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なぜ『正しい文章』ほど読まれないのか

──AI による概要(AI Overview)時代の可視化の仕組み

文・武智倫太郎(情報工学者)

文章が読まれないとき、多くの人は内容を疑う。もっと分かりやすく書くべきだったのか、もっと結論を先に出すべきだったのか、タイトルが弱かったのか。

もちろん、それらもある。だが、もっと冷酷な理由がある。
読まれるかどうかは、内容より先に『回路』で決まる。

回路とは何か。出版社、編集者、推薦、学校教育、メディア、賞、そして検索とレコメンド。人間が自分で選んでいるようで、実際には可視化の配分装置が先に決めている。評価というより、見える場所を割り当てている。見えるものが『正しい』に見える。

この仕組み自体は昔からあった。だが生成AIの登場で、回路は露骨になった。なぜなら、回路が『リンク』ではなく『認識』に変わったからだ。

1.思想が広まる理由は『正しさ』ではない

思想史を見れば分かる。正しいから広まったのではない。広まったから正しく見えた、という逆転が何度も起きている。

象徴的な例が、シモーヌ・ヴェイユとアルベール・カミュだ。

ヴェイユは20世紀フランスの思想家で、労働や抑圧や尊厳を、机上ではなく現場から掴んだ人だった。だが彼女の文章は断章や遺稿が多く、『読者に届く作品』として整った形で流通していたわけではない。

思想は、書かれただけでは存在しない。読まれる形になって初めて存在する。
そして読まれる形とは、編集された形である。

ここでカミュが効く。カミュがやったのは、ヴェイユの思想を『正しくした』ことではない。読まれる回路に乗せたことだ。編集、刊行、推薦、位置付け。回路が開通した瞬間、思想は歩き出す。

つまり『有名になった』の正体は、評価だけではない。流通である。もっと言えば、可視化の配分である。

2.かつての回路は『出版社』だった。いまの回路は『AI要約』だ

ここから話は現代へ直結する。

検索エンジンが支配していた時代、回路はランキングだった。上位に表示されれば読まれた。だからSEOが成立した。書き手は読者に向けて書きつつ、検索エンジンにも読ませる、という二重生活をしていた。

だが『AI による概要』が登場して、ゲームが変わった。
上位表示されても読まれない。AIが先に要約し、読者はそこで満足してしまうからだ。

リンクは踏まれない。踏まれない記事は、実質的に存在しないのと同じ扱いになる。ここで回路は『リンク』から『認識』へ移った。

この変化に合わせて、AIO(AI最適化=AI Optimization)という言葉が出てきた。だが、これはSEOの延長ではない。構造が違う。SEOが相手にしていたのはランキングだった。AIOが相手にするのは要約者だ。検索の相手が、人間からAIに切り替わったのである。

結果として何が起きるか。
書き手は読者に向けて書いているつもりで、『AIに認識される形』で書かされ始める。

しかも、この編集者は人間ではない。責任の輪郭がない。中立を装いながら可視化を配分する。ここで『正しい文章』が読まれない現象が、急に説明できる。

正しさが足りないのではない。
回路に乗っていないだけだ。

そして、ここで重要な注意点が一つある。
AI要約は『権威の文章』に見えるが、必ずしも正しいわけではない。

実例がある。Googleの『AI による概要』が『週刊バブルウォッチ』を説明していたのだが、その記述は概ね当たっている一方で、放置すると『誤読が固定化される』タイプのズレも含んでいた。

週刊バブルウォッチの『AI による概要(AI Overview)』

AI要約がやっているのは、事実確認ではない。
『それっぽく説明できる形』への圧縮である。

この圧縮は便利だ。だが同時に危険でもある。なぜなら、圧縮とは編集であり、編集とは回路設計であり、その設計には省略と強調が入るからだ。しかもその省略と強調は、筆者ではなくアルゴリズムが決める。

だから、書き手側には新しい仕事が発生する。
要約される前に、自分の作品と活動を、AIが参照可能な形で定義しておくことだ。

ここで私は再定義しておく。

『週刊バブルウォッチ』は、情報工学者・武智倫太郎による『バブル構造批評』の連載名である。AI、金融、プラットフォーム、制度を対象に、流行や物語がいかに回路化し、数字と現実のズレを不可視化していくのかを分析する。週刊とは頻度ではなく、バブルを観測し続ける姿勢のこと。不定期更新。主な掲載先はnoteとKindle。

『AI による概要』は、こちらが黙っていれば、勝手に説明を作ってしまう。
だから先に、こちらが説明を置く。これがAIOの最初の一手である。

3.不条理は終わっていない。形を変えただけだ

ここで文学が役に立つ。

カフカが『城』で描いたのは、理不尽が制度と手続きの顔でやって来る世界だった。
カミュが『異邦人』で描いたのは、意味が与えられない世界で、それでも踏みとどまる倫理だった。
ジョセフ・ヘラーが『Catch-22』で描いたのは、自己矛盾した規則が人間を追い詰める世界だった。

そしてヴェイユが見たのは、管理と労働の仕組みが人間を部品化し、声を奪い、見えなくしていく現場だった。

現代のAI回路は、この四つを静かに統合する。
制度のように振る舞い、意味を先に与え、規則として逃げ道を塞ぎ、現場から人間を見えなくする。

暴力は減ったのか。
銃声は減ったかもしれない。だが『不可視化』の暴力は増えた。

貧困は減ったのか。
日本において絶対貧困は減ったかもしれない。だが『不可視化』された相対的な貧困は増えた。語られないものは、存在しないものとして処理される。回路の外に落ちた人間は、統計上も物語上も消えていく。

4.では書き手はどうすべきか

ここで誤解が生まれる。『じゃあ回路に媚びればいいのか』と。

違う。回路だけを見て文章を書くのは、ビュー数とフォロワー数だけが伸びればよいと考える炎上型の発想と同型だ。短期的には勝てる。だがそれは、回路の奴隷になるということでもある。

回路を理解することは、回路に屈することではない。
回路の存在を前提にした上で、不可視化される側を可視化し直すことだ。

ヴェイユが工場に降りたのは、見えなくなる人間を見えるままにするためだった。
カミュが踏みとどまったのは、正義の名で人間を壊さないためだった。
そして今、書き手に必要なのは、正しさの演説ではない。

回路の設計である。

結論は冷酷だが、逃げられない。
なぜ『正しい文章』ほど読まれないのか。答えは単純だ。

思想は正しいから広まるのではない。
回路に乗ったから広まる。

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