「意味」のある人生とは?今までやってきたことには意味があったんだろうかと悩んだことはありませんか?
人間にとって「意味」とは?
私が主張する体系において
完全無の不成立(論理的基底)
関与体の存続持続性と相互関与性
必然的関与からの偶然的連鎖
意志、方向性の非介入
傾向を持つ構造化(構造体の発現)
構造体の痕跡の保存
と記述してきた。
人間中心的な視点を可能な限り排除して、世界の構造についての記述を行ったが、
ここで一旦「人間」にその目を向けてみることにする。
「人間」は、なぜ生きるのか?人生とは?と常に問いかけ続けてきた。
それは「人間」にとってまるで永遠の宿題のようにぶら下がっていて、絶対的な答えのない問いとしてあるように思います。あなたは今、その答えを明確に答えられますか?
私は答え合わせは必要はないし、そもそもそれが無くても全く問題無いと考えています。
「人間」は【関与体】が複雑に集合した【構造体】である
と定義することができる。と私は主張しています。
【関与体】の性質は存続持続性と相互関与性を併せ持つとした。
(【関与体】は在り続け、そして相互に関与しうる。)
同時にそれ以外の条件に制限されない。
「人間」自身にも、この【関与体】の性質自体は適用される。
なぜなら【関与体】自身が存続持続性から、より複雑な【構造体】の中にあっても、消滅しているわけではないからである。正しくは消滅できない。
(消滅=完全無の成立に接続する為。)
「人間」はこの性質から、複雑化する構造化の中で、内部参照する「意識」を得て、さらに内部参照した結果を、次の関与に対して選択、適用するという「自己」を見出してきた。
この強力な「自己認識能力」が、
「人間」の関与に対する判断、つまり思考の複雑化を生み出している。
この思考する構造から、「人間」は自らを存続させるために、自身含め、そのほかの事象までも、理解しようとしてきた。不確定な要素は自身の存続の構造体としての危機につながるからである。
例えば、人間の直感的な畏怖として、「暗闇」と挙げる。
「暗闇」の中に何があるのか人間には見えない。つまりこれが、不安定な要素として取り上げられる。暗闇の中に潜む段差に躓いたり、悪漢が潜んでいるかもしれないかもしれない。見えないという不確定要素が、不安につながる。
しかし、人間は光があれば、暗闇がなくなることを理解している。
その為、夜になれば、光を灯す事で、不確定要素を消し、存続への安心を得る。
このように不確定性できる限り退けるために、対処方法を考える。そのためには、不確定要素に対する問いと解が必須となる。
このようにして、人間はあらゆる事象に常になぜ?と問いかけ、その解を探し続ける構造体となった。そのため、生きる意味という存続持続性そのものに対しても、同様の問いを立ててしまわざるを得ない。
しかし、先述した構造において、そもそも世界には意志も意図もなかった。
圧倒的な数の可能性の中から残った法則性により成り立った世界の中で、
意図せずにたどり着いた生命体である「人間」に生きる意味は元来無い。
存続持続性と相互関与性が本質にて、世界にも「人間」にも意味はなく、
膨大な関与の連鎖の結果でしかないのだ。
しかし、この事実は決して、「人間」を 「虚無」で「無意味」の監獄に閉じ込めるものではない。
「人間」はこの事実がありながらも、先述した通り、実際になぜ?と「意味」を問い、考えることができる。
各自で自由に意味を考えて設定し、「信じる」 ことができる。
「信じる」とは、私の言葉で書くと、
問いに対する暫定解であり、いつかは崩壊する可能のある仮の足場である。
(直接的に宗教的意味は含まない為、あえて信仰という言語を回避している。)
一見すると、暫定解とか仮の足場という表現は、否定的にも見える記述だが、むしろ肯定的な意味合いとして表現している。
人生の生きる意味を見つけようと、あるいは、今はどうやっても答えが出せないという事象に対して、いつまでも立ち止まって問い続けていては、「人間」の歩みは止まり、前進できなくなってしまう。
その為、暫定の答え(正否の完全性は問わない)を出し、それでも前に進まなければならない。
この時に使うのが「信じる」ということである。
この「信じる」という暫定解を仮の足場とすれば、次に進むことはできる。
「信じる力」は「人間」を前進させるための、非常に強いツールなのだ。
信じて進んだその道がたとえ後から間違いであった。と自身で感じたとしても、その人間が暫定解を信じて進んだという歩み(関与)の痕跡は必ず残る。
その関与は決して「無意味」ではない。
何度も言うが、そもそも全てに「関与体」の方向性に「意味」は無かった。法則に意図も目的も元来無いと記述した。
しかし、「人間」はそれでも どこかに意味があると信じた。そして、その力を使い、歩んできたのだ。
例えば中世ヨーロッパにおいて、神の存在を信じない人はどれほどいたのだろうか?今日の割合から考えれば、非常に少ないと推測される。
近代まで続いた宗教における絶大な影響力からそれは明らかだ。
それは「神」がいたかどうかではなく「信じた」かどうかなのだ。
「信じる」対象は、絶対の正解である必要はない(正否を問わない)。
なぜなら「人間」を前に進ませることが「信じる力」の本質であるからだ。
お金だけを信じる。とか自分だけを信じて、他の何者も信じないとか、そのような言動は、一般的な感覚からすれば、偏っているように思われるかもしれないが、その「信じる力」がその人物を強く動かすのなら「信じる力」はツールとして正常に働いていると言えるし、曜日毎に全然違う対象を信じてもそれが原動力になっているならば、問題は無いのだ。(極端な例の為、そのような人と友達になれるかどうかは別として、だが。)
「人間」は
今回私が主張した通り、人生にそもそも意味が設定されていなかったとしても、自由に意味を設定する事ができ、自ら設定したその意味を信じることで強く踏み出せる構造体なのである。
ここで注意すべきなのは、何らかの外的要因によって強制的に、もしくは知らない間に「信じされられている」状況に陥ることだ。
普遍的で絶対的な人生の意味を外部から強制的に押し付けられる状況。あるいは環境、文化的な側面から、意図せず享受している可能性はぬぐえない。
あなたの生きる意味が、自分自身で設定したものでないのでは?と感じる人がいれば、ぜひ一度立ち止まって、自分自身と対話してほしい。
構造的に全てが無意味なら、人生に普遍的な意味など元々無い。
そして、自分の生きる意味は自分で自由に設定し、信じればよい。
信じるものが他人とちがう。あるいは間違えであったと感じても、悩む必要は全くない。
違うことに乗り換えて歩き出すことは、恥でもなんでもない。
人間が行うことは、構造上では【関与体】の存続持続性によるものなので、そもそも全部無意味だ。しかし関与がそれをどう捉えるか、
どう意味付けするかは、完全に自分次第、あなた次第なのだ。
この考えて自体も、必ずしも絶対的なものとして捉えるのではない。
私は自身の考えを信じて主張するが、他者に強制するわけではない。
私自身が前進するための仮の足場として思考を書き留めたものであり、そして、いつか崩壊して問題はない。
しかし私自身を助けて変えてくれた事実。これらの言葉は、きっと誰かの助けにもなる。という信念のもとに、あなたに関与しようとしている。
