観光客が逃げ出した2006年のオアハカで、私は暮らし始めた――20年後、あの「違和感」をAIと答え合わせしてみた
今から20年前の2006年。
メキシコ・オアハカでは大規模な暴動(APPO運動)が発生し、観光客が街から消えました。
そして先日、ハリスコ州の暴動事件のニュースを見た時、その時と同じ「既視感」を思い出しました。
メキシコは日本の約5倍の国土を持ちます。
ニュースだけだと「メキシコ全土が危ない」と感じることもありますが、実際には混乱が起きるのはごく一部の地域だけ。
そして、暴動の最中でも、市民は普通に生活を続けています。
こんにちは、オアハカ在住のさるです。
その光景は、私が2006年にオアハカに移住した時に体験した混乱と、とてもよく似ていました。
「夜出かけても安心だよ」なんて言われていた平和なオアハカに、私が移住したのは2006年6月。
でも、到着した瞬間に待っていたのは、夢のオアハカ生活……ではなく、街中に築かれたバリケードと、空を覆うタイヤの黒煙でした。
2006年の暴動で荒れ狂うオアハカ。
観光客が次々と逃げ出す中、頑なに私はそこに居座っていました。
今思うと、当時の自分の図太さに感心しますが(笑)
あの「混沌とした」オアハカを生き抜いたことで、私の「オアハカ愛」は本物になった気がします。
今回は、2,400記事を超える過去ブログアーカイブから、20年前の「オアハカ初心者の現地の日々」を掘り起こしました。
そして、その時に感じていた違和感を、AIと一緒に答え合わせしながら振り返ってみたいと思います。
「親が先生なら、子も無条件で先生になれる。それが自分たちの権利だ」
もし、そんな叫びを上げながら街を封鎖している集団がいたら、あなたはどう思いますか?
私がメキシコ・オアハカに降り立った2006年6月。
そこは「APPO(オアハカ人民会議)」が街を占拠し、バリケードと催涙ガス、そして怒号が飛び交う異様な世界でした。
到着した日も、「空港が封鎖されないことを祈るよ!」とオアハカの友達に言われたほどです。当時は、APPOが暴れる日もあれば、暴れない日もありました。運よく、私が到着したのは暴れていない日。
当時の私は、スペイン語も流暢とは言えず、今みたいに翻訳アプリもAIもありません。
ただ現場の空気を肌で感じる中で、日記に書き残していた「体験と疑問」。
それを20年経った今、AIにぶつけて答え合わせしてみました。
当時の私が感じた「疑問」を2026年のAIと答え合わせしてみた。
❓ 私が感じていたことは正しい?
当時、ストライキをしていた先生たちは、
「親が先生なら子どもも無条件で先生になれる。その法律(教育改革)を『資格を取る』という形に変えるのは、俺たちの権利を剥奪するのか!」
当時の私には、大きな火種の一つに見えていたけどどうなの?
🤖 2026年のAIに聞いてみた。
その直感は、まさに核心を突いています。当時のオアハカの教職員組合には、既得権益と批判されていた構造が存在していました。
・ポストの世襲
親が退職する際、教員免許の有無に関わらず、その職を子どもに「相続」させることができた。
・ポストの売買
教員としての椅子を、現金で他人に売ることができた。
政府が「試験を導入して能力のある人を採用しよう」と動いたことは、彼らにとって「家族の財産(現金化できるポスト)」を奪われることに等しかったのです。彼らが叫んでいた「権利」の裏側には、こうした極めて不透明な利権構造が隠されていました。
❓ 私が感じていたその後の流れは?
その後、ウリセス・ルイス(当時の州知事)を退かせて、APPOの味方をアピールして当選した新しい知事(ガビノ・クエ)がいたけど。
彼は「俺たちは君の味方だ!」とAPPOに熱狂的に迎えられたのに、結局、約束を反故にして組合を潰しにかかった。あれは何だったの?
🤖 2026年のAIに聞いてみた。
まさにオアハカ政治の最大の皮肉です。
2010年に当選したガビノ・クエ知事は、APPOの支持を背景に70年以上続いた旧体制(PRI)を打ち破りました。しかし、いざ知事になると、暴走し続ける組合の要求に応えきれず、結局は連邦政府が進める教育改革を受け入れる道を選びました。
2015年には、組合が握っていた人事権や財政権を事実上「剥奪」する組織刷新を断行。「味方だと思って担ぎ上げた男に、自分たちの特権の根源を潰される」という、裏切りと失望の結末を迎えました。
20年経って思うこと
2006年、移住とほぼ同時期に書き始めた「さる♪オアハカ日記」は、2,400記事を超えています。
私のオアハカへの愛は、ブログという記録の中に残してきました。あの混沌とした時代に、「それでもオアハカで生きていく!」という決意と共に書いてきたものです。
そして、
当時の混沌としたオアハカでも、私は普通に生活していました。
新しいオアハカの現地会社にも採用されました(そこはすぐクビになったけど)。
そして実際に生活していて、
一番影響が大きかったのは、次のことでした。
住んでいて、APPOが迷惑だったのは
主要道路の封鎖
空港封鎖
バスターミナル封鎖
道路で燃やされるタイヤ
破壊されたゲラゲッツア会場
占領されたソカロと周辺
道が封鎖されて市内バスも通らない。
そんな時は、市民が自分のワゴン車やトラックで有料の「即席バス」を始めていました。
オアハカの人たくましすぎだし、私も普通に利用していました(笑)。
多くのジャーナリストが、APPO(オアハカ人民民衆評議会)を「民衆の美しい蜂起」として報じる中で、私が現地で毒づいていたのは、
「え、これって結局、自分たちの変なルールを守りたいだけじゃないの?」
という冷めた感覚。
政府に文句があるなら政府を叩け!一般市民に迷惑かけるな!ク●が!!と怒っていたのも覚えています。
あの当時を思い出すと、「メキシコの矛盾」こそが、私にオアハカという街を光も影もひっくるめてフラットに見つめる「目」を養ってくれたのだと思います。
でも混乱の中でも、村の職人さんが作るものは、変わらず美しかった。
政治は嘘をつくけど、手仕事は嘘をつかない。
だから私は、モノづくりの方に吸い寄せられていったのかもしれないです。
2006年のブログまとめ
2006年、リアルタイムで綴っていたカオスな日常を、少しだけ紹介します。
los maestros(8月22日)
テレビでは過激に報道されているけど、個人的には「道が封鎖されてデートがキャンセルになった」という怒り。
夜中に(8月23日)
夜中1時、激しい発砲音で目が覚めた。救急車の音もしてマジでびびったけど、朝パパに「この家にいる限り大丈夫」と言われて一安心。3日前の地震が可愛く思えるほど。
セントロ(8月30日)
いたるところ落書きだらけ。過激な集団に近づかなければ一般市民に危害はないかな。案外みんな普通に生活してるし、私も変わりなし。
フォルティンの丘(9月28日)
人影なし。バスは焼かれ、破壊の跡がすごい。でも、金網に紙コップを差し込んで「FUERA ULISES(ウリセス出ていけ)」と書く手法には、笑っちゃいけないけど笑った。
放水(11月1日)
警察が放水してたけど、水が赤い。なんとチレ(唐辛子)入り!メキシコらしすぎて、目に入った時の痛さを想像して震えた。
たくましく(11月2日)
一般市民が乗り合いのワンボックスで商売を始め、利用していました。意外と楽しい。この日は家族とおいしいモーレ・ネグロを堪能。
でっかいマルチャ(11月27日)
デモの翌日、街中のガラスが割られ、ギフトショップから「偽コーチのバッグ」だけ盗まれていた(笑)。
銃声が聞こえる近所で映画を観たり、メスカルを飲んで寿司を作って誕生日を祝ったり。混乱していても日常は止まらない。
最後に
先日のハリスコ州の暴動でバスが燃やされ、黒煙が立ち上りビジュアル的には衝撃が大きかったと思いますが。
過去の経験から、バスは放火前にお客を全て降ろし、強奪したバスに火をつけてます。
私も乗っていたバスに、バンダナで顔を隠した数人の若者が乗り込んできて「このバスを乗っ取るから降りろ!」という場面に出くわしたことがあります。
なので、今回のハリスコ州の衝撃的な映像の印象に比べて、一般市民の死傷者が大きく報じられていない理由の一つだと思います。
映像の衝撃と、現実の生活の距離。そのギャップこそが、メキシコなのだと思います。
過去の膨大なブログのアーカイブをさかのぼってみると、世間が大騒ぎしている裏で、同居人と寿司パーティをしたり、村へ行ったり、映画に行ったり、民芸品に感動している私の記事の多いこと。笑
当時はただ必死でした。でも、あの熱狂と混乱を肌で知っているからこそ、オアハカという街が経験した「見えない傷跡」があること、そして、ただ可愛いだけの場所ではないことも理解しているつもりです。
実はこれ、ただの過去の話ではありません。
表向き「APPO」という名前は消えましたが、「Sección 22(教職員組合第22支部)」として地続きで、今もしぶとく生き残っています。中身はあの頃より過激ではなくなったけど。
2006年以降も、彼らによるデモや道封鎖は繰り返され、メキシコ国内では「オアハカの名物は『道封鎖(Bloqueo)』」なんて皮肉たっぷりに風刺されるのが定番になってしまいました。
でも、そんな激しい風刺の時代からも20年が経ち、今では「たまにデモや封鎖があるな〜」くらいの落ち着き(?)を見せています。
「あ、まだやってるんだ」と流せるくらい頻繁に。
だから私は、「Sección 22(教職員組合第22支部)」が今でも嫌いです。
今のオアハカは、本当に可愛くて素敵です。
でも振り返ってみれば、あんな最悪な条件だった頃にオアハカにやってきて、日本に逃げ帰ることもなく、今のベースを作り上げた自分。
「がんばったじゃん!」
あの時の自分がいたから、今の私がここにいる。
あと、これだけのことを経験しても「メキシコは危なくない」と言っているのは、自分でもおかしいと思うけど。笑
それは当事者以外の市民や私の生活が普通だったからで、現地にいてもどこか他人事でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
当時のオアハカを知る人も、今のオアハカが好きな人も、ぜひ感想をコメントでいただけると嬉しいです!
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