創価的幸せな結婚は「福運の量」で決まる!
福運があれば幸せになれる、だから幸せな結婚するなら福運を積まなきゃならない。
これ、創価学会の当たり前。
まぁ、宗教なんてどれも「幸せ」目指してて、だいたいがそのためにやってるんでしょうけど。
逆にいうと、あの頃のわたしは、「福運がないから望む結婚ができないんだよ」って言われてるようなものでしたよね。
いや、実際言われてたな、とくに母親には。
ならば!と福運を積むために創価から打ちだれる活動をがんばってみたり、毎朝毎晩欠かすことなく拝みます。
で、出会いました。でもその人が理想とは違うんだとしたら、それが今の自分の福運レベル。
めっちゃ失礼な話ですけど、相手をこちらで勝手にジャッジする。
それで、「やっぱやめる」ってことは私はなかったけど、目の前の他人は自分の写し鏡。
この手の話は、自己啓発やスピリチュアルでもよくされるところではありますが、コト創価においてはその思想が強く、だからこそ!自分の福運を積むことが1番のモチベでしたね。
福運を積んだ量に応じて、すんごい素晴らしい男性と出会うんなら、自分が望む理想の相手とめでたく結婚できるんなら、そりゃがんばって活動しないわけにはいかないし、毎朝毎晩拝まないなんておかしいやん、という思考回路になるわけです。
という流れで、ここから私のこと。
わたしは、ことごとく恋愛がうまくいかない人生だったので、福運がないと思ってたのもあるけど、謎に理想が高くてよほど福運を積まないとムリなんだろうな、とも考えてた節があったんです。
(※ちなみに、ここでいう「うまくいく恋愛」とは、創価の相手と出会って結婚すること、そうじゃないなら創価に入会してもらうこと)
母親からも口酸っぱく、「とにかく祈りなさい!必ずあなたに1番いい人が現れるから!」と熱く熱く説かれていたので、そうなのかなぁ〜と疑うわけでもないけど、だからってめっちゃ活動をがんばるわけでもない、ものすごーく中途ハンパなかんじでやっておりました。
なぜ、理想の結婚がしたいのに中途半端だったのかというと、創価学会の活動ってめっちゃめんどくさいんです。正直、好きでやってんじゃねーわ!とか思ってた。
母親的には、その中途半端なかんじがイヤだったと思う。もっと熱心に活動してほしかったんでしょう。
けど、そんなん知らんがなですよね。(3世だし)
ほんとのところ、玉の輿に乗ったら創価学会の連中も親たちも、文句ないだろうと企んでた。
このあたり、創価学会とは関係なくわたしの個性です。
となると、わたしの場合、とんでもない福運を積まないといけなくなるわけで、みずからハードルを上げていたのも恋愛がちっともだった1つの理由かなと。
「福運」って世間的には
ラッキーなできごと
幸運・幸福をえること
得すること
棚ぼた
神さまからの贈りもの
みたいなことなので、宗教の有無に関係なく、人間なら誰しも欲してるし、基本的にみんな好きでしょ?
「福運」を積んで、創価的理想の結婚ができれば親は喜ぶし、それが玉の輿なら、わたしにとってそれほどまでにラッキーなことはないじゃないですか。
欲張りなわたしの性格もあいまって、婚活は苦戦つづきだったともいえます。
同じ積むなら「徳を積む」ことをしたらいいんだし、福も運もほしいならなにも宗教活動だけがんばらなくたっていい。方法はいくらでもある。
だけど、そこは創価学会の家庭に生まれ育ったゆえ、そうはできず、創価の活動をすることで福運を積もうとばかりでした。
今おもうとね、もっと純粋に人を好きになれなかったのかなぁって。
福運だの、親だの、宗教だの、いちいちうるさいねんってカンジです。
