創作とは「行為」である──生成AIとプロンプトの創作性について
「生成AIは創作なのか?」という問いに対し、私は一貫して「創作である」と考えています。
その根拠となるのは、「創作とは、個人の内面を何らかのかたちで表現する“行為”である」という定義です。
本記事では、プロンプトの性質や創作技術との共通点、生成AIの可能性と課題を交えながら、創作の本質と生成AIの位置づけについて考えてみました。
創作に携わる方、生成AIの扱いに迷いを感じている方にとって、ひとつの視点になれば幸いです。※約3300字
はじめに:生成AIは創作たり得るか?
以前、いくつかのnote記事で
「生成AIは創作たり得るのか?」
「プロンプトは創作行為と呼べるのか?」
──といった問いについて、自分なりの意見を述べてきました。
私は一貫して、
「生成AIもまた創作である」
「プロンプトは創作行為そのものである」
という立場を取っています。
そして、その考えはいまも変わっていません。
今回は、あらためて
生成AIにおける「創作」とは何か?を見つめ直し、
そこから浮かび上がる創作の本質について、
少し掘り下げてみたいと思います。
「創作」とは何か──辞書と私の定義
私が「生成AIもまた“創作”である」と考える根拠は、
そもそも「創作とは何か」という問いに対する、自分なりの定義にあります。
私は創作を以下のように定義しています。
「個人の内面にある思想・信条・感情・イメージなどを、何らかの実体を持つ形で表現する行為」
一方で、一般的な辞書──たとえばデジタル大辞泉──では、「創作」は次のように説明されています。
「文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。」
この説明は「芸術性」や「独創性」に重きを置いていますが、
私の定義はあくまで「行為そのもの」に着目したものです。
「芸術」や「独創」という言葉は主観的で曖昧な側面もあるため、
それらを避け、よりシンプルに「つくり出す行為」に焦点を当てた形です。
それでも本質的には、両者はほぼ同じことを指していると私は考えています。
生成AIは「表現手段のひとつ」である
このような定義に基づくならば、生成AIもまた「表現手段の一つ」に過ぎません。
「絵」「音楽」「ダンス」「彫刻」「写真」──
表現の手段は数多くありますが、
その中で「生成AIだけは創作ではない」と断言できる明確な論理的根拠があるでしょうか?
「創作」があくまで「内面の表現行為」であるならば、
生成AIは、カメラで情景を切り取ることと何ら変わらないのではないでしょうか。
「プロンプトは指示だから創作ではない」論の誤解
生成AIには「プロンプト」という、AIに対して生成を促す指示文が必要です。
この点をもって、
「人間は指示を出しているだけで、作っているのはAIだから創作ではない」
という主張がなされることがあります。
確かに一見、もっともらしい意見に見えますが──
では、この論理に従えば「カメラ」はどうなるのでしょうか?
写真家は「カメラを構えてシャッターを押すだけ」です。
あとは光学やセンサーが働いて、画像として現れる。
この工程に、人間の「手」や「創作の意思」は直接介在しているように見えません。
同様に、デジタルイラストも「手で描いているように見える」だけで、
本質的にはプログラムに描画命令を出しているにすぎません。
描かれた画像は、数字や記号の羅列として記録されているだけなのです。
それでも、カメラやペイントソフトを使った作品が「創作ではない」とは言いません。
プロンプトもまた、表現の手段のひとつにすぎないのです。
プロンプトは「創作技術」である
私は「プロンプト作成は創作行為そのものである」と考えています。
なぜなら、プロンプトとは「頭の中のイメージを言語化する行為」だからです。
この「言語化」が詳細かつ適切であればあるほど、
生成AIはイメージに極めて近い、あるいはそれを超える成果物を生み出す可能性を持ちます。
逆に、曖昧で不正確なプロンプトでは、
出力される作品は「それなり」か「期待外れ」なものになるかもしれません。
ただし、自分では満足いかない作品でも、
他者の評価と一致するとは限らない──
これはAIに限らず、すべての創作に共通する現象です。
「技術」としてのプロンプトとセンスの話
つまり、プロンプトとは「創作技術」そのものなのです。
イラストならデッサン、遠近法、色彩設計など。
音楽なら和声、構成、演奏技術。
文芸なら構成力、語彙、文体。
それぞれに必要な技術の積み重ねがあります。
プロンプトも同じです。
「イメージをいかに正確に言語化するか」という技術がそこにはあります。
だからこそ、プロンプト作成は創作行為そのものであると私は考えています。
もしそうでないというなら、
「楽譜を書く」「脚本を書く」ことも創作とは言えなくなってしまうでしょう。
センスとは何か──創造力 × 表現力
したがって、生成AIによる創作においても、
最終的に問われるのは次の二つです。
頭の中のイメージの新規性・豊かさ・創造性
それを正確にプロンプトとして表現する技術
この二つが合わさって、はじめて「センス」や「個性」が立ち現れるのだと私は考えています。
もし、極めて独創的なイメージを、
過不足なくプロンプトに落とし込むことができたなら──
それはもはや「新しい表現」に限りなく近づくのではないでしょうか。
生成AIは「知の拡張器」です。
人間の創作知と、AIの蓄積した知とが適切に結びついたとき、
そこに生まれるのは──
新しい芸術、新しい創造のかたちです。
私はそれを、「創発(emergence)」のようなものと表現したいと思います。
民主化された創作と、その限界
とはいえ、たとえ豊かなイメージを持っていたとしても、
プロンプトが不適切、または不充分なものであれば成果物は凡庸な水準に留まることが多いでしょう。
もちろん偶然の産物として、
他者から予想外の評価を得ることはあります。
ですがそれは偶発的評価であり、再現性は期待できません。
生成AIは本質的に、
「作品クオリティの最低ラインを均質化する技術」でもあります。
これが「創作の民主化」と呼ばれる理由です。
なぜなら、かつては技術の壁が高く、誰もが創作に参加できるわけではなかったからです。
プロンプトという手段を得たことで、
“誰でも”創作が可能になった──
それはたしかに素晴らしいことです。
しかし、結局のところ──
問われるのは「センス」と「姿勢」です。
そこが乏しければ、創作はすぐに行き詰まり、
喜びも感動も、得られなくなるでしょう。
「共存」のために必要なこと
「創作の喜び」や「感動」は、
誰にとってもかけがえのないものです。
そして生成AIによって、
表面的なクオリティが一定担保されるという事実は、
作品を「発表すること」への心理的ハードルを下げる効果も持っています。
その結果、ジャンルを問わず、
粗製乱造的な作品が溢れ、発表の場が圧迫されるという問題が発生します。
これは、生成AIが持つ圧倒的な生産力という特性が引き起こす構造的な現象です。
この「非対称性」を踏まえ、私はこれまで一貫して、
人間の創作と生成AIの創作は「発表の場を分けるべき」と主張してきました。
対立ではなく、分離による共存。
その方が、両者にとって幸せな関係になりうる。
私はそう信じています。
おわりに──創作の未来へ
以上、生成AIが創作たり得ること、
またプロンプトが創作行為であることについて、
私なりの考察と例証をまとめてみました。
重要なのは、
「創作とは行為そのものである」という視点に立つことです。
そうである限り、AIであれ写真であれ、その本質は変わらないのです。
「創作の喜び」や「感動」は、誰にとっても大切なものです。
しかしその一方で、生成AIの特性ゆえに発生する創作の場の圧迫という問題も見過ごせません。
それでも、私は信じています。
人間と生成AIは、創作において共存できる。
そして、生成AIという「知の拡張器」は、
新しい芸術や表現の可能性を広げるツールになり得る。
このささやかな一文が、
そのようなより良い未来への小さなヒントになれば、幸いです。
