悪銭はよく鳴る 第二話 一ヶ月の灰
それから一ヶ月、僕は優雅に金を燃やした。
そう言うと、かなりひどい人間に聞こえる。
実際、ひどい人間だったのかもしれない。
けれど、その頃の僕には、まだ自分がどこか上品な場所にいるような感覚があった。高いワインを開ける。葉巻を一本灰にする。誰にも読ませない詩を書く。そういうものと同じだと思っていた。
退廃ではある。
だが、犯罪ではない。
少なくとも、誰かから奪ってはいない。
コンビニで現金を使い、お釣りを受け取る。タクシーではカードを出しかけてから、やっぱり現金で、と言い直す。駅前の立ち食いそば屋で、券売機に一万円札を入れる。小さな釣銭口から吐き出される紙幣を、指先で一枚ずつ確かめる。
紙幣には、顔がある。
そう思うようになった。
一万円。五千円。千円。
数字で見ていた頃には、どれもただの単位だった。けれど一度、燃える音を聴いてしまうと、紙幣は急に別のものに見えはじめた。
薄く折れた角。
中央に残る縦の線。
端に染みた小さな汚れ。
財布の中で擦れた繊維の毛羽立ち。
誰かの指先が何度も触れた場所だけ、ほんの少しだけ色が沈んでいる。
新札には、そういうものがない。
きれいすぎる紙幣は、顔がない人間に似ていた。
僕は燃やした札の記録をつけた。
日時。
場所。
入手経路。
燃えるまでの時間。
音の種類。
余韻。
最初に記録したのは、コンビニのお釣りで受け取った千円札だった。
夜中の一時過ぎ。
部屋の灯りを消し、換気扇を回し、陶器の皿をテーブルに置く。窓の外では、タクシーが一台、濡れた道路を滑っていった。雨は降っていないのに、アスファルトだけが湿っている夜だった。
千円札は、角が少し丸まっていた。
誰かが財布から出すとき、急いでいたのかもしれない。券売機に押し込まれ、レジの引き出しに挟まり、また別の財布へ移った。そういう小さな移動が、紙の表面に薄く残っている気がした。
火を近づける。
端が茶色くなり、やがて黒へ変わる。
音はした。
だが、最初の一万円札とは違った。浅い。薄い。蛍光灯の下でビニール袋が擦れるような、頼りない音だった。
けれど、音のあとに、匂いが来た。
カップ麺の粉末スープ。
冷めた唐揚げ。
レジ袋の内側にこもった湿気。
誰かが深夜に買った安い缶チューハイ。
その全部が、本当にそこにあったわけではない。
ただ、煙が鼻の奥に触れた瞬間、そういうものが一度に立ち上がった。
僕は換気扇の下で、しばらく動けなかった。
紙幣は、音だけではなかった。
匂いがする。
それに気づいたとき、喉の奥がゆっくり乾いていった。
次に燃やしたのは、タクシーで受け取った五千円札だった。
運転手は妙に無口な男で、降り際に「お気をつけて」とだけ言った。その声には、客に向ける丁寧さよりも、眠気の底から引き上げた疲れが混じっていた。
その五千円札は、少し硬かった。
火をつけると、低い音が鳴った。
弦というより、エンジンの奥で鳴っている小さな振動に近い。濡れたタイヤが道路を擦る音。革シートに残った整髪料の匂い。缶コーヒー。ビニール傘。遠回りされたかもしれないという軽い疑い。支払う側も受け取る側も、それ以上確かめなかった夜の気配。
煙はすぐに薄くなった。
それでも、部屋にはしばらく車内の匂いが残った。
僕はその匂いを、嫌だと思わなかった。
むしろ、もう一度吸い込みたいと思った。
そこから先は、ほとんど蒐集だった。
昼に入った蕎麦屋では、釣銭口から出てきた千円札を指で選ぶようになった。
駅前の古い喫茶店では、レジの奥から出された紙幣の角を、受け取る前から見ていた。
ドラッグストアでは、店員が五千円札を数える手つきに目がいった。
スーパーでは、前に並んでいた老人が財布から一万円札を出すところを見た。札は少し湿っていて、老人の指が端を離すまでに、ほんの短い間があった。
あれは、よく鳴る。
そう思った。
だが、その札は僕のものにはならなかった。
古本屋のレジに眠っていた千円札は、角が柔らかかった。
銀座の店で崩した五千円札には、香水と煙草の匂いがした。
僕はもう、金額を見ていなかった。
紙の疲れ方を見ていた。
そして、その疲れ方には、それぞれ音があった。
軽い札は、すぐ燃えた。音も薄く、灰も軽い。湿った札は、火がつくまでに少し時間がかかった。弦を濡れた指で弾いたような音がした。燃え尽きたあとも、耳の奥にしつこく残るものがあった。
そういう札は、たいてい財布の奥で長く折られていた。
匂いも違った。
乾いた仏壇の匂いがする札があった。押し入れの奥にしまわれた古い革のような札もあった。安い香水と煙草と、女の指が混じったような匂いに当たると、僕は銀座を思い出した。
いや、銀座ではない。
あの老人だった。
一人で燃やせ。
誰にも見せるな。
新札は黙っている。
人の手を渡った札を使え。
出したくなかった札ほど、よく鳴る。
飛ぶぞ。
一ヶ月が過ぎた頃、僕はもう一度、先生に会いたくなった。
報告したかったのだと思う。
紙幣には匂いがある。
あなたが言った通り、新札は黙っている。
人の手を渡った札は、鳴る。
そのことを誰かに言いたかった。
もちろん、話しても信じる人間などいない。
紙幣を燃やすと音がする。
しかも札によって匂いが違う。
そんなことを言えば、まともな人間なら距離を取る。医者なら診断名を考える。女なら作り笑いをして、ボーイに目で合図を送る。
それでも、先生にだけは言える気がした。
彼なら、きっと知っている。
僕が見つけたと思っているものを、もっと前から知っている。
僕がまだ入口に立ったばかりだと、またあの目で笑う。
その夜、僕は一ヶ月ぶりに銀座へ向かった。
店の扉を押すと、ひどく長い時間が経ったような気がした。
店内はいつも通りだった。
グラスの音がして、低いピアノが流れている。女たちは笑い、シャンパンの泡が立ち、誰かの時計が照明を拾っていた。そこには、相変わらず見栄の匂いがあった。
どれも、以前と同じだった。
同じなのに、少し遠かった。
僕は案内された席に座り、最初の水割りに口をつける前に尋ねた。
「この前の先生は?」
隣についた女が、すぐには答えなかった。
目だけが、ほんの少し揺れた。
「先生?」
「白髪の。いつも一人で飲んでいた」
女は困ったように笑った。
「ママに聞いてきますね」
そう言って立ち上がる。
その背中を見送りながら、僕は嫌な予感を覚えていた。
こういう予感は、たいてい当たる。
しばらくして、薫ママが来た。
前に見たときより、少しだけ痩せたように見えた。いや、痩せたのではない。余計なものが削れた顔だった。銀座の女は、年齢よりも失ったものの量で顔が変わる。
「先生に会いに来たの?」
薫ママは、僕の正面に座りながら言った。
「ええ。少し聞きたいことがあって」
彼女は小さく頷いた。
その頷きの短さで、答えは分かった。
「亡くなったわ」
グラスの中の氷が、小さく鳴った。
「先週。眠るみたいに、って言えば聞こえはいいけどね。最後まで、あの人らしかったわ」
「そう、ですか」
自分の声は、思っていたより軽かった。
会いに来たはずなのに、会えないことを、どこかで最初から知っていたような気もした。
薫ママはカウンターのほうへ目を向けた。
ボーイが一瞬だけ頷く。
やがて、白い封筒が運ばれてきた。
何の飾りもない封筒だった。宛名もない。差出人もない。ただ、封だけがきちんと閉じられている。
「預かりものがあるの」
「僕に?」
「ええ。あなたが来たら渡してくれって」
封筒は、薫ママの指先から僕の手へ移った。
軽かった。
軽いのに、指の腹に妙な重さが残った。
「中、見ても?」
「好きにして」
僕は封を切った。
中には、一万円札が一枚だけ入っていた。
古い札だった。
端は丸く潰れ、中央には深い折り目が走っている。人の財布の奥で何度も曲げられ、開かれ、また曲げられた紙幣だった。左上の角だけ、ほんの少し黒く焦げている。
それだけだった。
手紙もない。
説明もない。
封筒の中を、もう一度覗く。
空だった。
「それだけ?」
薫ママが言った。
「ええ」
「先生らしいわね」
僕は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
先生らしい。
そう思ってしまったことが、なぜか怖かった。
「何か、聞いてますか」
「何も」
「本当に?」
「本当に。あの人は、余計な説明をする人じゃなかったから」
薫ママは、僕が咥えた煙草に火をつけた。
細い煙が、ゆっくりと上がる。
「ただ、あなたが来るとは言っていたわ」
「いつ」
「亡くなる二日前」
背中のあたりが、少し冷えた。
「僕の名前を?」
「名前は知らないって言ってた。けれど、来れば分かると」
「なぜ」
僕は煙を吐いた。
「それは、私が聞きたいくらい」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
僕も聞かなかった。
店の中では、別の席で笑いが起きていた。男の大きな声と、女たちの柔らかい合いの手。シャンパンの栓が抜かれる音。氷がグラスに落ちる音。
いつも通りの夜だった。
けれど、僕の手元の封筒だけが、そこから切り離されていた。
まるで小さな棺のようだった。
帰宅すると、すぐにカーテンを閉めた。
部屋の灯りはつけなかった。
封筒から紙幣を取り出し、テーブルの上に置く。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
古い一万円札は、静かだった。
でも、黙っているのとは違う。
息を潜めているように見えた。
僕は陶器の皿を出した。
ライターを手に取る。
指先が少し汗ばんでいた。
火をつける。
青い芯を持った炎が、小さく揺れる。
一万円札の左上には、すでに小さな焦げ跡がある。
先生は、この札を燃やそうとしたのだろうか。
そして、途中でやめたのだろうか。
あるいは、途中でやめざるを得なかったのか。
考えても分からない。
僕は火を近づけた。
紙の端が、ゆっくりと黒くなる。
音はすぐに来た。
低い弦の震え。
遠い鐘。
濡れた床を、革靴の底が擦るようなリズム。
そこまでは、もう知っている音だった。
けれど、その奥に、今まで聴いたどの札にもないものがあった。
沈んだピアノのような音。
鍵盤を押したあと、音が立ち上がる前に誰かが手を離してしまったような、未完成の響き。
僕は息を止めた。
次に、香りが立った。
古い革と煙草の匂い。その奥に、消毒液の冷たさがあった。雨に濡れたコート、冷えた暖房の残る廊下、水の入っていない花瓶。
知らない場所の匂いなのに、どこか懐かしかった。
火は、折り目に沿って紙幣をゆっくり食べていく。
黒い縁が広がる。諭吉の顔が歪む。
そのときだった。
味がした。
僕は何も口にしていない。
それなのに、舌の奥に、鉄の味が広がった。
すぐあとから、塩が来た。
涙のようでもあり、血のようでもあり、古い硬貨を舐めたときのようでもあった。
喉が動く。
吐き気がした。けれど、吐きたくはなかった。
味は、さらに奥で変わった。
ほんの少しだけ甘かった。
古い飴玉を、誰かのポケットの中から取り出して舐めたような甘さだった。
嫌な甘さだった。
なのに、舌はそれを追いかけた。
音は続いていた。
低い弦と、遠い鐘。
そのあいだに、湿った廊下の匂いが挟まっていた。消毒液の冷たさが鼻の奥に残り、舌の上には鉄と塩が広がった。
最後に、ほんの少しだけ甘さが来た。
忘れてはいけないものを、誰かが無理やり飴にしたような甘さだった。
僕は目を閉じた。すると、味が濃くなった。
先生の顔が浮かぶ。
銀座の席で、グラスを持っていた老人。
悪趣味だな、と言った声。
燃やし方が悪い、と言った目。
飛ぶぞ、と笑った口元。
先生は、これを知っていた。
音だけではない。
香りだけでもない。
紙幣には、味がある。
そして先生は、その札を僕に残した。
なぜか。
考えるまでもなかった。
次を探せ、ということだ。
僕は、そう受け取った。
受け取ってしまった。
炎が最後の端を舐めた。
紙幣は小さく丸まり、黒い花のように崩れた。
音が途切れる。
味だけが残った。
舌の奥に、鉄と塩と、わずかな甘さ。
部屋は静かだった。
換気扇の音だけが、安っぽく回っている。
僕は水を飲んだ。
消えない。
歯を磨いた。
消えない。
舌をこすった。
消えない。
それどころか、舌の奥で、あの甘さだけが少しずつはっきりしていく。
嫌な甘さ。
忘れてはいけないものを、無理やり飴にしたような甘さ。
僕は洗面台の前で、しばらく自分の顔を見ていた。
鏡の中の僕は、ひどく普通だった。
普通の顔をしている。
それが、一番おかしかった。
腹が減っていた。
夕食は食べたはずだった。
それなのに、胃の奥が空っぽだった。
水を飲んでも、喉は渇いたままだった。
何かを食べても、舌はさっきの甘さだけを探していた。
僕は部屋に戻り、財布を開いた。
新札が数枚入っている。
きれいな紙幣。
黙っている紙幣。
何も知らない紙幣。
こんなものは、まだ金ではない。
誰かの手を渡り、汗を吸い、嘘を含み、家賃になり、香典になり、見栄になり、慰謝料になり、女の指を通り、男の財布で折られ、使いたくない瞬間に差し出されて、ようやく金になる。
燃やせば鳴る。
燃やせば匂う。
そして、ものによっては味がする。
窓の外で、夜明け前のトラックが一台、低い音を立てて通り過ぎた。
その音が、ほんの一瞬だけ、燃える紙幣の低い弦に似ていた。
僕は目を閉じる。
舌の奥で、まだ甘さが残っている。
もう一度。
そう思った。
もう一度、味わいたいと思った。
