悪銭はよく鳴る 第五話 灰の歳月
彼女とは、それきり会わなかった。
六本木の小さなフレンチで、僕が突然「半分、現金で」と言った女のことだ。
彼女から受け取った一万円札は、細く、長く、そして苦く鳴った。
その夜、僕はノートにこう書いた。
関係性あり。
自尊心利用。
抵抗は弱いが、余韻が長い。
苦味。
冷えた甘さ。
直接強奪より静か。
再現性あり。
その一行から、数年が始まった。
僕は、人間関係を金に替えていった。
いや、そう言うと、ひどく露骨に聞こえる。
実際には、もっと静かだった。
友人と会う。
昔の同僚と飲む。
知人の相談に乗る。
女と食事をする。
銀座へ行く。
葬儀に出る。
祝いの席に顔を出す。
それらは、外から見れば普通の生活だった。ただ、僕はそこに必ず金を見ていた。
誰が払うのか。
誰が払いたくないのか。
誰が払うふりをしているのか。
誰が払わせようとしているのか。
誰が、財布の奥の一枚を守ろうとしているのか。
人間関係は、燃やす前の紙幣だった。
最初は、そのことに少しだけ抵抗があった。
だが、抵抗というものは、慣れると音が鈍くなる。
女に現金を出させる。
友人に立て替え分を返させる。
相談に乗った相手から、礼として封筒を受け取る。
香典袋から戻ってきた札を手に入れる。
売掛を回収した女から、その夜の金の一部を崩してもらう。
昔世話をした男に、冗談めかして「少し返してよ」と言う。
どれも、犯罪ではなかった。少なくとも、そう見えた。
礼儀。
清算。
割り勘。
返礼。
付き合い。
義理。
世の中には、金を動かすための上品な言葉がいくらでもある。
僕はそれらを覚えた。
いや、昔から知っていたのだろう。ただ、それが鳴ることを知らなかっただけだ。
売掛の札は、よく鳴った。
特に、客が渋って出した札は、湿った弦のような音がした。女の笑顔、店の空気、ボーイの視線、ママの沈黙。そういうものが、紙の繊維に細く絡んでいる。
燃やすと、甘い香水の奥から、古い雑巾のような匂いが立つ。
味は、甘い。
けれど、底に鉛がある。
香典の札は、違った。
あれは鳴らない。少なくとも、最初はそう思った。
火をつけても、音がほとんどしない。紙は普通に燃える。黒く縮む。灰になる。だが、旋律が立ち上がらない。
その代わり、舌が冷たくなる。
乾いた菊の匂いがした。黒い服の袖が擦れる音や、畳の上に長く正座している膝の痛みが、舌の奥に薄く広がる。誰も本音を言わない親族の声。焼香の煙。戻ってこない人間のために出された金。
香典の札は、鳴らない。だが、こちらを見ている。
祝い金の札は、意外なほど軽かった。
火をつけると明るく鳴る。甘さもある。だが、すぐ消える。人が喜びのために出した金は、案外つまらない。見栄や嫉妬が混じると、少しだけ鳴る。心からの祝いは、驚くほど透明で、燃やしてもほとんど残らない。
僕は少し失望した。
人間の善意は、音楽には向いていない。
よく鳴るのは、いつも別のものだった。
惜しみ。迷い。未練。恥と見栄。
返せなかった気持ちと、言わなかった言葉。
そういうものが、紙に染みる。
僕はそれを燃やした。燃やして、聴いた。嗅いだ。味わった。。
一度だけ、よく覚えている札がある。
薫ママの昔の客だった男の札だ。
その夜、僕はいつもの席に座っていた。
店はまだ混み切っていなかった。早い時間の銀座には、準備が終わっているのに本番が始まっていない、妙な空白がある。女たちは笑顔を整え、ボーイは音を立てずに動き、客のいない席には、これから使われる金の気配だけが薄く残っている。
入口の方で、小さな気配がした。薫ママが、誰かと話していた。
僕は最初、気にしなかった。
店の入口で、ママが客と話すことはよくある。予約の確認。久しぶりの挨拶。入れる席があるかどうか。そういうやり取りは、店の空気の一部だ。
だが、その夜の薫ママは、ほんの少しだけ違った。背筋の角度に違和感がある。
顔は笑っている。けれど、笑顔の奥で、一枚だけ古い紙をめくったような気配があった。
僕はグラスを置いた。
入口に立っていたのは、痩せた男だった。
髪は短く、スーツの肩は少し合っていなかった。新しいものではない。昔着ていたものを、無理に身体へ戻したようなスーツだった。
男は、薫ママに深く頭を下げていた。客がママに頭を下げることはある。だが、その下げ方には種類がある。
金を使う前の頭。頼みごとの頭。詫びの頭。別れの頭。
その男の下げ方は、最後のものに近かった。
僕は立ち上がった。
トイレに行くふりをした。
店のトイレは、入口の近くにある。だから不自然ではない。僕はゆっくり歩いた。急ぐ必要はなかった。獲物に近づくとき、急いではいけない。
薫ママがこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬、彼女の目が「来なくていい」と言ったように見えた。
だから、僕は近づいた。
「お知り合いですか」
僕は、偶然通りかかったような声で言った。
薫ママは少しだけ黙った。
男はこちらを見た。
礼儀正しい顔だった。礼儀正しすぎる顔だった。
「昔のお客さん」
薫ママが言った。
「お久しぶりです」
男は僕にも頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
僕は笑った。
こちらこそ、という言葉は何も言っていないのに、何かを返したように聞こえるので便利だ。
男は薫ママに向き直った。
「今日は、挨拶だけです。もう、こういうところへ来ることもないと思うので」
声は静かだった。けれど、静かすぎた。
静かすぎる声には、たいてい何かが詰まっている。
薫ママは何も言わなかった。座っていけば、とも言わない。
銀座の女は、優しい。だから時々、優しくしない。
僕は男の手元を見た。薄い財布が見えた。
黒い革。くたびれている。ブランド物ではない。手に馴染んでいるというより、手元に残ったものを仕方なく使っているような財布だった。
男の指が、その財布の端に触れていた。
帰りたいのだ。
だが、帰り方が分からない。
そのとき、僕はその男に興味を持った。
「せっかくですから」
僕は言った。
男がこちらを見る。
「一杯だけ、飲んでいきませんか」
「いや、今日は」
「僕の席で」
僕は薫ママを見た。
「構いませんよね」
薫ママは、ほんの少しだけ眉を動かした。
それが拒絶なのか、諦めなのかは分からなかった。
「僕が誘ったんですから、ここは僕が」
男の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
ああ。
その顔を見た瞬間、僕は喉の奥が乾くのを感じた。
救われた顔だった。
人が救われた顔をしたとき、そのあとに出す札はよく鳴る。
男は少し迷ったあと、頷いた。
「一杯だけなら」
「一杯だけ」
僕は言った。
薫ママは何も言わず、ボーイに目配せした。
僕たちは席に移った。
僕の席。
店の奥の、いつもの席だった。
男は、座る前にもう一度だけ薫ママに頭を下げた。それから、少しぎこちなく椅子に腰を下ろした。昔は、もっと自然に座っていたのだろう。
そう思った。
人間は、失った場所に戻ると、椅子の座り方さえ忘れる。
ボーイが、新しいグラスとコースターを置いた。女は男の方へ少し身体を向けた。
「水割りでよろしいですか?」
男は、慌てたように頷いた。
女は僕のボトルに手を伸ばし、手元でウイスキーを薄く水で割った。グラスの縁を指で整え、男の前のコースターの上に、水割りを静かに置く。
男は小さく頭を下げた。その頭の下げ方が、やはり別れに近かった。
「昔、よく来ていたんですか」
僕は聞いた。
「ええ。少し」
男は答えた。
少し、という言葉は嘘だった。少しの客は、こんなふうには戻ってこない。
「ママとは長いんですね」
「長くなる前に、いろいろありまして」
男は笑った。その笑い方は、笑いではなかった。
自分の話をそこで終わらせるための蓋だった。
僕はその蓋を、少しだけ持ち上げたくなった。
「女ですか」
男の手が止まって、グラスの中の氷が小さく鳴った。
薫ママが、少し離れた場所からこちらを見た。
男はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「まあ、そうですね」
「この店の方?」
「いえ」
男は首を横に振った。
「ここじゃありません」
それで十分だった。
昔、別の店にいた女。男の金と見栄と未来を、少しずつ夜へ溶かしていった女。
誰かがその女のことを、魔女みたいだったと言った。僕はその言葉を、あとで薫ママから聞いた。
魔女。
便利な言葉だ。男が自分の愚かさを、女の力に変換するときに使う言葉。
「今でも、会いたいんですか」
僕は聞いた。男は少しだけ笑った。
「さあ。わかりません」
「じゃあ、今日は何をしに」
男はグラスを見た。
「足跡を消しに来たんだと思います」
僕は、その言葉を覚えた。
足跡。
自分で言った言葉は、あとで自分に返ってくる。
男は一杯をゆっくり飲んだ。早く飲めないのだと思った。酒が弱くなったのかもしれない。
あるいは、その一杯を飲み終えたら、本当に帰らなければならないからかもしれない。
会話は少なかった。それでよかった。
人間は、喋らせすぎると味が薄くなる。沈黙の中に残っているものの方が、よく鳴る。
やがて、ボーイが黒い革の伝票挟みをテーブルに置いた。
会計は、席で行われる。
銀座では、金も静かに動く。
僕は伝票を開き、何も言わずにカードを置いた。
男が顔を上げた。
「いや、それは」
「僕が誘ったので」
僕は言った。
「ここは僕が」
男は口を開きかけた。それから閉じた。
安堵が、また顔に浮かんだ。ほんの少しだけ。
その瞬間だった。
札が鳴る前に、男の見栄が鳴った。
僕はそれを聴いた。
細い音だった。
まだ火をつけていないのに、音はもう始まっていた。
ボーイがカードを持って下がる。
テーブルの上に、短い沈黙が残った。
僕はグラスの縁を指でなぞった。
「でも」
男がこちらを見る。
「本当に、僕が払っていいんですか」
男の表情が止まった。
薫ママの視線が、少し遠くからこちらへ向いた。
「ここまで来て」 僕は言った。 「何も残さず帰るんですか」 「最後の一杯くらい、足跡を残していってもいいんじゃないですか」
足跡。
さっき、男が自分で使った言葉だった。 だから逃げられない。僕はただ、その言葉を返しただけだ。
男は、薄い財布を取り出し、ゆっくりと開いた。中には、一万円札が一枚と、千円札が数枚あった。
千円札だけでは足りない。いや、足りるか足りないかではない。男自身が、それでは足りないと思ってしまった。
銀座に戻ってきた夜。
昔のママに頭を下げた夜。
魔女みたいな女の話を、少しだけ他人に聞かれた夜。
その夜の最後に、千円札を何枚か出して済ませることは、男の中の昔の自分が許さなかった。
彼の指が、一万円札に触れた。止まる。出したくない。
僕には分かった。
その一万円札には、明日が入っていた。
帰りの電車代か、安い宿の金か。翌朝、役所へ行くための金だったのかもしれない。あるいは、誰かに会うために残しておいた一枚だったのかもしれない。
何に使うつもりだったのかは知らない。
知らなくても、札は鳴る。
ただ、その札だけは、彼の中でまだ未来だった。
男はそれを抜いた。抜いたあと、一度だけ、財布に戻しかけた。
戻せなかった。
「少ないですが」 男は言った。
そして、その一万円札を僕に差し出した。
店ではなく。
薫ママでもなく。
僕に。
紙が、男の手から僕の手へ移った。
その瞬間、喉の奥が乾いた。
札は、まだ燃えていない。けれど、確かに鳴っていた。
とても細く。とても乾いた音で。
「ありがとうございます」
僕は言った。
感謝の言葉は、便利だ。受け取ったものを、正当なものに見せる。
男は少しだけ笑った。
その笑顔は、さっきよりも軽かった。何かを払った人間の顔だった。
あるいは、何かを失ったことを、まだ理解していない人間の顔だった。
ボーイがカードを戻す。僕は伝票にサインをした。
男はその間、ずっとグラスの底を見ていた。
やがて立ち上がり、薫ママにもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
薫ママは、いつもの顔で頷いた。
「身体、大事にしてね」
それは優しい言葉だった。だが、優しい言葉は、遅すぎると残酷になる。
薫ママは、男を外まで見送った。
店の扉が閉まり、少しだけ外の冷たい空気が入り込んだ。
僕は席に座ったまま、一万円札を内ポケットの中で押さえていた。
紙は軽い。
それなのに、そこだけ重かった。
しばらくして、薫ママが外気の匂いを少しだけ連れて戻ってきた。
「歩いていったわ」
彼女は言った。言わなくてもいいことだった。だから、言ったのだと思う。
「駅の方じゃなかった。タクシーも拾わなかった。どこへ行くのかしらね」
僕は返事をしなかった。
そして薫ママはため息をついて僕を見た。
「趣味悪いわね」
「知っています」
「昔から?」
「最近です」
彼女は笑わなかった。
「あなた、先生に似てきたわ」
その言葉で、グラスの中の氷が小さく鳴り、
僕は受け取った一万円札を、内ポケットにしまった。
紙は、驚くほど軽かった。
その夜、帰宅してから燃やした。
部屋の灯りはつけない。カーテンを閉め、陶器の皿をテーブルに置き、換気扇を回す。
財布からではなく、内ポケットから一万円札を取り出す。
火をつける前から、紙幣は細く震えていた。
雨の夜に奪った札のような激しさはない。
彼女から受け取った札のような冷たい甘さとも違う。
その札は、乾いていた。乾いた糸のように鳴った。
香りは、安い石鹸だった。
それから、古い毛布。
畳ではない、もっと硬い床。
紙コップの水。
誰かからもらった菓子の甘さ。
封を開けずにしまわれた手紙。
そして一瞬だけ、魔女みたいな女の香水が混じった。
味は、鉄だった。
古い鉄。
それから、砂糖の抜けた飴。
最後に、ほんの少しだけ、見栄の味がした。
男は、金を払ったのではなかった。自分がまだ銀座で一杯分くらいは払える男だと、証明したかったのだ。
僕はその証明を受け取った。
そして燃やした。
哀れだとは思わなかった。申し訳ないとも思わなかった。ただ、よく鳴る札だと思った。
僕はノートに書いた。
銀座。
薫ママの昔の客。
出戻り。
別の店の女。
魔女の残り香。
最後の一杯。
足跡。
自尊心利用。
明日の金。
乾いた鉄。
余韻、長い。
そこまで書いて、ペンを止めた。
足跡。
男は、足跡を消しに来たと言った。だが、僕はその男に足跡を残させた。そして、その足跡を燃やした。
洗面所へ行き、何度も手を洗った。
石鹸をつけて、指の間まで洗った。
タオルで拭く。もう一度、手を嗅ぐ。
まだ、安い石鹸の匂いがした。
店で嗅いだものではない。僕が使った石鹸の匂いでもない。あの男の札から立ち上がった匂いだった。
消えない。
そういうものが、消えたように見えて、僕の中に少しずつ積もっていったのだ。
気づくと、食が細くなっていた。
肉を食べても、脂が重い。
寿司を食べても、米の甘さが遠い。
ワインを飲んでも、香りが平板に感じる。
チョコレートは甘すぎた。
コーヒーは苦すぎた。
水だけが、まだ飲めた。
僕は年齢のせいだと思った。
五十を越えると、誰でも少しずつ食が細くなる。酒も弱くなる。身体も軽くなくなる。そういうものだ。
実際、医者に行っても、特に悪いところはなかった。
「少し痩せましたね」と医者は言った。
「食事量が落ちているのかもしれません。無理に食べる必要はありませんが、栄養は取ってください」
僕は頷いた。それだけだった。
白髪も増えた。
最初はこめかみだけだった。やがて、前髪にも混じるようになった。鏡を見るたび、少しずつ別の男がそこにいる気がした。
老けたな。
そう思った。それだけだった。
僕は、自分が人を喰っているとは思っていなかった。
人を喰う、という言い方は大げさだ。
ただ、紙幣に火をつけただけだ。
その紙幣が、たまたま人間の未練や恥や迷いを吸っていただけだ。
僕はそれを聴いただけだ。嗅いだだけだ。味わっただけだ。
だが、味わったものは、身体のどこかに残る。それを僕は、まだ知らないふりをしていた。
官能も薄れていった。
昔は、女の笑い方や、指の動きや、グラスを持つ手首の角度に反応した。
銀座の女は、距離の取り方がうまい。
笑うとき、少しだけ身体をこちらへ向ける。グラスを置くとき、指先が触れそうな場所まで来る。けれど、触れない。こちらが一歩近づけば届く、という余白だけを残して、そこで止まる。
男は、その余白を自分で埋めたくなる。近づいているのは女ではなく、自分だと思える。
僕はその距離が好きだった。
だが、いつの頃からか、女の肌よりも、女が受け取る札の方を見るようになった。胸元に光るネックレスより、会計のあとにママがしまう封筒。
香水より、財布の奥から出された一万円札。
笑顔より、売掛の残高を言われたときの、ほんのわずかな目の揺れ。
僕は女を見ていなかった。女を通って動く金を見ていた。
薫ママは、それに気づいていたと思う。
ある夜、薫ママは僕の正面に座り、僕の煙草に火をつけた。
「最近、飲まなくなったわね」
「歳ですかね」
「食べてもいない」
「医者にも言われました」
「女の子も、あまり呼ばない」
「静かなほうが落ち着くんです」
薫ママは、しばらく僕を見ていた。その目は、責めてはいなかった。ただ、何かを測っていた。
「先生みたいね」
その一言で、グラスの中の氷が小さく鳴った。
「先生?」
「前にいたでしょう。白髪の」
「ああ」
僕は笑った。
「僕は、あんなに渋くありませんよ」
「そういうことじゃないわ」
僕は細く煙を吐いた。
「見るところが似てきた」
「どこを見ているんです」
「人じゃないところ」
僕は答えなかった。彼女も、それ以上は言わなかった。
銀座の女は、踏み込むときと踏み込まないときの境目を知っている。踏み込まないことも、仕事のうちだ。
その頃から、僕は店の奥の席に通されるようになった。
最初は偶然だと思っていた。
混んでいない夜。
予約の都合。
客の流れ。
たまたま空いていた席。
けれど、何度行っても同じ席だった。
店の奥。
入口からは少し離れ、店全体が見渡せる。隣の席の会話はほどよく届き、こちらの声は外に漏れにくい。女たちの動き、ボーイの視線、ママの立ち位置、客の財布の開き方がよく見える。
いい席だった。
銀座の店では、いい席にも意味がある。
騒ぐ客を置く席。
金を使わせたい客を置く席。
見せたい客を置く席。
隠したい客を置く席。
安心して長く座らせる客の席。
僕は、最後の席に案内されていた。
店としては、当然だったのだろう。
僕は金払いがよかった。
無理な要求をしない。
女の子に乱暴しない。
泥酔しない。
店の空気を壊さない。
ときどき高い酒を入れ、支払いもきれいだった。
上客。
そう呼ばれる種類の客になっていた。それは、悪いことではない。むしろ、僕はうまく年を取ったのだと思った。
ある夜、席に着いた僕に、若い女が言った。
「この席、落ち着きますね」
「そう?」
「なんか、先生って感じします」
その言い方に、悪意はなかった。
ただ、店で年上の客に向ける、少し便利な敬意があっただけだ。
それでも、僕の舌の奥に、古い飴のような甘さが戻った。
先生。
そう呼ばれたことは、これまでにもあった。客商売の女は、男をいろいろな呼び方で包む。社長、先生、旦那さん、お兄さん。どれも、その場の関係を丸めるための柔らかい紙だ。
だが、その夜の「先生」は、少し違って聞こえた。
僕は店の奥から、フロアを見た。
近くで見る銀座と、奥の席から見る銀座は違った。女たちの笑いは、ひとつひとつの顔ではなく、店全体に薄く張られた膜のように見える。男たちはそれぞれの席で見栄を張り、グラスの中の氷が小さく鳴るたびに、どこかで財布が開いた。
札は、静かに動いていた。
まだ燃えていない札が、この店にはいくらでもあった。
財布の奥で曲がり、汗を吸い、嘘と家賃と香典と女の指を通ってきた札。
出したくなかった札。
これから出される札。
出されずにしまわれる札。
僕は、それらを見ていた。そして、ふと気づいた。
この席だ。
あの夜、白髪の先生が座っていたのは。隣の隣の席から、僕を見ていたのは。
僕が女たちの前で新札を燃やし、得意げに笑っていたあの夜、先生はここに座っていた。
僕はようやく、そのことに気づいた。
薫ママが、少し離れた場所からこちらを見ていた。
目が合う。彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ顎を引いた。挨拶とも、確認とも、黙礼ともつかない仕草だった。
僕はグラスを持ち上げた。
飲むつもりはなかった。ただ、手に何かを持っていたかった。
氷が小さく鳴る。
その音が、遠い昔に燃やした一万円札の低い弦に、少しだけ似ていた。
僕は笑った。
笑うつもりはなかった。けれど、笑っていた。
そして、その笑いの奥で、冷たいものが少しだけ動いた。
あの夜、先生は僕を見ていた。
女たちの前で、何も知らずに新札を燃やし、得意げに笑っていた僕を。金を燃やしているつもりで、何も聴こえていなかった僕を。
先生は、見ていた。
人じゃないところを見る目で。まだ鳴っていない音を聴く耳で。あのとき、先生にとって、僕はどう見えていたのだろう。
財布の中の札ではない。
僕自身が。
人の未練や恥を吸い、金に触れ、女の笑顔を見て、少しずつ乾いていく一枚の紙として。
先生は、ただ僕に作法を教えたのではない。
僕がいつか、この席に座る日を待っていたのかもしれない。
いや。
待っていた、というのも違う。
先生は知っていたのだ。
僕のような男は、いずれ自分からここへ座る。
誰に命じられなくても。
誰に引っ張られなくても。
自分の足で、先生の席へ来る。
そして、そこを居心地がいいと思ってしまう。
背中の奥が、少しだけ冷えたが、それでも僕は、席を立たなかった。
先生の席は、思っていたより座り心地がよかった。
まるで、逃げられないように誂えられた椅子のように。
僕はフロアを見た。
隣の隣の席で、声の大きい男が財布を開いていた。
女たちが笑っている。
男は一万円札を指で弾いた。
僕は、その指先をじっと見つめた。
数字は鳴らない。
人は鳴る。
そして、僕もまた、人だった。
