3 「無」とはいったい何であるのか? あなたは完全な無を想定できるか?
無の曖昧さ
あなたは「無」という言葉からどのようなイメージを持つか?
空っぽの箱の中身だろうか?
どこまでも広がる音のしない宇宙空間だろうか?
だが、それらは本当に「無」だろうか。
箱には中と外の境界がある。
宇宙空間でもそれを感じる主体がある。
常々人間が抱いてきた「無」も
哲学や宗教で論じられた「無」も、
つねに何かを背景にした欠如であり、
部分的な否定ではなかったか?
そして、この「無」の概念はしばしば、
「神」の概念と混ざったり、神秘性を帯びることがあり、
それぞれの人間の独自な解釈が加わったことで、
さらにこの「無」の概念の議論を難解にさせているのではないかと
推測する。「無」は言語の限界として、
過去の哲学者達も同様に直面してきた壁だったのかもしれない。
まず私たちは、今、この世界を感じている。
という共通認識があるという前提に立って記述します。
あなたがこの記事を読んでいる瞬間。
この世界は確かに在るように感じているはずだ。
私は息をしているだろうし、
あなたはこの文字を読んでいる。
周囲には人がいるかもしれないし、
車も走っているかもしれない。
つまり私達は圧倒的に、
在るという認識の下に存在しているといって差し支えないと考える。
しかし、今が在る世界だから、そこには「無」が無い、
あるいは無かったとするには論理の飛躍があると考える。
東洋哲学にしろ、西洋哲学にしろ、「無」については、
たくさんの哲学者がその概念について説明を行った。
しかし、先述した通り、その「無」は何らかの欠如ではなかったか?
大乗仏教では固定した実体はなく、
全ては関係の中にのみ現れる。
「無」は欠如でなく、関係性そのもの。(関係性がある)
老子は有と無は互いを生む。
タオは名づけ以前の根源的な可能性の状態であり、
作為なく全てを生む。(生む可能性がある)
キリスト教では神は無から世界を創造した。
この無は創造以前の状態であり、神の全能性の前提。(神がある)
ハイデガーは無は存在の反対ではなく、
存在への問いを開く契機。(観測者がある)
西田幾多郎は体験を出発点に、
有と無の対立を超えた場所としての
絶対無を論じた。(体験がある)
これらの「無」の概念を踏まえ、
可能な限りシンプルに、
極限まで「ただ無い」という概念を突き詰めて、
歴史上、概念が揺らいでいる「無」をまずは整理したいと試みる。
今までの「無」との言語的な区別をつけるために、
全ての可能性を否定し、
背景が存在せず、
一切を否定する極限的な無――
として【完全無】を定義しようと試みる。
そこには、
空間も時間もない
概念も意識もない
観測者がない(「者」は人間を意味しない)
境界がなく、いかなる領域の区別もない
関与できない
「無い」という性質すらない
ということになる。
しかし、この時点で問題が生じる。
【完全無】は検証する事も体験する事も出来ない。
思考の中だけであったとしても、
想定すらできないことになる。
想定できた時点で【完全無】ではなくなってしまう
というパラドックスに陥り、
完全に何もない世界は想定すらできない。
繰り返しになるが、
【完全無】は中と外の区別もない為に
「体験」ができない。
対象が無いため「測定・観測」ができない。
「検証」が可能な時点で何かが「在る」という証明になってしまう。
【完全無】に対して
検証
体験
論証
による到達自体が【完全無】が無いことの証明になってしまう。
何よりもシンプルな【完全無】 は
検証・体験・論証のいずれを用いても、
成立しない概念であった。
よって、ここに【完全無の不成立】を主張する。
この「完全無」の不成立と同時に、
過去に論じられた「無」は、
「何か」を排除できていないという点で
部分的「有」を許した「無」であり、
あるいは「無」に限りなく近い「有」であるという主張も
加えて付け加えておきたい。
二重否定としての出発点
「無」を徹底的にシンプルに突き詰めて
【完全無】を観測しようとした結果、
それが成立しないことが分かった。
これは「無い」は「無い」という二重否定にあたり、
同時に肯定への入口でもある。
つまり、現在私達が感じる「在る」を強く後押しする重要な仮説となる。
たとえ一瞬でも、ひとかけらでも、
もし【完全無】があったとしたならば、
その性質上、あらゆる領域と過去全てに拡張せざるを得ず、
私たちが存在(生まれる)ことはあり得ない。
完全無がある、という主張を否定する
その結果、何かが在ることが非常に合理的な仮説となる。
【完全無】がない以上、「何か」は常に在る。
【完全無の不成立】の論証は、
現在が『有』である世界から出発した認識論的論証であり、
完全無が存在論的に成立しないことの証明ではない。
先述の定義と検証不可性から、
合理的に導き出した仮説である。
ここで言う「何か」とは、
物質である必要も実体である必要もない。
意味や目的を持つ必要もなく、観測者を必要としない。
ただ無くならずに在る。
それだけである。
次からはその「何か」にも焦点を当てて説明していきたい。
哲学体系として、項目を分けて執筆中。
最終的には書籍として、出版をする予定です。
筆は遅いですが、継続していきますので、
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