絶好調なスラッガーたち
榎本喜八は、現役時代の1963年にバッティングの理想点に到達した経験についてインタビューに答えている。「自分の脳裡に自分のバッティングの姿がよく映る」、その結果「どんな速い球でもゆるい球でも精神的にゆっくりバットを振っても間に合うんです。ちょうど夢を見ている状態で打ち終わる。その姿ははっきり脳裡に映っていながら、打ち終わるとスッと夢から覚めて我にかえって走りだす」、この時到達した領域を、榎本は「本筋」という言葉で表現している。
『豪打列伝』に岡崎満義が記したこの榎本の記事では、「7月14日の対東映ダブルヘッダーから7月31日の東映戦までの11試合が、榎本の言う『本筋』のバッティングができた時期に当るようだ」とし、この間に「4安打が2試合、3安打が2試合、2安打が4試合とかため打ち」「実に43打数24安打5割5分8厘と打ちまくっている」と集計している。

ところがこの集計、どうも数字が合わない。この時期の打撃成績は表のとおりだが、かため打ちの記述にある4安打は14日の第1試合と20日の試合だから、少なくとも11試合の始まりは14日の第1試合である。さらに3安打しているのは28日の第1試合と31日だから、11試合の終わりは31日以降の試合となる。だが14日の第1試合から31日の試合まででもう既に13試合あるのだ。
ここからは推測だが、この13試合の合計は51打数26安打(打率.510)となり2試合8打数2安打が余分である。ここで14日以外でダブルヘッダーのあった21日と28日の第2試合をみると、2戦計8打数2安打となり、これを差し引くとちょうど43打数24安打になる。

ダブルヘッダー第2試合の見落としだとすればずいぶんお粗末な計算だが、そもそもちゃんと計算した打率.510でも「火の出るような当りを毎日続けていた」という榎本のコメントを彷彿させるに十分の数字である。まぁ「本筋」という打者の技術や精神に関する貴重な実体験を、数字の巨細で語ること自体がおこがましいというか筋違いも甚だしいとは思うのだが、筆者のようにバッティングの修業を積んだことのない人間には、数字で示される方が凄さが分かるもので、そこは記録の効用であろう。
この「本筋」を13試合で打率.510とイコールと捉えて、これと同等以上の成績を残した選手が他にいれば、その選手もその期間「本筋」の域にたどり着いていた可能性があるのではないだろうか?と書くと因果関係がひっくり返ってしまっているが、ただこのテーマを「一定期間好調を維持していた選手が他にいるか」「『絶好調な選手』とはどのような成績を指せばよいか」というように捉えなおしてみると、これは意外と興味の沸くところではないだろうか。
野球中継で「直近10試合で5割を超えています」というような選手紹介を聞いたことがあるかもしれない。このときの「5割」という数字は、観測者が取材・計算して始めて現れてくる偶発的なというか、シーズン途中の名もなき一時点での記録であるため、他に連続安打記録などが絡まない限りは中々後世に伝わらない。そこでこの「一定期間好調を維持していた選手」について調べてみたのが本稿である。
といっても基準の設定はなかなか難しい。先ほどの「直近10試合で5割」も聞けば確かにすごいのだが、仮にそれで達成者が多ければ実はよくある成績だったということになる。事実、試しに榎本の「13試合で打率.510以上」という選手を調べてみると、延べ100人を下らなかった。「13試合で打率.510以上」は、基準としてはちょっと物足りないようである。
一流の打者と言えば打率3割で、つまり凡退が7割である。ここは一丁ひっくり返して、打率7割というところから始めてみよう。むろん、1試合1打数1安打を繰り返して10試合10打数7安打でも達成は達成である(それもまぁ凄いことは確かだ)が、もう少し出場の多い選手にスポットを当てたい。というわけで期間中の打席数が試合数×3.1以上の選手に絞ってみたのが次の表である。

7割をキープできたのは、最長でも7試合までということが確認された。上の6人がその最長7試合の打者で、下の8人は6試合まで7割をキープした打者である。これは実況風に「上の6人は、最近7試合の打率が、なんと7割を超えています」と言った方が分かりやすいかもしれないが、6人のうち特に王貞治と加藤英司は、この期間中毎試合終了時点でも常に7割(以下「全期間7割」という。)をキープしていた。実は6試合の8人も、全期間7割をキープしている。

しかも1973年の王は8月8日から8月16日まで、1打席単位でも7割をキープしていた。このうち8月14日は0打数0安打であったが、守備固めとかではなくなんと5打席5四球だった。前後あわせて7打席連続四球(うち敬遠2)を含め期間中12四死球という警戒の網をかいくぐっての12安打、しかもその半分は本塁打で12打点を稼ぐという、この年の三冠王も納得の充実ぶりがうかがえる。
6試合の方にも王の名前があるが、これは8月15日までの6試合に限れば.733とさらにスケールアップすることを示すための重複表示で、本質的には同じ時期の記録である。

この王を上回る13打点、打率.708を叩き出した1979年の加藤は開幕2試合目から計算した記録であるが、実は開幕戦も2打数1安打だった。これを含めると26打数18安打の打率.692で5本塁打15打点、打率7割こそ切るものの手の付けられないスタートダッシュも切っていた。結局この年首位打者と打点王を獲得、本塁打だけが2本差でタイトルを逃したが三冠王に匹敵する成績を残した。
6試合のところにも同じ期間で出ているのは4月15日がダブルヘッダーだったから(7試合は第2試合まで、6試合は第1試合まで)だが、両者を比較すれば本来疲れの出る第2試合で4打数3安打して打率を上げていたことがわかり、当時の好調ぶりが見て取れる。

7試合と6試合の両方に入っている選手はもう一人、2000年の鷹野史寿がいる。もっともこの差の1試合は守備だけで出場した8月17日の分なので、実質的には8月19日からの6試合でできた記録である。ただ19日に4打数4安打、その後22日から26日にかけて8安打3四球2死球の13打席連続出塁をマークした結果、表中最高の打率.765をマークしており、19日から25日の5試合に絞れば15打数12安打の打率.800に2本塁打7打点とより濃密な成績になる。
直前まで.234だった打率は.330と1割もアップ、最後は打率.296に終わったが、ルーキーイヤーということも考え合わせればプロ野球史に残るトップクラスの「絶好調」だったと言ってもよいだろう。
なおこの表を見てあれ?と思う人もいるかもしれない。というのは8月17日が守備だけの出場にせよ、その前の8月16日から計算した場合、8試合で18打数13安打の打率.722となり王や加藤を上回る「8試合7割」になるからである。
鷹野はこの間6四死球で犠打等はないので24打席だったところ、8試合の規定打席は8×3.1=24.8となる。これを現行の四捨五入で25打席と見るか、2000年当時の切り捨てで24打席と見るかによって、ランキングに入れるか否かが決まるわけである。ひとえに筆者の匙加減、という微妙な状況であるが、本稿ではここを「試合数×3.1以上」、つまりこの場合24.8打席以上かどうか、で全て判断している。要するに「切り上げ」である。そのためこの表には鷹野を8試合として入れていないので、この点はそういうものとご了承いただきたい。
さて、表の選手は全員が、期間中に猛打賞を2回以上記録している。さらに4安打以上の試合、それも4打数4安打とか5打数5安打とか、打てば全てヒットという日もたいてい1度は記録しているものである。7割を打とうと思えばそういう打棒爆発の試合があるのは当然ともいえる。

ただ一人2012年の川端慎吾だけは例外で、期間中4安打を打った日が一度もない。3安打2回に2安打4回という実に安定したバッティング、しかも3安打→2安打→2安打を2回繰り返したことで、切れ目なく全期間7割をキープしたものだ。10月5日は3打数2安打で打率は.696と7試合連続にわずかに届かなかったのは残念だ。
先の表の6試合の選手は全て、王や加藤と同じように期間中7割をキープし続けた選手であった。これを、榎本のように「途中6割を切ることもあったが6試合の合計で7割をマーク」という選手に条件を広げれば、実は他に延べ26人がクリアしている。

鷹野の記録は先に書いたような事情でここでは実質5試合相当と見るべきで、打率.800の高評価も書いたとおりである。

この中で唯一2回、6試合7割を記録しているのが高橋由伸である。2003年のほうは7試合の表にも入っておりそこでは19安打だが、6試合の時点で既に18安打を放っている。しかも2001年にも同じく6試合に18安打をマークしている。高橋以外の7試合組ですら加藤の17安打が最高なのだから、これは高く評価されてよい。

2003年の記録には、6月7日から11日まで11打数連続安打、14打席連続出塁という核になる数字が絡んでいる。2000年の鷹野も13打席連続出塁と並行した記録で、他にも廣瀬純が日本記録の15打席連続出塁の時期と重なっているが、連続安打や出塁を記録したそれ以外の選手は、残念ながら7割の表に入ってきていない。7割を打つには、連続打数記録のような短期的な爆発力に加えて、もう少し長く続ける集中力が必要で、それが「好調」といわれるものの源泉かもしれない。
さて高橋が2回記録した18安打は1955年に飯田徳治も記録しているが、高橋や飯田のように6試合で18安打を放つということは、1試合平均3安打、すなわち毎日猛打賞を続けるのと数字の上では同等である。そこで視点を変えて、今度は1試合平均3安打を続けた選手、実況風に言えば「ここ6試合で18安打ですから、毎回猛打賞の計算です」というようなケースを見てみよう。

こちらも最高は7試合で、3人が記録している。1人目の中島治康はこの年史上初の三冠王に認定されているが、宇佐美徹也は『プロ野球記録大鑑』で「10月11日から11月5日まで11試合(略)プロ野球初の三冠王はこの11試合に集約されるといい切ってもよいだろう」としている。この11試合で48打数28安打の8本塁打20打点という猛打ぶりだったが、その中で17日から26日にかけて21安打を放って打率も.286から.388まで上げるという、首位打者の決め手になったような7試合だった。

そもそも6試合の時点で既に20安打と猛打賞を上回るペースで安打を放っており、高橋や飯田のさらに上である。宇佐美は中島の三冠王について「試合数が38と少ないものだけに、実質的には参考記録とみるのが本当だろう」としており、開幕から50試合前後の時点で打撃三部門とも首位というケースは珍しくない、と言う点を理由に挙げているが、この7割や21安打の部分については他と比較しても歴代最高クラスの絶好調状態だったと評してもよいだろう。

次の大下弘は、5試合目までは11安打で打率.550、確かに好調だったがここまで見てきた記録からすれば飛び抜けたものではなかった。ところが11月19日の対大陽18回戦で今なお日本記録に残る1試合7安打をマーク、6試合で18安打として打率も.292から.303と終盤近いこの時期に1日で1分も上げてしまった。
たった1試合の大爆発でこしらえたような記録にも見えるが、翌日も3安打猛打賞で7試合21安打としており、単なるフロックでなくバッティング自体が好調だったことがうかがえよう。

3人目の清田育宏は大下以来66年ぶりのタイ記録であった。5月9日から4試合連続の猛打賞、その後もコンスタントにマルチヒットを重ねて20日にはとどめの4安打で7試合21安打に乗せた。この場合6試合目では17安打で足りていないようだが、10日から20日の6試合で見れば18安打を放っており、前の二人と同等の記録である。17日が猛打賞だったら5試合連続猛打賞の日本タイ記録と7試合22安打の最高記録になっていたのが、返す返すも残念である。
6試合ではこれに加えて先の飯田、高橋のほか、金田正泰と坂口智隆も18安打を記録している。特に坂口は6試合全てに打点を挙げており、期間中15打点は群を抜いている。とはいえ15打点は実際に多い方なのかどうか、そこで安打と同じように1試合平均3打点で調べてみよう。

打率や安打では7試合が限度であったが、こちらは9試合と8試合という選手がいる。

9試合のニールは、8月24日に5打点、9月4日に6打点、そして中間の8月30日に7打点という、ちょうどいい間隔で打点を荒稼ぎしたのが奏功して9試合で27打点を積み上げたものだ。ニールはこの1996年に111打点で打点王に輝いているから、10日ばかりの間にシーズンの4分の1の打点を稼いだことになる。

次点の8試合が1950年の小鶴誠、シーズン161打点の日本記録の年だけにこの記録ですら埋もれてしまいそうである。8試合すべてに打点を記録、そのうち5打点1回、4打点2回、3打点3回とコンスタントに稼ぎまくった。ニールに0打点の試合があったことを考えると、安定感ではこちらの方が上だった。
なお小鶴の161打点は日本記録とされているが、実は試合ごとの集計上は160打点しか確認されていない。残る1打点がこの期間内にあったかもしれないが、現状確認の術がない。
この二人以外に7試合で21打点というのが4人いる。1946年の川上哲治は7試合中5試合が2打点以下、8月26日と31日にそれぞれ6打点をマークしたのが記録の核であった。ラミレスは5打点2回、4打点1回、3打点2回と小鶴のような安定感で残した数字である。金本知憲は開幕戦からの記録スタート、とはいえ4月7日に5打点で8日には7打点と、荒稼ぎがメインの川上に似た感じである。

村上宗隆はニールと同じく7試合では最多の22打点であるが、実は6月22日と30日はどちらも打点を記録していない。つまりこれは鷹野と同じく、実質的に6月23日から29日までの6試合で22打点を記録しているわけだ。
その内容は6打点と5打点各1回、4打点1回に3打点2回という安定した稼ぎぶりであった。村上以外で6試合での最多はニールの21打点だから、村上の記録はペースの点でニールの9試合や小鶴の8試合以上の評価を与えてもいいぐらいのものである。
とまぁ打点について見てきたわけだが、打者の好調を調べるのに打点で評価するのは実のところ少し違うかもしれない。その打者自身の勝負強さや集中力の持続が現れるのは確かだろうが、やはり前を打って塁に出る選手の成績あってこその部分がある(この辺は「スラッガーの期待打点値」でも触れた)。そういう意味で、本稿のテーマである打者自身の好調度合いを見るには、安打数と打率、そして本塁打あたりが一番いいのだろう。
一定期間の本塁打記録と言えば連続試合本塁打がある。1974年王貞治と1986年バースの7試合連続が日本記録なので、ひとまずこれに匹敵する「1試合1本以上のペースで7試合以上(=7本塁打以上)」という条件で調べてみると実に122ケースあった。しかも7試合で9本塁打とか、11試合で12本塁打とかいうケースもある。
そこで「1試合1本以上のペースで9本塁打以上」という条件にしてみたのが次の表である。

とにかくもこの1981年門田博光の11試合12本塁打である。10試合以下の門田の記録も全てこの期間の切り取り方によるものだから、これらは全て同一の記録と言える。

5試合連続本塁打が2回、ノーヒットの1試合を挟んで繋がっており、特に最初の5試合で7本塁打というのが効いている。7月1日から始まったこの記録、7月前半だけで12本塁打とあって、後半1週間のオールスターブレイクも何のその、月間16本塁打と日本記録を更新していた。

これに次ぐ10試合11本塁打が、1970年の王貞治と1989年のパリッシュで、2人とも5試合連続本塁打を核にした記録だ。王はこの間相変わらずの11四球(うち敬遠3)、その中で15安打中11本をスタンドに叩き込んでいた。この6月はこれを含めて月間15本塁打、これは門田の前の日本タイ記録であった。

それに比べるとパリッシュのほうは、4月と5月にまたがっているため月間記録として世に出ず、期間中の打率.514や20打点は王を上回っているにもかかわらず、あまり話題になっていない影の薄さは何とももったいない。
続いて10本塁打は、王と門田の他に2004年の阿部慎之助と2013年のバレンティンがいる。

阿部は10試合での数字、うち4月9日から16日まで6試合連続で8本を叩いたのが記録の核だが、これを含めて10本全て8番打者での記録というのも「史上最強打線」の異名に花を添えている。その後も阿部は打ち続けて、結局王の記録に並ぶ月間16本塁打としていた。

ここまで出てきた月間本塁打記録をまとめて更新したのが2013年8月のバレンティンで、この9試合10本を含めて月間18本塁打であった。5試合連続のような派手さはない代わりにこの期間に限らずシーズンを通してコンスタントに打ち続け、シーズン60本塁打の日本記録を樹立したのはご承知のとおりだ。
9試合10本塁打の期間中、これを8月28日までで見れば7試合で9本塁打となる。この7試合9本塁打を、王は3回もやっているのだからさすがである。

1回目は1964年、記録の核は連続試合本塁打ではなく5月3日の4打席連続本塁打であった。この年は最終的に55本塁打と例の日本記録を樹立したが、春先のこの爆発はそのファンファーレのようなものだった。

2回目は先の1970年、10試合11本塁打の最中に記録したものだ。そして3回目は1972年、9月11日から20日にかけて記録した7試合連続本塁打の日本記録がそのまんま当てはまる。

これらに対して2023年の岡本和真の凄さは、より少ない6試合での9本塁打だったことだ。それまで連続試合数プラス3本塁打というのは5試合で8本塁打というのが最多最長で1979年のスコットなど4人が記録していたが、それを塗り替えたわけだ。
本稿では打率7割とか平均3安打とか、ざっくりとした記録の目安から対象者を計算してきたが、本稿で挙げた項目だと概ね7試合から10試合が記録の限界であった。
こうなると、逆に試合数を決めてその中で最多最高はどのくらいか、という方向から計算してみたくなる。ただそれでは「好調さ」というより「最高記録」の方に重点が置かれ、本稿の趣旨から離れるためここでは深く掘り下げない。
参考までに、連続出場15試合における打率と安打数の上位10傑を調べてみたので掲げておく。同一時期の記録についてはより数字の良い期間だけを掲載したが、こうしてみると15試合で打率.550ぐらい、34安打ぐらい打っていれば、歴代トップクラスということが分かる(金田正泰と1996年のイチローも、集計時期の区切り方によっては35安打や34安打の期間もある)。


特に両方のランキングに顔を出している1946年の金田や1987年の新井宏昌、それに近い1990年の広沢克己や1996年のイチローは、まさに充実した打撃だったと言えるだろう。
ところで冒頭の榎本は、「本筋」の期間中最も打率が高かったのは7月20日から31日までの8試合で、31打数17安打、打率.548というものだった。半分の8試合での数字だから軽々に並べて話はできないが、打率は.550くらい、安打数も15試合換算では32安打程度になるから、表にある歴代トップクラス付近の数字、それも金田や新井と同等になる。
あの1963年の榎本の打撃が「本筋」に入っていたということは、実は記録の面からも保障される部分があると言えそうである。逆に言えば、これらの表のようなトップクラスの数字を打っていた選手たちもまた、本人は知ってか知らずか、実はその時打撃の「本筋」を体験していたのかもしれない。
