「安全」な日本で、危険になりうる見えない家庭
日本における貧困を考えるとき、
いつも立ち止まってしまう問いがあります。
私たちは「生」と「死」の狭間にいるわけではないはずなのに、
なぜ虐待や犯罪による痛ましい事件はなくならないのか。
なぜ、命を絶とうと考えてしまう人がいるのか。
武智先生の「絶対貧困と相対貧困の狭間で」を何度も読み返しながら、
自分が本当にやりたいと思っていること、
その枠組みについてずっと考えて続けているのです。
私たちは貧困を『比較』するのではなく、『多面的に理解し合う』可能性を見出せるのではないでしょうか。
武智先生が私のコメントに、返信をくださった内容を読んで、
「その通りだ」と思い、一生懸命、自分なりに絶対的貧困を想像しようとしました。
いろんな記事や写真を見て、胸が痛くなりました。
けれど同時に、それを現実として受け入れきれない自分もいました。
なんとなく想像はできる。
けれど、本当の意味では想像しきれない。
これが、武智先生のおっしゃっていることなのかもしれないと思いました。
今回、武智先生の記事を通して、
私が改めて考えさせられたのは
「安全というインフラ」という言葉でした。
そう考えると、「安全」な日本で、
実は安全ではなくなる可能性が高い場所が、家庭なのだと思いました。
職場は辞めることができます。
けれど、家庭はそう簡単には離れられません。
法律で守られているようでいて、
子どもの人権は親に委ねられています。
考えない親であれば、法律そのものが子どもの首を絞めることにもなり、家庭から逃げ出すことは容易ではありません。
0歳から18歳まで、家庭という鎖につながれます。
一方で、考える親であればあるほど、子どもを守ろうとします。
家を「安心」できる場所にし、
「安全」な場所に子どもを向かわせたいから、事前に調べ、選び、慎重になります。
教育の尊さも知っています。
けれど、その思いは一歩間違えれば、親の正義を子どもに押し付けることにもなりかねません。
今は中学校でも私学を選ぶ家庭が増えています。
公立は治安が心配、設備が古い、友人関係が不安、勉強が遅れるかもしれない。
そうした不安が積み重なるからです。
不安をすべて消して、「安全」に教育を受けさせようとすればするほど、教育費は高騰していきます。
実際、私が通っていた高校では、
女子トイレに妊娠検査薬の陽性反応が置かれていたり、暴走族がグラウンドに入ってきたりすることがありました。
きっと、親は「ここに子どもを行かせたくない」と思うでしょう。
私はゆとり世代です。
当時の授業では、先生からの指示で、教科書にいくつものバッテンをつけました。
「ここはやらなくていい」と言われた範囲です。
私は塾に通えなかったので、その部分を学ぶ機会はありませんでした。
だから今でも、その内容は知りません。
けれど、塾に通えた人たちは、その範囲まで学んでいます。
同じ教科書、同じ学年でも、実際には受け取っている教育の量は違っていました。
それこそ、円周率を「3」で習った知人もいます。
祖父は、戦時中に、不要とされた情報を黒い墨で消した話をしてくれました。
私の教科書に引かれたバッテンを見て、
なんともいえない気持ちになったようです。
相対的貧困について語られるとき、
「修学旅行に参加できない」
「定期券が買えない」
「エアコンがない」
こうした言葉が、どこか“甘え”のように受け取られてしまうことがあるのかもしれません。
けれど、どうかそこに至るまでにも目を向けてほしいのです。
修学旅行に参加できないということは、
親が積み立てをできない環境にあるということ。
その裏で、子どもがすでにアルバイトなどをして生活を支えている可能性もあります。
親による使い込みが起きているケースも、現実に存在します。
エアコンがないという事実も同じです。
これだけ熱中症の危険性が叫ばれ、
壊れる前に買い替える家庭がある一方で、
「ない」という選択をせざるを得ない意味があります。
もし「親が悪いから仕方ない」で片づけてしまうのなら、
そこで育った子どもたちの気持ちや背景を、誰も考えなくてよくなってしまう。
親の助けが不可欠な幼少期や小学生の時期には、見えない貧困は、子どもの生死に直結する問題になりやすいと感じています。
そして中学生、高校生になると、
見えない貧困は、静かに、けれど確実に心を圧迫していく。
表に見えないからこそ、気づかれにくく、声も上げにくい。
だからこそ、この問題を
「比較」ではなく、「理解」として考える人が、少しでも増えてほしいと、強く思っています。

