読・休日~『知られざる傑作』(バルザック)
はじめに
今回もフランスの文豪オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の、しかし今回は短編集です。
これは初めて読んだバルザック作品として、個人的に思い出のある短編集です。ここで注意が必要なのは、「思い出がある」のと「思い入れがある」のとでは、当然ながら、雲泥の差がある、と、云うことです。この作品を読むのは、これまた今回で3回目なのですが、それにもかかわらず、表題作の「知られざる傑作」と、以前にもご紹介した「ことづけ」以外の作品は、話の筋も登場人物もまるで覚えていないのですから、我ながらナカナカの記憶力です。しかしそれもまたよきかな、です。なんとなれば、3度目にしてなお、初読の感激(?)が味わえるのですから(笑)
そんなわけで、以下に、3度目の初読(??)の感想を記していくことにいたしましょう。
「沙漠の情熱」

本文中に「ドゥセー将軍のくわだてた上エジプト遠征のさい」、「ボナパルトがエジプトを駆けまわっている最中だった」と記されていますから、1798年から1801年までの間のいつかの話です。
語り手がナポレオン戦役に従軍した老兵士から聴いた話を、知り合いの女性に語って聴かせる構成になっています。
そこで語られるのは、エジプト戦役のさなか、敵軍の野営地から首尾よく脱走したはいいが、途中で乗馬が力尽き、沙漠のただなかに取り残された兵士と、以前ひとが住んでいた形跡のある洞窟の中で出くわした「エジプトのライオン」たる女豹との間に熟成されていく不思議な情交です。
最初の洞窟の中での出逢いの恐怖から、次第に濃密で細やかな男女の恋愛の機微にも模せれらる情実の交流にまで高まっていくさまを描写するバルザックの筆致には驚嘆のほかありません。
猫はよく女性に譬えられ、また女性(なかんずく恋人)もよく猫に譬えられます。それを考えますれば、ネコ科である豹が女性に譬えられてもおかしくはありません。
この作品でも兵士は件の女豹を「ミニョンヌ(Mignonne)」と呼んで、まさしく恋人のように扱います。
「ミニョンヌ」もまるで本当の人間の恋人のようにふるまいます。この兵士に懐き、甘え、その身を心配し、ときに嫉妬の焔さえ燃え立たせます。
女豹に対する兵士の愛情を描くのはさして困難なことではないでしょうが、その逆――動物の人間に対する心情を、その微妙な変化の過程を、あたかも人間のそれの如くに違和感なく描き切るのは、まさに練達の技倆を要するものと思われます。それを美事に成し遂げているバルザックは、やはりさすがと云わざるを得ません。
最後は愛しあったふたり(?)の破局にありがちな些細な出来事によって終わるのですが、そこに至るまでのたがいの情熱の高まり、醗酵の様子、そしてあまりにあっけない、しかしそれだけに興趣に富んだ残酷なラスト・シーン、と、まさに沙漠にひとりたたずんで、彼方の地平に沈みゆく夕暮れを見つめているような、かなしく胸しめつけられる余韻を残す物語となっています。
「ことづけ」

この作品につきましては別に記しました(読・休日~『グランド・ブルテーシュ奇譚』)ので、今回はできるだけそれと重複しないように注意しながら書き記していくことにします。
学生時代のサークルで採り上げられた作品であることは以前にも述べましたが、その討論の際に、伯爵の旺盛な食欲を、抑圧された性欲の発露の象徴であると力説して、先輩の女子学生を赤面させてしまった(と、あとで先輩の男子学生から聞かされた)ものでした。半可通の象徴主義と病理心理学に毒されていたものと思われます(笑)。
そのときは出席者全員で読み合わせした後、作品内容の討論に入りました。このことはつまり、出席者による読み合わせが可能なほど短い作品でありながら、作品内容について討論できるほど、その内容の濃い作品だということです。
善良ではあるけれどもおよそそれだけが取柄であるような愚鈍な夫との、退屈で刺激のない田舎での倦怠で澱んだ生活、そのなかで唯一とも云える生の希望をもたらしていたのが若き子爵との逢瀬だった伯爵夫人が、突然その恋人の死を知らされ、深い絶望の淵に転落しながらも気丈に立ち直ろうとする姿、そして亡き恋人の云わば遺言執行人を務めた若く貧乏な青年に対するこまやかな心遣いなど、再三再四、じっくり噛みしめて読めば、なかなかに深い味わいが醸し出されてきます。
たんなる寸感にとどまらず、思考力を活用させて逐語的に分析総合してみますと、その奥深さを少しは感取することができるかもしれません。
「恐怖時代の一挿話」

ここに云う「恐怖時代」とは、フランス大革命後においてロベスピエールを中心としたジャコバン派が権力を行使していた一時期のことを指し、本書の訳注によりますと、1793年5月から1794年7月にわたる期間とされています。
当時のフランスにおいては死刑執行人はその業を世襲されていました。大革命によってルイ16世とマリー・アントワネットの首を刎ねたのはシャルル=アンリ・サンソンといいまして、パリの死刑執行人を勤めたサンソン家の4代目の当主です(Wikipedia/「シャルル=アンリ・サンソン」より)。
そしてこの死刑執行人は――皮肉なことに――その主義において王党派であり、ルイ16世に限りない尊崇の念を抱いていました。にもかかわらず、家業のために自分の考え(主義)や気持ちを抑圧して、国王の首を刎ねるという弑逆、宗教面からすれば赦されざる罪を犯さざるを得ず、その罪の意識の傷ましさ、魂に深く刻まれた悔恨の情が、三人の敬虔な修道士たちが隠れ棲む屋根裏部屋での妖しくも荘厳なミサの様子をとおして描かれています。
尾行者の影に怯えながら夜更けの町を行く修道女の描写から始まるこの物語は、その題名に相応しく、底知れない恐怖感を不気味な基調低音にして展開されてゆきます。他の寸感でも何度も繰り返し申し上げておりますが、これもまた、バルザックの探偵小説的な妙味がよく醸し出されている一編と云えるかと思います。
なお、この作品に登場するふたりの修道女は、それぞれ、ランジェー公爵とボーセアン侯爵の縁者のようですが、このふたり、『ゴリオ爺さん』の登場人物であるランジェ公爵夫人とボーセアン子爵夫人にも関係がありそうです。
ここで余談をひとつ。
ウィリアム・アイリッシュと云うサスペンス作家の短編に「ぎろちん」という作品がありますが、この作品にも、サンソン家の死刑執行人が重要な役どころで登場します。サスペンスの魅力あふれる佳編ですので、こちらもご一読をおススメします。
「ざくろ屋敷」

最初、おどろおどろしい物語を想像したのは、「ざくろ屋敷」と「どくろ屋敷」の語感が似ているためでしょう(笑)。
『谷間の百合』のダッドレー夫人がこの物語の主人公の死に関連しているらしいのでその興味から読んだのですが、残念ながら直接に触れてないどころか、それらしい匂わせもないのですから、いささかガッカリしました。
このざくろ屋敷にどこからともなくやって来た、素性不明の、しかし人品骨柄卑しからぬ女性と、二人の幼い子どもの話なのですが、ストーリーらしいストーリーはなく、ふたりの幼い子どもを残して死んでいかねばならないこの女性の苦悩煩悶が、おだやかな日常風景の描写のなかにつづられていきます。
この作品自体と云うよりも、この作品に描かれている前後に展開される物語――夫人と幼い二人の子どもがこのざくろ屋敷に、いわば退隠した生活を送るようになった経緯や、二人の子どもや家政婦のその後などが、むしろ興味を掻き立てます。総じて感想の書きにくい作品ですね(笑)
「エル・ベルデゥゴ」

題名の「エル・ベルデゥゴ」と云うのはスペイン語で「死刑執行者」と云う意味です。
ナポレオンによって占領されていた頃のスペインが舞台で、ヴィクトル・マルシャンなるフランスの青年士官と、スペインの貴族であるレガニェス太公の娘クララとの間に流れるほのかな恋心を背景として、駐留フランス軍に対するスペイン民衆の突然の蜂起とその鎮圧、その結果としてのレガニェス太公一家の処刑へと物語は展開するのですが、やはりストーリーの起伏よりも、その丁寧な描写が読みどころとなっています。
蜂起が鎮圧されると、フランス軍を奇襲した者たちはみずから名乗り出で、その代わりとして、他の住民は許されること、また掠奪や放火などの挙に出でない約束を取り付けました。
レガニェス太公一家はその召使たちとともに城の広間に拘束監禁され、フランス軍の手によって処刑されるのを待つこととなります。老太公は青年士官のマルシャンを通じ、フランス軍の将軍に対して、家族のために絞首刑ではなく、貴族に相応しい死の刑罰として、斬首の刑をほどこすこと、僧侶を呼ぶこと、遁走を企てるつもりはないので監禁の縄を解くことを要求します。
フランス軍の将軍はその要求を承諾しただけでなく、「彼の息子のうちで、死刑執行人の役目をつとめるものがあれば、そのものの命を助けてやろう、そうして太公の財産もそのものに継がせよう」と、温情のような、残酷なような、ちょっとなに云ってるか理解しかねる申し出(という名の命令?)をおこないます。一家の者の手にかかって死ぬ代わりに、その斬首人は助命し、家名を継がせると云うのですから、まるで我が国の戦国時代にありそうな話です。そうしますとこの将軍の申し出は、さしずめ「武士の情け」と云うところでしょうか。
さて、この将軍の申し出に対し、一家の死刑執行人となったのは、三十歳の長兄、ファニトでした。家族の情とスペイン貴族としての矜持が複雑に交錯するさまが、個々の人物をとおして、重層的に描写されます。ラテン系らしく情熱的で、スペイン貴族としての矜持を昂然と掲げて処刑に臨む、レガニェス太公一家の凛とした誇り高い生き様(死に様?)が感動を呼びます。
その処刑の様を見かねたフランス軍の一士官が、最後に将軍に上申しますが――
そんな甘っちょろい結末にはならないよ、と、バルザックのイジワルい笑い顔が目に浮かんできそうです。
「知られざる傑作」

実在の画家であるニコラ・プーサン(Nicolas Poussin,1594-1665年)の若き日の物語の体裁をとり、彼が、これまた実在した画家であるフランソワ・ポルビュス(François Porbus)の門を敲くところが冒頭になっています。
若きプーサンはポルビュスを畏敬しており、あたかも初恋の青年が相手の家を初めて訪れるときのような心持ちでそのアトリエを訪問するのですが、そこで彼は不思議な老人に出会います。
みすぼらしいなりをしたその老人をしかし、ポルビュスはうやしやしい態度で迎え、老人も恐縮した様子もなく、傲然と振る舞います。
老人はポルビュスの「エジプトの聖女マリア」の絵に痛烈な批評を下し、その目の前で絵筆とパレットを手にして必要な加筆をするのですが、それがまた見事な効果を顕現させ、最初は尊敬するポルビュスの絵に容赦ない批評を下していたこの老人を快く思っていなかったプーサンも、その説明と出来栄えに刮目し、この老人が只者でないことを悟ります。
またこの老人も若きプーサンの鑑識眼とその素質に一目置いたようで、そのデッサンの代価として二枚の金貨を与えます。
若きプーサンはこの老人の手腕に感嘆し、彼が秘蔵している作品――「美しき諍い女」を鑑賞するために、自分のモデルを務めてくれている恋人のジレットを彼のモデルに推薦しようと試みます。
女性らしい恥じらいから最初はその申し出を断ったジレットも、恋人の懊悩を目の当たりにして彼の役に立とうと、健気にもその意を決します。
一方の老画家にとっても、その絵はたんなる絵ではなく、まさしく恋人そのもの、生命の源であり、感情であり、情熱なのです。どのようなことがあってもそれを人目に晒すことなどできない、と、頑なに云い張ります。
そんな老画家の前にやって来たプーサンとジレットの二人は……
そして「この世のありったけの傑作ほどの値打はある」「類のない美人」であるジレットを目の当たりにした老画家は……
そしてそして、かの知られざる傑作「美しき諍い女」とはどんなに素晴らしい絵画なのか……
バルザックはよく、狂気にも近い情熱を得意として描く作家と云われますが、この作品はまさにそんなバルザックの傾向をよく表した好短編と云えるでしょう。
あとがき
表題作の「知られざる傑作」は、『美しき諍い女』として1991年に、ジャック・リヴェット監督によって映画化されました。この作品はカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを獲得しました(Wikipedia/「美しき諍い女」より)
この作品はポール・セザンヌのお気に入りと伝えられ、セザンヌは、画家たるもの、年に最低1度はこの作品を読み返すべきだと語ったとか、自分の胸を指さして、フレンホーフェル(老画家)は私だ、と、示したとかの逸話が残されています。
また、ピカソもこの作品を気に入っており、その筆になる挿絵が残されているほか、フレンホーフェルがアトリエを構えていたグランゾーギュスタン街にアトリエを借り、そこで傑作『ゲルニカ』を製作した話は有名です(Wikipedia/「知られざる傑作」より)。
ニコラ・プーサンやフランソワ・ポルビュスなど、実在の画家を登場させて大丈夫だったのだろうかと云う吾人の心配は、どうやら杞憂だったようですね。

