【創作大賞2025🎖️】非婚出産した私が、「家族じゃない誰か」と暮らす理由
この記事は創作大賞2025に応募しています。
「どうして、シェアハウスをはじめようと思ったんですか?」
シェアハウスの運営をはじめて13年。幾度となく聞かれてきたこの質問に、私はずっと「猫のお世話をみんなでできたら、猫も人も幸せになれそうと思ったから」と答えてきた。
でも、本当はそれだけじゃなかった。
その奥にある気持ちに、息子たちとコミュニケーションを取れるようになって気づいたことがある。
もしかしたら私は、血のつながった家族とうまく暮らしていけなかったから、自分の居場所が欲しくてシェアハウスをつくったのかもしれないと。
私は、傷つかずに居られる場所がほしかった。
けれども残念ながら、生まれながらに暮らす家族との家の中には、心が休まるような隙間さえ見つけることができなかった。
安心できなかった日常
特に、母との関係は幼い頃からうまくいっていなかった。
稼ぐのが苦手な内装職人の父の分まで、母は看護師として毎日必死に働いてくれていた。
夜勤のない職場を選んでいたから夕方には帰ってきていたけれど、平日の母は特にピリピリしていて、家の中には緊張感があった。
職場の医師や医師夫人の悪口、患者の愚痴、そして食事の準備に追われながら「なぜ私ばかりこんなに忙しいのか」と苛立っている姿をずっと見てきた。
なにかに対していつも怒っている母を、私はどこか見下していたのだと思う。
大人なのに、感情をコントロールできない“大人気ない人”だなと冷めた目で見ていた。
なにか言えば火に油を注ぐようで、弟とふたり無言で息をひそめて過ごしていた。
聞こえないように陰で「鬼ばば」と呼んでいた。私たち姉弟をつないでいた、共犯のような合言葉が自然とできていた。
「どうして、こんな未熟な人が、私の母親なのだろうか」
私は、子ども心にしっかりと悲しんでいたことを覚えている。
父はというと、そんな母の怒りをただ黙ってやり過ごすだけだった。お酒が強くないのによく飲みに出ていたのは、家にいたくなかったのだろう。
何か少しでも反論すれば、もっと面倒になることは、まだ幼い私たちにもわかっていた。
だが、母が私たちに理不尽に当たっているときも、父がそれを止めてくれることは記憶の中では一度もなかった。
親戚からは“やさしい”と評されていた父だったが、「巻き込まれたくない」という態度がにじみ出ていて、私は次第に父への尊敬も失っていった。
なにが地雷になるのか家族全員がわからない中で、母はいつも、彼女の中では「被害者」だった。
社会人になって1年かけて貯めた定期預金を、母に無断で解約されて父の支払いに使われたことがある。事後報告だった。
その額60万円。 18歳の私にはとても大金である。
家には毎月3万円入れていたはずなのに。
そういえば、定期預金を半ば強引に勧めてきたのも母だった。
それでも当時は、家計のために仕方ないことだと割り切って、なんの抵抗もせずに物分かりの良い娘を演じたと思う。
しかし数年後に、その出来事自体を両親ともにすっかり忘れられていた時には、絶望と後悔の気持ちが押し寄せた。
堰を切ったように感情的になった私に対して、父は「俺たちがそんなことするわけない」と他人事のように笑っていた。
都合の悪いことは全て忘れていく人たち。だ。
そんな不時着な想いを抱えるうちに、心が離れる決定的な事件が起きた。
十数年がたったある日、私は息子たちを連れて実家に数日滞在することになった。
私が持参したスーツケースの中を整理していると、なぜかまた母の逆鱗に触れてしまったらしい。
「私への当てつけでしょ!」
急に怒鳴り始める母。何のことだか全く理解が追いつかない私に、母はこう続けた。
「あんたには昔から積もり積もった感情があったけんね!!」
「だからもう、親子の縁を切りたい。」
私の息子たちもいる前で、まだ乾いていない洗濯物を投げつけられながら、あまりにも唐突な絶縁宣言だった。
一瞬の驚きの後「あぁ、この人は、私の中には何も積もっていないとでも思ってるのかな」と少し可笑しくもなった。
息子たちにこれ以上は怒鳴る母を見せたくなくて、すぐに荷物をまとめて実家から引き上げた
その夜、父から滅多に来ないLINEが届いた。
「LINEブロックします」 とそれだけ。
母に命じられて送ってきたことが、手に取るようにわかった。母からの言葉よりも、父からのLINEの方がよっぽどショックが大きかった。
両親は、私が大人になっても、あの頃とまったく変わっていなかった。
あっけない、両親との幕引きだった。
「毒親」という言葉をここ数年でよく聞くようになったけれど、私の両親は、それに当てはまるのだろうか。
虐待やもっと過酷な家庭も知っているから、私には何とも言えない。
でも母は、昔から猫にはやさしかった。
捨て猫を放っておけなくて、よく拾ってきてはお世話をしていた。
猫と接している時は、母の声がやさしかった。
猫への眼差しには、愛がにじんでいた。
だからきっと、私の態度が悪かったのだろう。
子どもらしい甘え方なんて、たぶん私はひとつもできなかったから。
何かを悟ったような態度で、可愛げのない子どもだったと自分でも思う。
でも、それがわかったのは、私自身が母になってからだった。
私の息子たちは、惜しみない愛情をまっすぐに私に向けてくれる。こちらが戸惑うほど、その小さな身体から毎日私への愛が溢れ出ている。
私は、息子たちのように純粋な気持ちで親と接することができなかったなと思う。そのことで、両親に対して申し訳なさを感じることがある。
そして、あの頃には気づけなかった親なりの思いも、今になって少しだけ見えてきた。
心の拠り所や安心できる居場所は得られなかったけれど、習い事にはお金を惜しまずにいてくれていた。
私が求めていた形とは違っただけで、あの人たちなりの愛は、たしかにあったのだと思う。
だから、憎んでいるわけでも、「許せない」と思っているわけでもない。
産み育ててくれたことにも、もちろん感謝している。
ただ、もう関わらなくていいかな、というのが今の私の正直な気持ちである。
わざわざ傷つけ合うよりも、このまま距離を置き続ける方が、お互いのためだと思うようになった。
13年のシェア暮らしで見えたこと

シェアメイトと屋上BBQ
これまでいくつかのシェアハウスをつくってきたけれど、家の中でも「自分らしくいる」という状態を知れたことが私の中でのとても大きな変化だ。
それができたのは、誰ひとり苛立ったりしていなかったから。
できないことを責める人もいない。
無駄に感情をぶつけるような場面もない。
それぞれが、できることを持ち寄って、穏やかに、でも確かに日常をまわしていた。
誰かに八つ当たりするのではなく、自分で自分を立て直す姿を、私は家という社会から閉ざされた世界で初めて見たかもしれない。
人は皆、家の中では身勝手にふるまう生き物だと思い込んでいた。
やさしい人たちに囲まれて、私自身も、自然と周りに対してやさしくなっていることに気づいた。
私という人間は同じなのに、一緒にいる人が変わるだけで、こんなにも自分の在り方が変わることに驚いた。
猫と暮らせるシェアハウス

はじまりは2匹の猫と始めた小さなシェアハウスだった。
シェアハウスの住人は、20代後半から30代の男女。
ドラマ「ビーチボーイズ」のDVDを、毎年夏に予定を合わせて一緒に観るような仲の良いメンバーだった。
餌をあげるのが被らないように管理を工夫したり(猫はすぐ騙してくる)、猫トイレの掃除をしたり。
猫を愛でることも、日常のお世話もシェアする暮らしだった。
ある日、1匹が大けがをして、入院することになった。
ペット保険には入っておらず、毎週のように数万円が飛んでいく。
私の財布は底をつきかけていて、精神的にも追い詰められていた。
そんな時、私の様子に気づいたのか、住人のひとりがそっと声をかけてくれた。
「もしよかったら、治療費を僕らにも少し出させてもらえませんか?」
住人たちで事前に話し合ってくれていたようだった。
そのひとことが、胸の奥にまっすぐ刺さった。
猫への愛情が、私ひとりのものではなかったことに。
血のつながった家族は私からお金を奪い、他人であるシェアメイトが私のペットの治療費まで出そうとしてくれている。とても不思議な気持ちだった。
それから10年後、その猫が静かに息を引き取る日がやってきた。
土曜日の午後。
その場には、私と住人がほぼ全員揃っていた。
余命宣告された期日までには少し時間があったけれど、いつもとは違う猫の様子に、私含めてみんなどこかで覚悟を決めていたと思う。
小さな叫び声とともに、全身の力が抜け、目の奥の光がふっと消えたとき、不思議と、悲しさよりも感謝の気持ちがあふれてきた。
「今までありがとう、ずっと大好きだよ」とそれぞれが声をかけながら、亡骸をタオルで包み、みんなで泣いた。
その日の夜、10年前に一緒に過ごした元住人も駆けつけてくれた。
最後に穏やかな顔を見てもらうことができて嬉しかった。
猫たちとの暮らしが、私たちの間に“見えない家族”のような関係を育ててくれていたのだと思う。
暮らしを共にするというのは、「一緒に何か始めること」だけではなく、「終わりまで見届けること」もあるのだと知れたのは、このシェア暮らしがあったから。
私はシェアハウス暮らしのまま出産し、他の選択肢を考えることもなく、子育てもシェアハウスでしている。
「家族だからといって、いい関係とは限らない」ことに、幼い頃に気づいてしまったから、結婚制度を利用せずに非婚出産を選んだ。
これもシェアハウスという安心できる世界を、私がすでに知っていたからだと思う。
13年のシェア暮らしで見えた、頼り合うことの本当の意味
私が母を長年見ていてわかったことは、「〜しなければならない」という価値観が本人も周りをも苦しめていたこと。
疲れていても、「料理は手作りでなければならない」
「毎日、掃除機はかけなければいけない」
「子どもは親を敬わなければならない」
だから私は、世の中で当然とされているものや、良いとされているものを一旦、自分の中で見直すことに決めた。
食事の用意は、自分の機嫌が悪くなるくらいだったら買ってきていい。
部屋の状態よりも身体を休ませることを優先していい。
母親でも、子どもを預けて遊びに出かけてもいい。
家族じゃなくても一緒に暮らしてもいい。
「〜しなければならない」を「〜してもいい」に書き変えていくと、他人の目、世間の目というものがあまり気にならなくなっていた。
そしてシェアハウスに集まる人たちも同じように、他人にも自分にも寛容な人たちばかりだったから、とても心地よかった。
私が3泊4日のひとり海外に行くことになったことがある。
私は産後2ヶ月で次男はまだ赤子だったけれど、シェアメイトたちはペアを組み、5時間交代でリレー方式の育児を担ってくれた。
昼も夜も関係なく、次の人にバトンを渡しながら、抱っこ、寝かしつけ、ミルクをつないでいく。
母として完璧でいることを手放した瞬間から、私の中に余白が生まれて、そこに他者からのやさしさが入り込むようになった。
人に頼ることに抵抗を感じる人は多いと思うけれど、「頼る」とは、相手にもそれを赦すということ。
シェアハウスで暮らす中で私は、頼ることは同時にGIVEでもあることに気づいた。
シェアハウスは「分け合う」よりも、頼り合うことで「与え合う」場所だと表現するほうがしっくりくる。
毎日GIVEが飛び交う環境で、子どもたちはスクスクと育っている。

シェアメイトとわたしの手作りケーキ

シェアメイトと次男の手作りケーキ
2025年7月16日
湿気をまとうコンクリートのにおい、曇り日
今日も特別なことは、なにも起きなかった。
いつも通り、ごはんをつくって、洗濯をして、子どもたちに「おやすみ」を言っただけ。
でも、ふとした瞬間に思う。
私はなんて幸せな日々を生きているんだろう。
もしかしたら今、死に際の走馬灯で、人生でいちばん幸せだった時間を再体験させてもらっているんじゃないか。
そんな感覚に何度もなっている。
朝、子どもが自分で起きてきたこと。
冷蔵庫の中にあるものでごはんを用意できたこと。
シェアメイトと子どもたちが何か笑い合っていること。
なんの変哲もなくみえる日々こそが、いまの私にはとても愛おしい。
あの頃の私に伝えたい。
外の世界は、想像できないくらいずっとやさしいこと。
結婚してもしなくても、あたたかい関係はつくれること。
愛や安心は、制度や血のつながりの中だけにあるわけではないこと。
そして、子どもは産んでも産まなくても、育てられるチャンスはある。
私の選んだ暮らしには、私の子どもを一緒に育ててくれている仲間がいる。
人と人との繋がりの中で、感謝の気持ちを抱きながら生きていけることが、私にとっての最上級の幸せだと知ることができた。
それは、両親と弟と暮らした緊張感のある日々があったから。
人生とは伏線回収と恩返しの旅。
だから私は、明日も部屋を整える。
自分の機嫌もとりながら、ここが他の誰かにとっても自分らしくいられる場所であるように。
それが、共に暮らしてきた人たち、そしてこれまでの経験全てへの、わたしなりの恩返しになると信じて。
この記事は、オレンジページ編集部さんに推薦いただきエッセイ部門で入選となりました。ありがとうございます🥹
わたしが受賞できた理由↓

