ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第28回――分散戦が崩した権威~元弘の乱と六波羅探題の滅亡
鎌倉幕府はなぜ崩れたのか――。
本稿では、「元弘の乱」から「六波羅探題の滅亡」までの流れを追いながら、その“崩壊の構造”を整理します。
後醍醐天皇の挙兵は、一見すると「中央 vs 幕府」という単純な対立に見えます。しかし実際には、船上山・千早城・各地の在地勢力といった小規模な拠点が分散して連動する戦いが展開されていました。
幕府は個々の戦闘では勝利しながらも、次々と現れる反幕府勢力に対応を強いられ、やがて御家人層の疲弊とともに権威を失っていきます。
そこに生まれたのが、「鎮圧すればするほど反発が増える」という負のスパイラルでした。
さらに決定的だったのが、足利尊氏の転換です。
彼の行動は単なる「裏切り」ではなく、当時の制度や正統性の中で選択された結果と見ることができます。
本稿では、こうした動きを通して、
・なぜ幕府は局地戦では勝ちながら崩壊したのか
・なぜ「小勢力」が大きな影響力を持ち得たのか
・尊氏は何を選び、どのような立場に移行したのか
といった点を、「制度」「信用」「分散」という視点から読み解いていきます。
鎌倉幕府滅亡は、単なる一大決戦の結果ではありません。
それは、複数の戦線に引き裂かれた構造の中で、徐々に崩れていった“必然”でもあったのです。
次回はいよいよ、後醍醐の帰還後に訪れる「新たな混乱」――建武政権の実態と、その崩壊の兆しを見ていきます。※約11000字
はじめに
前回は、後醍醐天皇の即位の背景を簡単に再確認しつつ、鎌倉幕府末期の状況から「元弘の変」に至るまでを概観しました。
いわゆる「元寇」後、より正確には「北条時宗」没後の鎌倉幕府は、構造的な制度疲労と政治的混乱が徐々に拡大していく局面にありました。
本来、「鎌倉幕府」は律令制の枠内において「軍事・警察機能」を担う存在でしたが、朝廷側の統治能力の相対的低下に伴い、特に西国における悪党追捕など、本来であれば朝廷が担うべき領域にまで関与するようになります。
この結果、御家人たちの負担は増大します。御家人は原則として自弁(自己負担)で奉公・軍役を行う存在であるため、動員の増加はそのまま経済的圧迫に直結し、借入の増加、さらには訴訟(相論)の急増を招きました。
中世社会には、現代のような安定的な収入構造が存在しないため、債務の履行は不安定であり、それがさらなる訴訟増加を呼び込むという循環が生じていたと考えられます。
一方、幕府中央においても問題が進行していました。
得宗専制の進行は、評定衆・引付衆といった合議・訴訟機関の機能を形骸化させ、意思決定の「ショートカット化」を常態化させます。その結果、実務能力の低下と訴訟処理能力の逼迫が同時に進行しました。
増大する案件に対応するために、さらに得宗専制に依存せざるを得なくなる――
こうした「ショートカット依存 → 機能低下 → さらなるショートカット依存」という負のスパイラルが形成されていたと捉えることができるでしょう。
これは単純化すれば「人材不足」とも言えますが、北条氏はこれまで他の有力御家人を排除することで体制を維持してきたため、人的リソースの拡張が構造的に困難でした。
すなわち、
「権力の安定」と「人的資源の多様性」はトレードオフの関係にあった
とも言えます。
こうした状況の中で発せられたのが「永仁の徳政令」です。
従来は御家人救済策と説明されることが多かったこの法令ですが、現在ではむしろ
〔訴訟処理の限界に対する制度的リセット〕
としての側面が重視されています。
債権・債務関係を一括して無効化すれば、それに伴う訴訟も消滅する――
極めて合理的ではあるものの、これは既存の契約秩序との深刻な衝突を引き起こしました。
結果として社会的混乱が拡大し、幕府は一部の措置を撤回せざるを得なくなります。また、この法令は非御家人層にも拡大解釈され、幕府の意図を超えて広範な影響を及ぼしました。
押井守監督の映画『紅い眼鏡』に
「正義を行えば、世界の半分を怒らせる」
という印象的なキャッチコピーがあります。
永仁の徳政令は、幕府にとっては制度維持と御家人救済を両立させようとする「正義」でした。
しかし、その影響が非御家人層にまで都合よく利用された結果、本来想定していなかった範囲にまで不満が拡大した――
この点は、制度の持つ「副作用」を象徴的に示していると言えるでしょう。
さらに重要なのは、朝廷側の変化です。
幕府への依存は、ついには本来王家の専権事項である皇位継承にまで及び、幕府がその裁定者として機能せざるを得ない状況が生まれます。
その背景には、承久の乱後の政治的再編や、後嵯峨天皇擁立における幕府の関与といった事情がありましたが、この構造はやがて大きな問題を孕むことになります。
後嵯峨上皇は、皇統の分裂という課題を充分に整理しきらないないまま、その調整を幕府に委ねる形で崩御します。
こうして生じたのが、「持明院統」と「大覚寺統」という二つの皇統の並立
でした。
そして幕府は、この両統の間に立つ「裁定者」として機能することを求められていきます。
しかし、この構造は極めて不安定でした。
両統はそれぞれ自らの優位を求めて幕府に働きかけ続け、幕府はその調整にリソースを割かれ続けます。
その結果、幕府は制度的にも政治的にも消耗を重ねていきますが、それでもなお、実効的な統治能力自体は大きく崩れてはいませんでした。
ここで重要なのは、
「制度が弱体化しても、完全には崩壊していない」
という中途半端な状態です。
これは、御成敗式目に代表される制度の蓄積と、それを支える北条氏の実務能力によって、辛うじて維持されていた秩序だったと言えるでしょう。
しかし、その基盤であったはずの「信用」は、徐々に揺らぎ始めていました。
後醍醐天皇の即位は、まさにこの
「制度は残っているが、信用は限界に近づいている」
というタイミングで起こります。

前回までの記事で述べたように、この「後醍醐天皇」の即位はやや変則的なものでした。
そもそも「両統迭立」の枠内では、「花園天皇」の春宮に立太子されるべきは、「後二条天皇」の第一皇子であり嫡流にあたる「邦良親王」とするのが自然です。
しかし、生来病弱であったとされる邦良親王の立太子を危ぶんだのか、大覚寺統の主導者であった後宇多院は、「後二条天皇」の異母弟である「尊治親王(後の後醍醐天皇)」を春宮としました。
これは、後宇多院が本命である邦良親王を温存し、既に成人して政治的能力も示していた尊治親王を「中継ぎ」とすることで、大覚寺統の嫡流継承を確実にしようとした構想であったと考えられています。
ここで、先に掲げた系図をご覧いただくと、「大覚寺統」の側に枝分かれが多いことが分かります。
もちろん、この図は歴史的に重要な人物のみを抽出したものであり、実際にはさらに多くの子女が存在します。しかし、それを差し引いてもなお、大覚寺統の内部における分岐の多さは際立っています。
これはすなわち、皇位継承をめぐる内部対立が大覚寺統においてより顕著であったことを示しています。
言い換えれば、後醍醐即位の時点で大覚寺統は、
後二条系
後醍醐系
亀山院系(恒明親王)
といった複数の継承ラインを抱え、継承候補が並立する状態にあったと整理することができます。
一方、持明院統は基本的に嫡流継承を維持しており、花園天皇のような一時的な例外はあるものの、構造としては比較的安定していました。
この状況を踏まえると、後宇多院は持明院統における「花園天皇」のような中継ぎ的役割を、後醍醐にも期待していた可能性があります。
本シリーズ第18回でも述べたように、
即位後の邦良を、上皇となった後醍醐が支える体制
すなわち、
「大覚寺統版・花園―後伏見モデル」
のような構想があったと考えることもできるでしょう(あくまで本シリーズにおける独自の意見です)。
しかし、後宇多院にとって最大の誤算は、後醍醐自身に「中継ぎに徹する意思がほぼ無かった」と考えられる点にあります。
後醍醐の真意は、自身の皇子への皇位継承の実現にあったと見るのが現在では有力です。
もっとも、後宇多院の生前においてはその意図が表面化することはなく、両者の関係は比較的良好であったと考えられます。
状況が大きく動くのは、後宇多院の崩御後です。
後醍醐と邦良親王を中心とする対立は徐々に顕在化し、その過程で発生したのが「正中の変」と呼ばれる疑獄事件でした。
本シリーズでは、この事件を従来のような「後醍醐による最初の討幕計画」とは捉えていません。
むしろ、気心の知れた近臣との私的な場での多少過激な発言が誇張・伝播され、結果として「謀反」として扱われた可能性が高いと考えています。
少なくともこの段階では、後醍醐にとっての最大の障害は幕府ではなく、
同じ大覚寺統内部の継承争いにあったと見る方が自然でしょう。
しかし、この構図を一変させる出来事が起こります。
正中の変の約2年後、邦良親王が若くして薨去したのです。
この結果、春宮をめぐる争いは一気に激化します。
持明院統からは「量仁親王(後の光厳天皇)」が候補として立つ一方で、大覚寺統からは
邦省(くにみ)親王(邦良親王の同母弟)
康仁(やすひと)親王(邦良親王の皇子)
尊良(たかよし)親王(後醍醐天皇の皇子)
と複数の候補が乱立しました。
これはすなわち、
大覚寺統内部における継承争いの顕在化の一例
に他なりません。
最終的に幕府が選んだのは量仁親王でした。
この裁定によって、後醍醐の春宮には持明院統の皇子が立つこととなり、後醍醐の構想は大きく挫折します。
さらに、期待を寄せていた世良親王の早逝も重なり、後醍醐にとって状況は決定的に不利なものとなりました。
この一連の流れを踏まえると、後醍醐が幕府を「障害」として強く意識するようになった契機の一つが、この春宮問題にあった可能性は高いでしょう。
少なくとも、
それまで「利用可能な存在」であった幕府が、
自らの目的を阻む存在として認識され始めた転換点
と捉えることはできると考えられます。
そして今度は、本当に後醍醐天皇が積極的に関与・主導したとされる事件が「元弘の変(乱)」です。
この点については前回の記事でやや詳しく触れていますのでここでは繰り返しませんが、「変」と「乱」が併記される理由について簡単に整理しておきます。
「吉田定房による密告」によって倒幕計画が発覚して以降、「建武政権成立」に至るまでの一連の流れ全体を「元弘の乱」と捉える見方があり、この場合「元弘の変」は「元弘の乱」に含まれる政治的事件を指す概念となります。
ただし、両者は必ずしも厳密に区別されているわけではありません。
学術的な厳密性を多少離れた理解としては、
武力衝突に至ったものを「乱」、そうでないものを「変」
と捉えておけば、大きくは外れないイメージになります。
例えば、前者の分かりやすい例としては江戸後期の「大塩平八郎の乱(変とは言わない)」、後者の例としては平安期の「応天門の変(乱とは言わない)」などが挙げられるでしょう。
この整理に従えば、
「計画発覚から挙兵に至るまで」を「元弘の変」、
「笠置山での籠城戦から敗北に至る過程」を「元弘の乱」
と捉えることも可能ですが、あくまで本シリーズにおける便宜的な整理であり、学術的な定義として保証されるものではありません。
ともあれ、「笠置寺」に籠った後醍醐方は幕府の大軍を相手に地の利を活かして奮戦しますが、最終的には衆寡敵せず敗北し、後醍醐自身は捕縛されて京へ送還されます。
一方で、河内国において挙兵した「楠木正成」はなお抵抗を続け、また後醍醐の皇子である尊雲法親王(後の護良親王)もこの戦乱の中で姿をくらまします。
結果として、これらの勢力を完全には制圧できなかったことが、後の展開において幕府にとって大きな意味を持つことになります。
幕府の終わりなき戦い
捕らえられた後醍醐は京に送還されますが、この時点で既に量仁親王(後の光厳天皇)が践祚しており、建前上は後醍醐は「前天皇」の立場に置かれます。
教科書などでは「後醍醐天皇を廃位し~」といった説明がされることもありますが、律令的な原則に立てば、至尊である天皇を第三者が一方的に退位させる制度は存在しません。
建前上、天皇の地位は「自らの意思による譲位」によってのみ移動するものとされています。
この時、後醍醐が持ち出したとされる「剣璽(けんじ)」――すなわち三種の神器のうち「剣」と「勾玉」――の扱いが問題となります。
本来、これらの神器は践祚の正統性を裏付ける重要な要素であり、その継承が「天皇位の移動」と強く結びついていました。
そのため、後醍醐が神器を保持したままであったことは、本来であれば光厳天皇の正統性に重大な疑義を生じさせる要因となります。
しかし現実には、幕府側はこれを問題とせず、後醍醐は既に退位したものとみなすという処理を行ったと考えられます。
この際に重要となるのが、神器を伴わずに践祚した「後鳥羽天皇」の先例でした。
かくして後醍醐は、形式上は退位したものと扱われ、「上皇」とみなされた上で、後鳥羽上皇の先例に倣い隠岐へ配流されます。
この処分に際して、幕府は「叡慮たるべし」として朝廷側に判断を委ねようとしますが、『花園天皇宸記』によれば、後伏見院はこれを「関東の計らいたるべし」として事実上幕府側に委ねています。
このあたりにも、当時の朝廷と幕府の関係性がよく表れています。
一方で、後醍醐の皇子たちも各地に分散されます。
尊良親王は土佐へ、「恒良(つねよし)親王」は西園寺公宗のもとに預けられ、「成良(なりよし)親王」も有力貴族の管理下に置かれた可能性があります。
また、後に護良親王となる尊雲法親王はこの時点では捕縛されず、各地を転々としながら活動を続けます。
通常であれば、このようにして政治的基盤を失った後醍醐が再起する可能性はほとんどありません。
しかし、後醍醐はここで終わりませんでした。
河内国では楠木正成が再び挙兵し、下赤坂城を奪還、さらに千早城を築城して幕府軍に抵抗を続けます。
また、尊雲法親王も還俗して護良と名乗り、「大和国」を中心に潜伏しながら討幕を呼びかける令旨を各地に発給します。
さらに播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、幕府に反旗を翻しました。
これらの勢力はいずれも、当時の武士社会においては主流とは言い難い「周辺的な勢力」でした。
しかし、このような小勢力は機動力に優れ、いわゆるゲリラ的戦術において大きな効果を発揮します。
幕府軍は各地でこれらの勢力に翻弄され、鎮圧に手間取ることになります。
特に楠木正成による千早城の抵抗は、幕府軍の兵力を長期間拘束する結果となりました。
こうして「短期決戦で終わるはずだった戦い」は長期化し、御家人層の疲弊が進みます。
その過程で、幕府――より正確には北条得宗家――の権威は徐々に揺らいでいきました。
さらに、護良親王による令旨の発給は、各地の武士に対して「反北条」の大義名分を与える効果を持っていたと考えられます。
例えば『南北朝の動乱―主要合戦全録』(渡邊大門編・星海社刊)に収録された令旨では、北条高時を討つことが強調されており、これは承久の乱における後鳥羽上皇の論理と類似しています。
すなわち、
幕府そのものではなく、北条氏の専横を討つ
という構図です。
これにより、御家人たちは
「将軍に背くのではなく、不当な体制を排除する」
という形で行動を正当化することが可能となります。
それでもなお、主流の御家人層の多くは直ちに動きませんでした。
これは、幕府が築いてきた制度に対する「信用」が、なお一定程度維持されていたことを示していると考えられます。
こうした中、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆国船上山へと移ります。
そして護良親王と同様に、各地へ文書を発給し続けます。

本来、「綸旨」は天皇の意思を伝える文書であり、厳密には既に譲位したと扱われていた後醍醐が発するものではありません。
しかし、後醍醐自身は譲位を認めていなかった可能性が高く、その意味では彼にとっては依然として「綸旨」であったとも言えます。
また、形式上は「奉書」であるべき綸旨を、自筆で発給する例も見られ、ここには制度的な整合性(や慣習)よりも実効性を優先する後醍醐の姿勢が表れています。
こうして、正成や護良らによる抵抗、そして後醍醐自身の再起の動きによって、幕府は対応に追われ続けることになります。
その結果として、
鎮圧の長期化
御家人層の更なる疲弊
(北条氏の)権威の低下
が連鎖的に進行し、反幕府的な動きが各地で拡大していきました。
この一連の状況は、
「鎮圧すればするほど反発が増幅する」
という負のスパイラルとして捉えることができます。
そして簡単に言えば、
この時点で「後醍醐に流れが来ていた」
と表現することもできるでしょう。
”尊氏”立つ
この流れを決定付けたのが、足利尊氏です(正確にはこの時点では高氏ですが、本シリーズでは便宜上「尊氏」で統一します)。
後醍醐方の反幕府行動が六波羅探題の手に余り始めたと判断した幕府は、鎌倉から主力級の援軍を派遣します。
その軍勢を率いたのが、江間高家(名越流北条氏)と足利尊氏でした。
彼らは伯耆国方面へ向かう途上にあったと考えられますが、高家は京近郊(山城国南部付近)で後醍醐方の軍勢と交戦し、早い段階で討ち死にしてしまいます。
高家の年齢は不明ですが、『太平記』に「気早の若武者」とあることや、「高」の字が北条高時の偏諱(一字拝領)と考えられる点から比較的若年であった可能性が高く、おそらく20代前半くらいの武将であったと推測されます。
このような重要な軍に若年の指揮官を投入せざるを得なかった点は、当時の北条氏における人的リソースの減少を示唆する要素の一つと見ることもできるでしょう。
この高家の敗死を受けて、尊氏は軍を反転させ、丹波国篠村八幡宮において反北条の旗幟を明らかにしたと伝えられます。
ただし、これは突発的な裏切りではなく、それ以前から後醍醐方との接触があり、一定の決断が固まっていたと考えられています。
本シリーズ第23回でも触れた通り、足利氏は「職の体系」の中で大覚寺統と経済的・制度的な接点を持っていた可能性があり、そこに行動の背景を求めることができます。
さらに補助線として重要なのが、尊氏の母・上杉清子の存在です。
上杉氏はもともと藤原北家勧修寺流に属する下級貴族であり、後に鎌倉に下向して武士化した一族です(最初の宮将軍である「宗尊親王」に従ったものです)。そしてこの上杉氏がかつて「家司」として仕えていたのが、同じ藤原北家魚名流の嫡流である四条家でした。
四条家は大覚寺統と関係の深い有力貴族であり、この「四条―上杉」あるいは「四条―足利」という間接的なネットワークを通じて、後醍醐方との接触が形成された可能性も考えられます。
実際に、尊氏に討幕を進言した人物の一人として上杉氏の関与が指摘されています。
最終的な決断の要因を特定することはできませんが、少なくとも尊氏の行動は思いつきなどではなく、長期的な政治的・社会的関係の中で形成されたものであったと言えるでしょう。
尊氏が篠村八幡宮で挙兵した理由についてはいくつか考えられます。
一つは、八幡宮が源氏の氏神として尊崇されていた点です。これは「源氏の棟梁を意識した」というよりも、伝統的な信仰に基づく自然な行動と見ることができます(尊氏はここに願文を奉納しています)。
また、この地には千種忠顕(ちぐさ・ただあき)ら後醍醐方の勢力が展開しており、合流を意図した可能性も高いでしょう。
さらに重要なのが、ここで尊氏が広範囲に軍勢催促を行った点です。
近隣だけでなく遠く九州にまで呼びかけを行っていることから、単なる局地戦としてではなく、広域的な「倒幕(北条氏排除)」を視野に入れていた可能性も考えられます。
こうして尊氏は集まった兵力をもとに六波羅探題を攻撃し、これを撃破します。
探題方は光厳天皇ら王家の要人を伴って鎌倉への撤退を図りますが、途中で在地勢力(野伏など)の妨害を受け、最終的には北条仲時以下多数が自害したと伝えられます(なお、この経緯や日付については史料により若干の差異があります)。
かくして元弘3年/正慶2年(1333年)5月、六波羅探題は滅亡します。
尊氏は京都を掌握し、治安維持や人事推薦を通じて武士層と朝廷を仲介する役割を担うようになります。
ここで重要なのは、尊氏が功績ある武士を「後醍醐天皇」に対して推挙している点です。
これは、少なくとも行動上は
王権の正統性を大覚寺統側に置いた
ことを意味します。
簡単に言うと、名分の上では自らの政治的基盤を鎌倉(幕府)から後醍醐へと移行させたことを意味します。
しばしば「尊氏は幕府を裏切った」と表現されますが、厳密にはこの理解は単純化に過ぎます。
最終的に尊氏が排除したのは将軍ではなく、北条得宗家による支配構造でした。
また、御家人と将軍の関係は本質的には契約的な性格を持っており、契約主体である将軍が実質的に機能していない状況では、新たな政治的枠組みを選択することは必ずしも不自然ではありません。
この意味で、尊氏の行動は「裏切り」というよりも政治的契約の再編と捉える方が適切でしょう。
そしてこの事実は逆に、
「幕府という制度そのものの需要は依然として存在していた」
ことを示しています。
武士たちが求めていたのは単なる土地(報償・利権)だけではなく、それを保証し調整する制度――すなわち幕府的な機構そのものでした。
この「制度需要」と、後醍醐政権の構想との齟齬こそが、後の展開を決定付ける要因となっていきます。
そして元弘3年(正慶2年)5月28日、後醍醐はついに京都への帰還を果たします。
おわりに
以上、「元弘の変(乱)」の顛末から「六波羅探題の滅亡」辺りまでを概観してみました。
まずは前回のまとめとして、当時の「鎌倉幕府」がおかれていた状況を確認しつつ、後醍醐登極(即位)の背景、父・後宇多院との関係性、そして「正中の変」から「元弘の変(乱)」に至る流れを整理しました。
当時の鎌倉幕府は、御家人層の構造的疲弊と「得宗専制」というショートカット政治の常態化によって、制度疲労が限界に達しつつあったと捉えることができます。
加えて、朝廷側の幕府依存も進行し、それは皇位継承においても幕府の裁定に依存することが常態化していきます。
このような状況の中で、政治的な取引と妥協の結果として後醍醐天皇は即位します。
これを後宇多院の深慮遠謀と見ることもできますが、大覚寺統内部の継承ラインが複数に分裂していた現実を踏まえれば、むしろ「選択肢の中で最適に近い(と思われる)手」を打った結果と見る方が自然でしょう。
本シリーズでは、この一時的な庶流継承について、
即位後の邦良を、上皇となった後醍醐が支える体制
を後宇多院が構想していた可能性を指摘しています。
ただし、後醍醐本人にはそのような意思はほとんどなかったと考えられます。
彼の意図はあくまで「自身の皇子への皇位継承」であり、それは後宇多院の死後に顕在化していきます。
その対立が表面化する中で発生したのが「正中の変」です。
本シリーズではこれを、後醍醐による本格的な討幕計画ではなく、内輪の政治的発言が誇張されて伝わった疑獄事件と捉えています。
そして、邦良親王の薨去と春宮選定の結果と後継者として期待を寄せていた「世良(よよし)親王」の早逝により、後醍醐の構想が事実上断たれた時点が、彼の方針転換の契機であった可能性が高いと考えています。
こうして後醍醐の積極関与・主導による討幕行動として表面化したのが「元弘の変(乱)」です。
笠置山での敗北により後醍醐は捕縛され京へ送還されますが、この時点で持明院統の量仁親王が践祚していました。
京に戻された後醍醐は、持ち出したとされる三種の神器のうち剣と勾玉(いわゆる剣璽)を量仁親王に引き渡したとされ、これにより譲位の正当(正統)性が追認されたものとみなされた可能性があります。
その後の処分については、『花園天皇宸記』に見られるように、朝廷と幕府の間で責任の押し付け合いのような形となり、最終的には幕府主導で処理されることになります。
こうして後醍醐は、明確な手続きを経たわけではないものの、事実上「上皇とみなされた存在」として隠岐へ配流されます。
通常であれば、ここで歴史の表舞台から退場するはずでした。
しかし後醍醐は諦めませんでした。
護良親王による「倒幕(北条氏排除)」を呼びかける令旨の発給、楠木正成の再挙兵、さらに赤松氏の呼応などにより、各地で小規模ながら反幕府勢力が拡大していきます。
これらは個々の戦闘では幕府が優勢であったものの、分散した小勢力による継続的抵抗により、鎮圧は長期化します。
結果として、御家人層の疲弊と北条氏の権威低下が進行し、
鎮圧すればするほど反発が増える
という負のスパイラルが生まれていきます。
この流れの中で後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆国船上山へ移ります。

そしてここでも綸旨を発給し続け、状況は一気に後醍醐側へ傾いていきます。
この段階で幕府は鎌倉から大軍を派遣します。
これを率いたのが江間高家と足利尊氏でした。
しかし高家は早期に戦死し、その後尊氏は丹波国篠村八幡宮で反北条の旗を掲げます。
この行動について、本シリーズでは尊氏に明確な長期的政治構想(或いは野心)があったとは考えておらず、むしろ状況の中で最適と思われる選択を積み重ねた結果と捉えています。
彼の行動は「野心的計画」というよりも、より短期的・実務的な判断の連続であった可能性が高いでしょう。
尊氏は集結した勢力を率いて六波羅探題を攻撃し、これを滅ぼします。
探題側は鎌倉への退却を試みるものの失敗し、多くが自害して滅亡します。
ここで重要なのは、尊氏や御家人たちが必ずしも「幕府を滅ぼした」と認識していたわけではないと考えられる点です。
彼らが排除したのはあくまで北条氏であり、土地支配や権利関係を調整する制度としての「幕府」自体の必要性は依然として存在していたと捉えられます。
だからこそ、尊氏は武士を後醍醐へ推挙し、両者の間に立つ調整役として機能し始めます。
しかし、その構造はやがて大きな齟齬を生むことになります。
そして元弘3年(1333年)、後醍醐天皇はついに京へ帰還を果たします。
久しぶりに京に戻った後醍醐が目にした現実とは何であったのか――。
次回も引き続き、編年風にその後の展開を追っていきたいと思います。
それでは、次回もお楽しみに。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
