて想像する。俺だけを見てと、指輪も外して来るくらいは気を利かせろよ、となじりたくなる。だけどそんなことをしてもきっと彼女は腹を抱えて大げさに笑い出すだけだろう。私のことそんなに好きなんだ、なんて茶化されて口をつぐむしかなくなる。
素材を引き立てる関西らしい味付けのつまみを肴にアルコールはサッポロから加茂錦へと移っていき、ほどよく酔いがまわってからは2人で上機嫌によく喋った。それでも会計を済ませて外に出れば、いったいどんな話題を語り合っていたのかすぐに忘れてしまう。忘れたことを留めようとして店を出てから、川沿いを散歩しようと恵に投げかける。相変わらず空には重たい雲が立ち込めていて春雷が遠くかすかに鳴っている。酔い覚ましに高瀬川を流れる花筏を見ながら歩くことは気の利いた提案だと思ったが、恵は嫌よ、と一言で拒否する。こんなジメジメしたなかを歩きたくない、と付け加える。
「それなら大通りまで送るよ」
「ここでいいわ、だって逆方向じゃない」
なにか言葉をつなげようとしたけど、適当な言葉は何も浮かばなかった。また会いましょう、楽しかったわと手を振って去って行く恵の姿を見送る。この季節の夜はまだ冷え込んで上着を羽織ってきてよかったと今更ながら思った。コートのポケットに手を突っ込んで高瀬川のほとりをひとりで南下していく。等間隔に設置された街灯の光が浅い水面を反射させていて、そこには散り落ちた桜の花びらが羽虫の死骸のように浮き上がっていた。(1943字)
