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生成AIは創作たり得るか──創作とは何かを改めて考える

生成AIで作られた作品は「創作」と言えるのか?
本稿ではこの問いに対して「創作たり得る」という立場から、創作とは何か、人間の創作行為とは何かを順を追って考察していきます。哲学的な定義から現代の表現実態、そして生成AIの限界と可能性まで──一つの立場を丁寧に整理してみました。


前回のnote「生成AIの真の脅威とは何か」では、「生成AIの作品は創作なのか?」という問いにはあえて立ち入りませんでした。というのも、あの記事の本旨は創作物の価値ではなく、生成AIが社会や文化にもたらす影響に焦点を当てていたからです。

しかし、この問い──「生成AIの作品は創作たり得るのか?」──は、避けて通るには惜しい、非常に根源的なテーマだとも感じています。

そこで今回は、この問題について私なりの立場と考え方を整理してみようと思います。
最初に立場を明示しておきますが、私は「生成AIの作品は創作たり得る」と考えています。以下、その理由について順を追って述べていきます。

創作とは何か──まず定義から考える

そもそも、「創作」とは何なのでしょうか。

私はこれを、「個人の内面にある思想・信条・感情・イメージなどを、何らかの実体を持つ形で表現する行為」と考えています。

つまり、自分の中にある何か──たとえばパッションや思索、あるいは空想といったものを、「絵にする」「音楽にする」「文章にする」「踊りにする」といった形で外在化すること。それこそが創作です。

この理解において、生成AIは単なるツールあるいは媒体に過ぎません。
AIを使ったからといって、それだけで「創作でない」とは言えないのです。

たとえば、イラストレーターがペンタブレットやPhotoshopを使って絵を描いたとしても、それが「創作ではない」とは誰も言わないでしょう。
それと同様に、生成AIの使用によって創作性が否定されるという主張には、根拠がないと考えます。


人間の創作行為とは──模倣と再構成による創意

次に、こうした「創作」の定義に基づいて、人間が実際に行っている「創作行為」とはどのようなものかを考えてみます。

現代において、「まったく新しい表現形式」や「過去に一度も存在しなかった完全に独創的なアイデア」が生まれることは、実のところ非常に稀です。

「すべてのドラマの筋書きは、シェイクスピアがすでにやり尽くした」──これは創作論においてしばしば引き合いに出される言葉です。
ちなみに音楽の世界では、「バッハがすべてやり尽くした」と言われることもあります。

このように考えると、現代の創作行為とは「既存の創作物の組み合わせによる創意」や「模倣の創意」によって成り立っていると表現するのが妥当だと思われます。

念のため補足しておくと、ここで言う「模倣」は「模写」とは異なります。
「模写」が単なる表面的な写しにすぎないのに対し、「模倣」は、既存の表現を自分の中で咀嚼し、新たな理解・解釈を通して再構成するという、れっきとした創作行為です。

このような理解に立てば、生成AIによる創作とは、まさにこの「組み合わせの創意」の領域において最大限の力を発揮するツールであると、私は考えます。

AIは創作知の拡張器である

生成AIは、膨大な学習データに基づいて動作します。
ユーザーが「自分の中の何か」を形にしたいと思ったとき、その最初のステップは、AIに対して「プロンプト」と呼ばれる指示文を与えることです。

このプロンプトによって、AIは「何を」「どういう雰囲気で」生成するかを判断します。

もちろん、プロンプトの工夫や選択には創意が含まれうるのは事実ですが、ここで私が強調したいのは、創作とはプロンプトという道具の選択そのものではなく、「それを用いて何を表現しようとしたか」という行為の全体に宿るという点です。

極端に言えば、プロンプトの指定は、絵を描く際に「丸筆を使うか平筆を使うか」といった手段の選択に近いものです。
創作性は、「その手段を通じて何を形にしようとしたか」という意志にこそ宿るのだと言えるでしょう。

そしてAIは、プロンプトに基づいて、モデル内部に蓄積された膨大な知識(創作知)をもとに、新たな組み合わせとして生成物を出力します。
これはまさに、「人間が行っている組み合わせの創意」と同様のプロセスであり、違いがあるとすれば、それが内在しているか、外在しているかだけです。

ゆえに、生成AIとは人間の創作知・創意の「拡張器」であると表現することができます。
この拡張によって、誰もが創作行為に参加できるようになったという点は、技術的にも文化的にも非常に意義深い変化です。


限界と可能性──創作における偶然性も含めて

もちろん、生成AIには限界もあります。
現時点では、AIがゼロから全く新しい概念や表現を創出することはできません。
あくまで、既存の情報(表現)の組み合わせに基づいた出力であり、「真に新しい創造」はいまだ人間にしか担えない領域です。

また、「誰でも創作行為ができるようになった」とは言っても、「自分の中の何か」をAIに適切に伝えられるかどうかには、個人差があります。

この差を生むのが、いわゆるプロンプト技術です。
適切で効果的なプロンプトを使えたとき、生成AIは想像以上に高品質で創造的な成果を出す可能性を持っています。

さらに面白いのは、プロンプト中のスペルミスや文脈のズレといった「偶然」から、意図しない創意が生まれることがあるという点です。
こうした偶発的な創造性は、既存の枠組みを超える表現が生まれる可能性を内包しており、生成AIの創作性をさらに興味深いものにしています。


小結論──生成AIは創作たり得る

このように、「創作とは行為そのものである」という定義から見ても、また現代における人間の創作行為の実態から見ても、生成AIが関与する表現を創作として否定することはできないと私は考えます。

むしろ、そこには人間の意図、選択、試行錯誤といった要素が確かに存在しており、創作と呼ぶに足る行為が成立していると判断すべきです。

したがって、生成AIによって生み出された成果物は「創作物」たり得る。
そして、生成AIという技術もまた、「創作を行うための手段」として「創作たり得る」存在である──それが私の立場です。


法的著作物との違いについて

ただし、ここまで述べてきた論理と結論は、あくまで「概念上の創作性」に関するものです。
「法的に著作物として認められるかどうか」──すなわち著作権の対象となるかどうかという問題とは、明確に区別して考える必要があります。

この点については現在も世界中で議論が続いており、私自身も法の専門家ではないため、法的な妥当性について断定する(できる)立場にはありません。

ただし、「概念的な創作物」と「法律的に保護される著作物」とが異なるレイヤーの問題であるならば、
少なくとも本稿で述べてきたような意味において、「生成AIは創作たり得る」という立場は論理的に充分成立すると私は考えます。


最後に──創作性への期待と信頼

なお、本稿ではAIの学習の是非については論じていません。
あくまで「生成AIの創作性」についての考察であり、学習問題は本旨から外れるためです。
この問題についての私の立場や意見は、過去のnoteやブログでも触れていますので、ご関心のある方はそちらをご参照ください。

ともあれ、私は自身の理解に基づき、そして何より実際に生成AIで創作を行っている立場からも、生成AIの創作性と可能性には大きな期待と希望を抱いています。

生成AIという技術は、そう遠くない未来に、一つの創作ジャンルあるいは創作手段として、文化的にも確固たる地位を築くことになるだろう──私はそのように確信をしているのです。

【参考リンク】


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