586昭和100年の昭和の日に綴る、激動の時代と昭和天皇の「祈り」の軌跡
卒業アルバムと学校写真のエキスパート 一級写真技能士の田賀谷浩です。今回もお目通しいただきありがとうございます。
今日は昭和100年の昭和の日。「天長節」に始まり「天皇誕生日」「みどりの日」「昭和の日」と呼び名は変節しても、この一世紀の間ずっと祝日であり続けたこの日にちなみ、昭和天皇に思いを馳せてみます。アイキャッチ画像は産経新聞のサイトより引用です。
迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王は、大正10(1921)年11月25日より病弱で在らせられた大正天皇の摂政宮となり、天皇の大権を行使。大正15(1926)年12月25日、大正天皇崩御に伴い第124代天皇として即位、同日より昭和が始まります。
歴史の転換点に立つ:若き日の苦悩と決断
昭和天皇による治世の前半は、若さゆえとも言えるかもしれませんが、ご自身の心情を露わにされる機会も多く見受けられました。
昭和3(1928)年、田中義一首相に不満をもらし叱責した結果、内閣総辞職となり翌年失意のうちに亡くなった事に責任を痛感される事となったり。同11(1936)年の「二・二六事件」の折には自らが「朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮圧に当たらん」と言葉にされたり。同16(1941)年のハルノートを受けての御前会議において、明治天皇が日露開戦を嘆いて詠まれた御製「四方の海 みな同胞と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」を詠み上げ、昭和3年の件以降は政府の方針に不満があっても口を挟まないと決意されておられながらも、開戦に賛成しかねる意思は言葉になさるなどされています。
しかし、昭和20(1945)年8月、ポツダム宣言受諾の可否で結論の出ない御前会議の席において御聖断を求められた際には、「國體護持」一条件のみで受諾をされ、その決断力で終戦が実現します。國體については後ほどあらためて詳しく述べます。
敗戦から復興へ:マッカーサーとの会見と全国巡幸
昭和20(1945)年9月27日は、昭和天皇にとって「一番長い日」であったとも言えるのではないでしょうか。戦争責任を問われて拘束され、処刑されるかもしれない。見送られる香淳皇后に今生の別れを思われてか「ごきげんよう」の一言だけ声をかけて連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見のためGHQ本部を訪れます。大概の国家元首と同様、責任を臣下に押しつけるなどして自身の戦争責任から逃れようとしてくるであろうとの大方の予測に反し、陛下は「戦争遂行にあたる決定と行動の全責任を負う立場として自らの身はどうなっても構わない。その代わり窮乏している国民を救って欲しい」というようなお言葉を発し、マッカーサーを深く感動させたと伝えられています。
国民に寄り添う姿は決して上辺だけのものではなく、終戦の翌年から足かけ9年にわたって行われた「全国巡幸」にも如実に表れています。人々の元へ自ら足を運び、 時には板張りの床に敷かれたござの上で就寝されるなどなさりながら焼け跡に立ち、一人ひとりに「あ、そう」と声をかけられるその姿は、疲弊した国民に寄り添う象徴としての姿を強く印象づけました。そして自らは5月の空襲で焼け落ちた宮殿の建て替えを勧める侍従たちに「家を失った国民がいるうちは新しい住まいは要らない」と、昭和39(1964)年まで着工を拒み続け、それまでは雨漏りが絶えない防空壕にお住まいになり続けました。その一環として質素倹約を旨とされ、室内のスリッパを踵が擦り切れて無くなってもそれを履き続けておられたのはあまりに有名です。

現代に続く伝統:御田植えという「祈り」
昭和天皇が始められた事柄としては、一夫一婦制を築いたり、女官の源氏名と御所言葉を廃止するといった旧習を革めるものもあれば、、皇室の新たな伝統も築かれました。
そのひとつが現在も皇居で行われている「御田植え」になります。 これは、昭和天皇が農村の労苦を思い、五穀豊穣を祈るために始められた伝統です。自ら田に入り、一株一株植えられるそのお姿は、古来より農業を重んじてきた日本の精神を体現するものとして、終戦直後の昭和21(1946)年から行われています。皇居内に水田を作られ、田植えをされ、秋に収穫した米は新嘗祭の折に根付きのまま神前に供えられています。私事ですが皇居に勤労奉仕で訪れた折にはその田んぼの畦を歩かせていただきました。
また、生物学者としての側面も持ち、ヒドロ虫類(ヒドロゾア)の研究など、科学の発展にも寄与されました。御田植えの田んぼはその研究室に隣接した場所に設けられています。ある日、侍従が芝生に生えていた草をさして「雑草を抜きましょうか」との申し出に対し、「雑草という名の草はない」と返されたお言葉には、万物への慈しみと深い洞察が込められています。
昭和100年に思うこと
昭和天皇が歩まれた道は、決して平坦なものではありませんでした。しかし、その根底には常に「常に国民と共に在る」「国家が安寧である事を祈る」という思いが込められていた事がわかります。それは昭和の御代になって始まったものではなく、遙か神話の時代から続いて来ているものです。
その事は日本書紀に記された天照大神の神勅にある「治らす(シラス)」という言葉に由来します。国を治めるとは国のあらゆる事、そこに暮らす人々の心情の全てを「知る」事が全てである、というのが帝王(=国を治める者)に求められる資質とされているのが神話時代からの日本の国の有り様で、そこには他国の王侯貴族のような、己と身の回りだけが裕福で豪奢であればいいとの思いは微塵もありません。
そんな神でもなければ成し遂げられないような崇高な立場を生身の人間で果たそうとされているのが代々続いている天皇という存在なのです。誰でもそうですが、物事を知り始めるとそれを大切にしたくなるもので、大切なものであり続けてくれるように祈りたくもなるものでしょう。なので天皇は常に国と国民の安寧を祈り続けておられるのです。「国を治らす(=知ろうとする)者(=天皇)が、自分の知る全てのものが豊かであれと祈り続ける存在であり続ける」それを「國體」と表現しています。先の大戦の折にポツダム宣言受諾の一条件は何だったでしょうか?「國體護持」の一条件でしたね?他の何物も失っても、国の全てを知ろうとする存在(=天皇)を国家の最高権威、象徴として戴くことだけは譲らなかったのです。他の国や地域が足下にも及ばない二千年以上もの永きにわたり、日本という国が連綿と続いてきたのは、國體がもたらしていると言っても決して過言では無く、これからの未来にも永く受け継がれて行けるように努めるのが、今を生きる我々に課された使命と言えるのではないでしょうか。
昭和100年の昭和の日という節目にあらためて思う、まさに有り難い存在である天皇を戴き続ける事で今日まで続いて来た日本という国が、これから先も永く続いていってくれる事を。皇弥栄
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