信心が足りない欠陥人間。信仰心がなくなっても欠乏感からは逃れられない。
↑ひとつ前の記事では、「福運」があれば幸せな結婚ができるよって話を書いてます。
幸せな結婚といっても、あくまで「創価的に」ですけど。
で、今回はその話ともつながってくるんですが、創価内では「福運がある/ない」は、「信心が足りている/足りていない」とほぼ同じ使いかた。
信心が足りていれば福運はおのずと積みあがり、信心が足りていなければ福運もない。
創価学会への信仰心と福運は、比例するわけです。
わたしが恋愛ひいては結婚がうまくいかないとき。
母親は「あんたの信心が足らんからや!」と言い聞かせてきました。
信心が足りないので、お題目を何時間も唱えることをさせたり、聖教新聞や本を読ませたり。それでもダメなときは組織の幹部を呼んでアドバイスを求めたり。
創価的にヨシとされる行いによって信仰心を養えば、「信心が足りている」ことになり、そのおかげで「福運は積まれる」という教え。
ていうかね、恋愛して結婚したいだけやねん!
なんで話がすりかわっとんねん!
って書いてて思う…
当時のわたしは、そんなことすら気づかずに、母親のいうとおりにやってましたけどね。
もちろん、どちらも最終的には「わたしの幸せ」を目指してるわけですし、その手段として宗教があったり、結婚があったりするんです。
だけど、今なら言える!
宗教のために宗教やってたし、宗教のために幸せな結婚をしなきゃならなかった。
だってさ、創価学会員たるもの、そうやって世間に知らしめることが使命なんだもん。
あー、こわいこわい。
ここからは、わたしの心の内。
信心が足りないっていわれるたびに、「わたしという人間が足りてない」と、頭のなかでは変換されていきます。
親や創価側がいうところの「足りていない」は、信仰する前向きな心。
が、いつからか「わたしが足りない欠陥人間」みたいな解釈になっていたんです。
そうなると自分を責めるんですよね、脳みそが勝手に。
足りないから年がら年中宗教やって、終わりがこない。
宗教やってる以上満たされることがなく、いわゆる「不足感」「欠乏感」がデフォルトで生きてくことになる。
なんだそれ。宗教をやればやるほど、見えないゴールを延々と探してるだけじゃねーか。
「信心が足りない」という呪いから抜けられたのは、結婚して実家を離れて3年くらいたってからかな。
創価のない暮らしでも、幸せな日もあれば不幸な日もあって、そこに創価があるとかないとかぜんぜん関係ないよねって実感できてからでした。
信心の有無で結婚相手を選んだり、自分の好きという大切な感情にフタをしたり、なんてアホなことをしたんだと後悔しかありません。
それに気づいたのは、40歳をとっくに過ぎてました。
いっぽうで、信心が足りない呪いから脱却できたものの、「欠乏感」とか「不足感」はひきづりがち。
創価とは無縁の暮らしをもう10年以上やってますけど、思考のクセは残念ながらなかなか治りませんね。
今は、そんな欠けてる自分も認めつつ、欠けてるからこそ、こんな文章を書いていられるのかなって想いでやっています。
