SS『父よ、見てるか』
読経が響く。遺影で微笑む父は、だいぶ普通に見えた。ハンカチを握りしめる。染みが広がり、乾かない。空いた穴から思い出す、いくつかのあの日。隣の従兄弟は苦い顔をしていた。
わたしが小学高学年のとき、母と子供が溺れていたら、の話題になった。父は即答した。
「ママを助ける。おまえ達は自分で泳げるようになれ」
母は怒り狂った。妹二人は、一人は信じられないものを見る目をして、もう一人はよく口にできたなと呆れていた。わたしは泳ぎの練習を決意した。その後、父は市民プールに連れて行ってくれた。
わたしが高校生のとき、家の近くで妹がガラの悪い男に絡まれていた。見つけた祖父が家を飛び出し、父は遠くからカメラを構えて連写していた。
「お父さんも助けてよ!」
妹は怒り狂っていた。
「大丈夫、証拠は押さえた」
父は自信満々で頷いた。わたしは三人を見比べた。カメラは新品だった。
わたしが大学生のとき、母方の祖母が亡くなった。豪快でカラッとした人だった。祖母は父を気に入っていた。
「パパ、それは流石に」
その日、父は明るい麻のジャケットに真っ白なパンツで現れた。母は涙目を何度も瞬かせ、妹二人も頷いた。
「一張羅だぞ、これがいいんだ」
父は堂々としていた。式が始まる、啜り泣きが耳を打つ。父は、住職の頭をカメラで接写していた。わたし達姉妹は肩を震わせ、親戚は皆、知らないふりをしていた。遺影も接写していた。
わたしが結婚して家を出たころ、父が倒れた。最後の日、父のベッド周りには全員がいた。
「パパ、皆来たよ」
母と伯母は泣き笑いし、妹二人は沈痛な面持ちだった。
「犬だよ」
わたしはベッドに愛犬を乗せた。薄くなった体を踏んづけ、顔をべろべろと舐め回していた。もう一匹の犬も乗せた。父は軽い声で笑った。腕も踏まれていた。
「……ちょっと、コーヒーでも飲みましょうか」
「買ってきます」
「コーヒーメーカーのやつね」
妹が言った。義弟は夜を車で走った。七人分のコーヒーには時間がかかった。父を囲んでのコーヒーブレイクは、思い出話に花が咲いた。ずっと視界は滲んでいて、わたしは犬を抱き締めていた。父は、聞いていたかどうか。
静かな朝、父はいなくなった。速やかに葬儀屋が来た。淡々と、式の話をした。
「パパ、」
母が泣く。妹二人に言葉はない。
「お父さん」
手を握る。父だけど父ではなくなった、冷たく乾いた手だった。泣くの意味を、初めて知った。
そして今日、冬の雨が降っていた。わたしはベージュのジャケットに白いパンツでここにいる。染みが広がる。変わらず苦い顔の従兄弟から家族へ目を向ける。皆、泣き笑いしていた。穴の上を、読経が流れていく。
白はやりすぎだ。ずっと言わなかった。それでも、ジャケットを軽く引っ張り、堂々と前を見据えた。ハンカチはもういらない。
父よ、見てるか。
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