悪銭はよく鳴る 第六話 燃やし方が悪い
その男の顔を、僕は知っていた。
テレビで見たのではない。
テレビを見る習慣は、もうずいぶんなくなっていた。昔はニュースも経済番組も見た。市場の空気を知るため、中央銀行総裁の表情を見るため、政治家の言葉の端を見るために。
だが、数字を見なくなってから、画面も見なくなった。
それでも、その男の顔は知っていた。
ネット番組だった。
誰かが切り抜いた動画を、何度か見たことがある。早口で、断定的で、少し笑っていて、相手の話を最後まで聞かない男。
金の話をするとき、金に興味がないふりをするタイプの男だった。
実業家。
投資家。
連続起業家。
そういう肩書きが、画面の下にいくつも並ぶ種類の人間だった。
年齢は、僕より少し下か、同じくらいかもしれない。だが、本人はまだ若い側にいると思っている顔だった。
年齢ではなく、速度で自分を定義している人間の顔だ。
男は、隣の隣の席に座っていた。
女たちが三人ついている。
ボーイが一本高い酒を運んできた。店内の空気が、ほんの少しだけその席へ寄った。こういう客は、店にとって分かりやすくありがたい。金を使い、声が大きく、話題になり、女たちも笑いやすい。
僕は、いつもの席に座っていた。
先生の席。
そう呼ぶようになったのは、自分の中だけだ。
店としては、ただのいい席だったのだろう。入口から少し離れ、店全体が見渡せ、隣の会話はほどよく届き、こちらの声は外に漏れにくい。
騒ぐ客を置く席ではない。安心して長く座らせる客の席だ。
僕は、そこに案内されるようになっていた。
上客だから。
静かだから。
女の子に無理を言わないから。
支払いがきれいだから。
それだけのことだった。
銀座では、怪異も作法の中に隠れる。
男の声が聞こえた。
「金なんて、結局、数字なんだよ」
女たちは笑っていた。
男はグラスを持ちながら続けた。
「紙の札なんて、もう古いでしょ。全部データ。全部信用。財布なんて持ってるやつ、ほんと意味分かんない」
僕は、グラスの中の氷を見た。
数字は鳴らない。
そう思った。だが、その男の声には、不思議な熱があった。
金を数字だと言いながら、男は金を信じていた。信用を笑いながら、信用で生きていた。紙の札を馬鹿にしながら、女たちの前で紙の札を見せたがっていた。
矛盾している。
人間はだいたいそうだ。
男は財布を取り出した。
意外なことに、長財布だった。
黒い革。まだ新しい。角が立っている。女の一人が「現金、持ってるんですね」と笑った。
「持ってるよ。こういう場所では、現金のほうがウケるでしょ」
男はそう言って、一万円札を一枚抜いた。
新札だった。少なくとも、そう見えた。
折り目がない。端が立っている。銀行から出たばかりのように、紙はまだ自分が紙幣であることに慣れていなかった。
僕は少しだけ興味を失った。
新札は黙っている。
先生も、そう言った。
銀行から出したばかりの札は、まだ黙っている。ただの紙だ。あれは金ではない。印刷された約束にすぎん。
男は一万円札を指で弾いた。
乾いた音がした。
「これ、燃やしたら怒られるかな」
女たちが笑った。
「やめてくださいよ」
「もったいないです」
「でも見たいかも」
よくできた反応だった。
止める。
惜しむ。
少しだけ見たいと言う。
男は満足そうに笑った。
あの顔を、僕は知っている。昔の僕の顔だった。女たちの表情を見たくて、金を燃やそうとしている男の顔。
「火、ある?」
男が言った。
隣の女が、手元のポーチからライターを取り出した。GIVENCHYの、装飾の少ないシンプルなものだった。
高すぎない。安っぽくもない。客の時計やカフスより前に出ない程度に、きちんと品がある。銀座の女が持つ道具には、そういう加減がある。
女は男の煙草に火をつけるときのような手つきで、ライターを差し出した。
男は受け取り、一万円札の端に火を近づけた。
ボーイが一瞬だけ動きかけた。
薫ママが、目だけでそれを止めた。
店は、騒がなかった。
銀座の店は、客の悪趣味にも段階をつける。止めるべき悪趣味と、止めない方が高くつく悪趣味がある。男のこれは、後者だったのだろう。
火が、紙の角を舐めた。
女たちが声を上げる。
男は笑う。
新札が燃える。
つまらない灰になる。
そのはずだった。
音がした。
僕はグラスを持ったまま、動けなくなった。
最初は、自分の耳を疑った。
僕が火をつけたわけではない。
僕の札ではない。
僕が手に入れた札でもない。
あの男が、自分の財布から抜き、自分で火をつけた札だ。
それなのに、鳴った。
低い弦ではなかった。古い鐘でもない。もっと明るく、もっと大きく、もっと下品で、もっと遠くまで届く音だった。
公開される前の動画の熱があった。雇われるはずだった社員たちの靴音もあった。まだ炎上していない言葉や、まだ失敗していない事業の気配まで混じっていた。
それらが、一枚の新札から立ち上がっていた。
僕は目を閉じた。
周囲には、ただ目を閉じて酒の香りを確かめているように見えただろう。あるいは、少し疲れた上客が、隣の騒ぎを聞き流しているように見えたかもしれない。
だが、僕の中では、音が広がっていた。
紙幣は燃えている。
男は笑っている。
女たちは驚いている。
店は揺れない。
けれど、その札だけが、まだ起きていないものをいくつも燃やしていた。
これまで燃やしてきた札は、過去を持っていた。
財布の奥で曲がっていた時間。汗や嘘や家賃や香典、女の指。出したくなかった瞬間。返せなかった言葉。
そういうものが、紙の繊維に沈んでいた。
だが、この札は違った。
折り目がない。誰の財布にも長く眠っていない。誰かが出すか出さないかを迷った時間も、まだ吸っていない。まだ、使われていない。
まだ誰の財布の奥にも沈んでいない。
まだ家賃にも、香典にも、売掛にも、慰謝料にもなっていない。
それなのに、鳴る。
新札なのに。まだ白い紙なのに。
いや、白い紙だからこそ、そこにはまだ何でも書けたのかもしれない。僕は、そう思った。
それ以上は、分からなかった。
分からなくてよかった。火は紙を食い、音は遠くへ伸びていく。
味が来た。
強烈だった。
甘い。
甘すぎる。
先生の札の、古い飴のような甘さではない。
女が出したくなかった一万円札の、冷えた甘さでもない。
雨の駅前で奪った札の、酸っぱい甘さでもない。
これは、まだ誰も舐めていない蜜だった。
まだ借りていない金。
まだ口説いていない女。
まだ裏切っていない友人。
まだ失敗していない事業。
まだ誰にも迷惑をかけていない夢。
そういう、使う前の汚れが甘かった。
甘すぎて、喉が焼けた。
僕は咳をしそうになった。だが、こらえた。
目を閉じたまま、グラスを唇へ近づける。氷が小さく鳴った。その音で、かろうじて身体をこちら側へ戻す。
男は、気づいていない。
女たちも気づいていない。
薫ママも、たぶん気づいていない。
いや。
分からない。
彼女は、少し離れた場所からこちらを見ていたが、その目は、いつものように何も言わない目だった。
男の札は、半分ほど燃えたところで指を離され、灰皿に落ちた。
黒く縮れた紙片が、赤く灯る。
女が小さく悲鳴を上げる。
男は笑う。
「ほら、紙でしょ」
そう言った。
紙。
僕は、目を開けた。男の顔は、少しも変わっていなかった。
得意げで、速く、軽く、自分が場を支配していると思っている顔だった。
この男は、何も聴いていない。
自分の札が鳴ったことを知らない。
自分の未来が少し焦げたことを知らない。
そのことが、僕には不思議だった。
いや、不思議ではない。
僕も最初は、そうだった。女たちの前で新札を燃やし、笑っていた。音など聴こえていなかった。ただ、女たちの表情を見ていた。
その僕を、先生は隣の隣の席から見ていた。
悪趣味だな。だが、燃やし方が悪い。
先生は、何を見ていたのか。ようやく分かった。先生は、僕を見ていたのではない。僕の燃やした札を見ていたのでもない。鳴らない札を燃やしている僕を、見ていた。
まだ何も聴こえていない男を、見ていた。そして、僕のどこかが鳴ることを知っていた。
僕は、先生の札を燃やした夜のことを思い出した。
白い封筒。
古い一万円札。
左上の焦げ跡。
手紙のない封筒。
説明のない継承。
あれは、贈り物ではなかった。
救いでもなかった。作法だった。
いや、感染だった。
僕は、それを受け取った。受け取ってしまった。
男は、まだ笑っている。
女たちは、まだ笑っている。
燃え残った新札は、灰皿の中で静かに崩れた。
音はもう消えていた。だが、僕の舌の奥には、まだ甘さが残っていた。
この男は、鳴る。
しかも、僕より大きく鳴る。
過去を燃やす男ではない。
未来を燃やす男だ。
この男が聴き方を覚えたら、どれほど鳴るのだろう。
そう思った瞬間、自分の中で何かが決まった。
救いたいとは思わなかった。
止めたいとも思わなかった。
教えたい、と思った。いや、それも違う。
鳴らせたい、と思った。
僕はグラスを置いた。氷が、小さく鳴る。
隣の女が僕を見る。
「どうかされました?」
「いや」
僕は首を振った。
そして、隣の隣の席へ視線を向けた。男はまだ、燃やした札の話をしていた。
「金なんて、こういうことできるくらい距離を取らないとダメなんだよ」
女たちが笑う。
いい笑いだった。
よく訓練された、少し遅れる笑い。
僕は立ち上がらなかった。
ただ、椅子の背に身体を預け、少しだけ声を出した。
「悪趣味だな」
男が振り向いた。
思ったよりも早く反応した。そういうところも、よくできている。
「え?」
「悪趣味だと言ったんです」
女たちの笑顔が、ほんの少し止まった。
ボーイがこちらを見る。
薫ママは動かなかった。
男は、最初、冗談だと思ったようだった。
口元だけで笑う。ネット動画でよく見る、あの傲慢な笑い方だった。
「金を燃やすな、とでも?」
そこで止まらなかった。男は少し身を乗り出した。
「説教なら他所でやってくださいよ。僕ら、ただの紙切れの話をしてるんで」
女たちが笑っていいのか迷った。
笑いの途中で、空気が止まる。
男はその空気に気づいた。
気づいたうえで、さらに笑った。
「こういうのに怒る人って、たいてい金に支配されてるんですよね。紙切れ燃やしたくらいで、何か大事なものを汚された気になる」
言葉は速かった。慣れている。
相手の反応を待たずに、次の言葉で覆う。沈黙を作らない。考える隙を与えない。自分の速度を、そのまま場の正しさに変える。そういう喋り方だった。
昔の僕なら、少し苛立ったかもしれない。
今は、ただその唇を見ていた。よく動く唇だった。だが、音はしない。
さっき燃えた札の方が、ずっとよく鳴った。
「まあ、いいですけど」
男はグラスを持った。
「おじさん、金を燃やすなって言いたいなら、ちゃんと言った方がいいですよ」
その台詞を聞いた瞬間、僕は少しだけ目を閉じたくなった。あまりにも同じだったからだ。
金を燃やすな、とでも?
かつての僕も、あの夜、全く同じことを言った。
僕は首を横に振った。
「違う」
自分の声が、思っていたより低く聞こえた。
先生の声に似ていた。それが少しだけ嫌で、少しだけ心地よかった。
「紙を燃やすのは構わない」
僕は灰皿を見た。黒く縮れた紙片が、まだ少しだけ赤かった。
未来の燃えかす。そう思った。
「だが」
男が僕を見た。
さっきまでの笑いが、ほんの少しだけ薄くなっていた。
「燃やし方が悪い」
男が、目を細めた。いつもなら、すぐに相手の言葉を遮るのだろう。
間違いを正す。
論点をずらす。
笑いに変える。
動画なら、ここでテロップが出る。
しかし、その夜は少し違った。
男は言葉を継がなかった。
僕の顔を見ていた。
彼はまだ、何も知らない。自分の背負っているものが、さっきの火でどれだけ焦げたのかも。
自分の札が、どれほど下品で甘い音を店内に響かせていたのかも。
けれど、男の目の奥に、ほんの一瞬だけ、言葉にできない違和感が走るのを、僕は見逃さなかった。
火を見る前の紙のような震え。
それは、まだ音ではなかった。
だが、音になる前のものだった。
「……どういう意味ですか」
男の声から、さっきまでの軽薄な速度が少しだけ消えていた。
女たちは黙っていた。
ボーイも動かない。
薫ママだけが、遠くからこちらを見ていた。
僕は笑った。笑うつもりはなかった。けれど、笑っていた。
「一人で燃やせ」
女たちの笑顔が、今度は完全に止まった。
男は、僕を見たまま動かなかった。
その顔に、怒りが来るかと思った。
来なかった。
代わりに、興味が来た。
ほんの少しだけ。
いや、本人はそれを興味だと認めないだろう。
不快感。苛立ち。くだらない年寄りの絡み。そういう名前をつけるはずだ。
だが、僕には分かった。
彼の中で、一枚の白い紙が、ほんの少しだけ湿った。
男は、灰皿を見た。自分が燃やした一万円札の残りを。それから、僕を見た。
「一人で?」
「そうだ」
「それで何が変わるんです」
僕は答えなかった。答える必要はない。
先生も、答えなかった。
いや。
先生は、答えをくれたのかもしれない。ただ、それは言葉ではなく、一枚の札だった。
男はしばらく僕を見ていた。
やがて、薄く笑った。
「変な人ですね」
「知っている」
僕は言った。
男はグラスを置いた。
女の一人が、ようやく小さく笑った。場を戻すための笑いだった。けれど、その笑いは少し遅れ、少し乾いていた。
男はもう、さっきの速度を完全には取り戻せなかった。
ほんの数秒だけ。
それで十分だった。
男の中に、何かが残った。
燃え残りのようなものが。
僕は椅子に身体を戻した。舌の奥には、まだ未来の甘さが残っている。
甘すぎて、苦い。
薫ママが、静かに目を伏せた。それが咎める仕草なのか、見送る仕草なのかは分からなかった。
夜は止まらなかった。
銀座はいつも通り、濡れていない雨に光っていた。
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
どこかで財布が開く。
どこかで札が動く。
まだ燃えていない紙が、この街にはいくらでもある。
男は、もう一度灰皿を見た。
僕はその横顔を見ていた。
白い札は、もう黒い灰になっている。
だが、あの男の中では、まだ燃え始めてもいなかった。
それが、少しだけ楽しみだった。
