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生成系AI論争を50年先取り?『地球人は怖いよ』/モジャ公を語らう①

藤子Fノートでは、「ドラえもん」と「SF短編」のレビューが良く読まれてる。万人向けの国民的漫画と、マニア向けの個性派漫画という、両極端の作品のレビューが人気のようである。

しかしながら、少しマイナーなタイトルを記事にすると、とても分かり易くビュー数が落ちる傾向がある。マイナーな作品では、検索数も少ないだろうし、noteの読者もスルーしてしまうようなのだ。

しかしながら、全作品をレビューすると豪語しているページだし、読まれずとも書かねばならない作品もあるのは事実。目の前の数字は気にせずに、書きたいことを書くというスタンスはブレてはいけないのである。


ということで、藤子作品の隠れた超傑作「モジャ公」は、やはりきちんと記事にしておかねばならないと、改めて決意した次第。

既に第1話については、わりと詳細な記事にしているので、まずはこちらをご一読してもらえると嬉しい。


上の記事でも書いてはいるが、本稿でも「モジャ公」の作品概略を簡単に記しておこう。

主人公の男の子の名は天野空夫、見た目はのび太に近いが、のび太よりだいぶ無鉄砲な性格で、行動力のあるタイプ。空夫と宇宙に「家出」することになる仲間は、謎の宇宙生物モジャ公(モジャラ)と、謎のロボット・ドンモ

3者は何をやっても叱られて世の中が嫌になっているという共通点があって、意気投合する形で、ここではないどこか(宇宙)へと冒険の旅に出る。


以上の概略を聞いた時に、それって「21エモン」に似ているのでは、と思った方は藤子通。本作は藤子先生も自認しているように、「21エモン」の二番煎じとして発案された作品なのである。

しかしながら、もう一回同じことをしようと言う意味での「二番煎じ」ではない。「21エモン」で描き切れなかったアイディアを昇華させるべく、本作を登場させたのだ。


それでは、二番煎じを宣言してまで「モジャ公」を描きたかった理由は何なのか? その点については、今後ほぼ全エピソードを扱っていく予定なので、そこで少しずつ語ってみたい。


『地球人はこわいよ』「週刊ぼくらマガジン」1969年3号

本作はオープニングエピソード『宇宙へ家出』に続く、第2エピソードとなる。本作で初めて空夫は宇宙に飛び出し、いきなり自分の知らない世界へと連れて行かれ、地球とは全く異なる「常識」に翻弄されていく。

実は「モジャ公」は作品全体として、主人公が「新しい価値観」に翻弄される構造となっていて、常に今の地球の常識は、宇宙において常識ではないという驚きを読者に与えていく。

宇宙独自の価値観に踊らされる空夫は、まさしく読者の驚きの写し鏡となっているのである。


いよいよ宇宙への大冒険に乗り出した空夫・モジャラ・ドンモ。行先は星の位置を記録したパンチカードを適当に選んで決める。パンチカードを見たことない空夫はモジャラとドンモに無知を笑われる。

また、空夫が小さなリップクリームのような宇宙食を一口かじると、お腹がはち切れるほどに膨らんでしまう。何とこの宇宙食は舐めるもので、空夫は一気に三日分を食べてしまったのだ。

そういうことで、空夫は二人から田舎者だと陰口を叩かれてしまう。それが悔しくてたまらない空夫。

本作は、空夫が体感するカルチャーギャップと、田舎者扱いされたくないという強がりが物語を牽引していくことになる。


初めて辿り着いた星、メルル星。恐ろしいほどの巨大なビル群がそびえ立つ都市国家である。空夫は「すげえ大都会」と言ってビビるが、これをおくびにも出さないようにして、過ごそうと考える。

3人で町へ出てみると、通行人の姿がない。不思議に思っていると、高い場所にパイプが通っており、そこを猛スピードで人間が飛ぶようにして移動している。これを「パイプ・ウェイ」と呼ぶらしい。

空夫は内心ビックリ仰天しつつも、モジャ公たちに弱みを見せたくないということで、二人から離れてしまうのだが、これが運の尽き。二人とはぐれてしまい、ウロウロしているうちに、パイプ・ウェイに飲み込まれてしまう。


ヒューンとパイプの中を飛んでいくと、いかにもガラの悪い、化け物のような宇宙人たちの巣窟に落とされる。

宇宙人たちは、実際に凶悪犯たちで、前科14犯のタコチョーチョ星人のチューチュや、前科87犯のクジ星のアミダー、カメサン星のモシモシは大型ロケットを乗っ取って300人ほどぶっ殺したという。

恐怖で無言となる空夫に、「新入りから名乗るのが礼儀だぞ」などと脅されて、「生意気だ食っちまえ」と追い立てられたので、咄嗟に「地球人天野空夫」と名乗ると、彼らの様子が一変する。

「地球人!?」と衝撃を受けた様子で、空夫からサーっと離れていく。そして、

「地球と言えば宇宙の果ての大魔境」
「あたい映画で見たわ、おっかねえ原始人が襲ってくるんだ」
「食べないでー」

と、皆恐怖に包まれる。他の宇宙人と全く交流していない地球人は、噂に尾ひれがついて、辺ぴな宇宙の果てに住む乱暴な未開人というレッテル貼られているようなのである。


原始人と言われた空夫は、文明人だよ言って笑顔になるが、もはや皆近づこうとはしない。するとそこへ、犬の警官が「騒がしい」と言って姿を見せる。ここは、警察の留置所であったのだ。

空夫はパイプ・ウェイをただ乗りし、自動的に留置所へと送られてしまったのである。警察は知らなかったのも犯罪だと怒り、さらに三泊分の留置料60ボルを払えと要求してくる。

メルル星では、警察での留置にもお金がかかるというのだ。当然お金など持っていないと説明すると、こんな非常識な犯罪者は見たことないということで、一発死刑が命じられる。

どうやらこの世界ではお金の価値が高く、人命の価値は低そうなことが伺える。独特な常識に支配されているようだ。

空夫は「助けてぇ」と泣き叫び、「球から来たばかりで」と口にすると、これまた「チキュウ!?」とビビられて、警察から放り出されてしまう。さらに、「有り金残らずやるから出て行ってくれ」と、財布まで渡してくれる。

どんだけ地球人は、恐れられているのであろうか・・。


助かったものの、元のロケットの場所もわからないし、町には誰一人歩いていない。空夫は「家出なんかするんじゃなかった」と言って泣き出す。「どんなに叱られても、うちはいいや」と家族だんらんを思い出す。

藤子キャラは、何かと今いる場所が嫌になって、簡単に家出をしてしまうのだが、結局家が良いという結論に至るケースが多い。空夫も家出から帰りたい気持ちが芽生えた訳だが、この後「逆転」が起こって、旅を続けるモチベーションを得てしまうことになる。


「お家へ帰りたい」と号泣していると、珍しく徒歩で出歩く宇宙人が声を掛けてくる。この人物は考古学者で、古代人の心を探るために古代人の行動を真似ているのだという。・・・つまり、この世界では外を出歩くのは古代人の行動という位置づけのようだ。

家のロボットでロケットを探してくれるということで、考古学者と一緒に帰宅する空夫。家では娘がパパを待ちわびていて、帰るやいなや算数の宿題を教えてもらいたいと飛びつく。

このメルル星では算数はコンピューターにやらせるものだが、コンピューターが壊れて計算できないのだという。考古学者のパパは、数学者ではないから計算できないと答える。

空夫はさぞかし難しい問題なんだろうと思って宿題を覗くと、「3+2」やら「4+4」と言った、超基礎的計算式ばかり。この世界では、何でも機械がやってくれるので、考える力を無くしてしまったのだ。


・・・と、ここで想起するのは、昨今話題の生成系AIである。もう解説などいらないと思うが、ざっくりと人間の代わりに、文章を書いたり、アイディアを出したり、ヒントをくれるとっても便利なAI君である。

今はまだ問題点も多そうだが、じきに性能は爆発的に上がっていくだろう。このメルル星での有様は、そんなに遠くの未来の話ではないように思えてくる。


空夫がスラスラと問題を解くと、考古学者は「おどろきなり、もものきなり」と、驚愕する。すぐさま「天才だ!学会に報告すべき」とどこかへと走って行ってしまう。

ロボットがロケットの位置を突き止めてくれたので、空夫はお礼を言って考古学者の家を出ていく。

ロケットの場所へ戻ると、ドンモとモジャ公が警備の人間に捕まっている。駐ロケット違反の罪であるという。そこで空夫は、警備員をこっそり呼び立て、「僕は地球人だよ」と囁くと、途端に顔色を変えて走って逃げていってしまう。

空夫は、一体何を言ったのか疑問に思うモジャ公たち。さらにそこに、考古学者が連絡したと思われる、マスコミの記者たちが集まってくる。空夫のことを「天才少年」と呼び、「あなたの天才的頭脳の秘密を」と聞いてくる。

空夫は「あんなの地球人なら子供でもできます」と答え、記者がアングリしたところで、モジャ公たちに「次に行こうぜ」と声を掛ける。


たった一言で警官を追いやったり、マスコミが集まってきて「天才少年」だと褒められたりと、何が何だかわからないモジャ公とドンモ。二人はすっかり態度を改め、

「そ、空夫くん。お前・・・いや、君は意外に大物だね」

と、モゴモゴ褒める。空夫は「いえいえほんの田舎者で」と、余裕の構えで受け答えるのであった。


本作はまだまだ旅の序の口といったエピソード。空夫が宇宙の洗礼を受けつつ、逆に自信を持つという心の変遷を辿る。この変遷こそが、空夫が今後の冒険を続けるにあたって、非常に重要なポイントとなっている。

また、「コンピューターに頼り切った人間は、考える力が劣えてしまう」というテーマが描かれるが、これは藤子作品では定番とも言えるもの。「21エモン」や「みきおとミキオ」でも同様のテーマが登場している。

そして、本作が描かれたのは、コンピューターが一般家庭に全く普及していない1969年だという点を忘れてはならない。生成系AIの登場で、いよいよ人間の考える力が衰えるのでは、と論争になっているが、本作を読むと、実に50年以上前にその論争を予見していることがわかる。


「モジャ公」での旅は、このように未来を予見するようなテーマや、今とは全く異なる価値観などが次々と提示される。藤子先生のSF的アイディアが爆発している作品なのである。

そういうことで、本作は丁寧に解読されなくてはならない。記事が読まれにくいなどと思わずに、さらに「モジャ公」を深く語っていきたいと思う。



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