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悪銭はよく鳴る 第三話 出したくなかった札

 渇きは、日ごとに強くなった。

 先生の札を燃やした夜から、僕は喉の奥に小さな穴が空いたような感覚を覚えるようになった。

 水を飲んでも埋まらない。

 コーヒーを飲んでも、酒を飲んでも、舌は先生の札の最後に来た甘さを探している。

 食事も同じだった。

 高い寿司を食べても、肉を焼いても、深夜にコンビニのサンドイッチを食べても、腹は満ちるのに、どこかが空いたままだった。

 飢えている。

 そう思った。

 けれど、何に飢えているのかは分からなかった。いや、本当は分かっていたのかもしれない。

 僕は札を燃やし続けた。

 駅前のそば屋も、ドラッグストアも、タクシーも、古い喫茶店も、夜の店も、それぞれに鳴った。

    音はしたし、香りも立った。

    なかには、悪くないものもあった。深夜のタクシーから来た五千円札は、濡れた革と缶コーヒーの匂いがした。夜の店で崩した五千円札は、香水と煙草の奥で、低いサックスのように鳴った。

    だが、先生の札には届かなかった。
    どれも違う。

    音はある。匂いもある。
    でも、味がない。味があっても、ごく薄い。

 僕は次第に苛立ち始めた。

 何が足りないのか。
 古さか。
 汚れか。
 通ってきた場所か。
 持っていた人間の数か。

 そのたびに、先生の言葉が戻ってきた。

 財布の奥で曲がり、汗を吸い、嘘と家賃と香典と女の指を通ってきた札だ。

 人が惜しんで出した札ほどいい。
 出したくなかった札ほど、よく鳴る。

 出したくなかった札。

 僕は、その言葉だけを何度も舌の上で転がした。

 最初は、古い札がいいのだと思っていた。
 汚れた札や、人の手を渡った札。もしくは、長く財布の中にいた札。けれど、先生はそう言ったのではない。

 出したくなかった札ほど、よく鳴る。

 ならば、出したくなかった札とは、どこにあるのか。

 そう考えたとき、最初に思い浮かんだのは、駅前の高架下だった。

 夕方になると、駅の裏手の歩道橋の下に、何人かの路上生活者が座っている。段ボール、黒いリュック、折り畳まれた傘、コンビニ袋。そこだけ時間が少し鈍くなっているような場所だった。

 僕はこれまで、そこをほとんど見ずに通り過ぎていた。

 見ないことに慣れていた。

 その日は違った。

 スーツの内ポケットに、銀行で下ろしたばかりの一万円札を数枚入れ、僕は高架下へ向かった。

 男は、ブルーシートの端に座っていた。

 年齢は分からない。五十代にも、七十代にも見える。髭は白く、指先は黒ずんでいる。膝の上には、古びたトートバッグが置かれていた。

 僕が近づくと、男は少しだけ顔を上げた。

「すみません」

 声をかけると、自分の声が妙に明るく聞こえた。

「千円札、持ってますか」

 男は、しばらく僕を見ていた。

「なんだい」

「交換してほしいんです」

 僕は財布から一万円札を出した。

「これと、あなたの千円札を」

 男の目が動いた。

 疑い。警戒。そして諦め。それから、ほんの少しの期待。その順番で、顔に出た。

「変な人だな」

「よく言われます」

「千円でいいのか」

「はい」

 男はトートバッグの中を探った。
 小さなビニール袋、折れた割り箸、新聞紙、軍手。最後に、古い財布を出した。布製の財布だった。どこかの粗品でもらったものだろう。ファスナーの金具が少し曲がっている。

 そこから千円札を一枚取り出す。

 ひどく柔らかい札だった。

 端は丸まり、何度も折られた跡が白く浮いている。表面には、雨に濡れて乾いたような、薄い波打ちがあった。

 僕は一万円札を渡し、千円札を受け取った。
 男はまだ半信半疑の顔をしていた。

「いいのかい」

「ええ」

「何に使うんだ」

「ちょっとした実験です」

 男は笑わなかった。
 その代わり、一万円札を慎重に財布へしまった。まるで、生き物を入れるような手つきだった。

 その手を見たとき、胸の奥が少し熱くなった。

 これだ。

 そう思った。この札なら、きっと鳴る。
 きっと匂う。きっと味がする。

 僕は足早に家へ戻った。

 部屋に着くと、すぐにカーテンを閉め、換気扇を回した。陶器の皿を置く。ライターを手に取る。
 千円札は、テーブルの上でくたびれた布のように横たわっていた。

 火をつける。
 端が黒くなる。

 音はした。

 低く、濁った音だった。湿った段ボールを指で押したときのような、潰れた響きがある。そこに、雨上がりの土と、安い焼酎と、冷えた缶詰の匂いが混じった。

 少し遅れて、使い古した手袋のような匂いが立った。長い時間洗われなかった布。冬の朝に濡れた靴下。そういうものを、薄い煙で包んだような匂いだった。

 だが、思ったほどではなかった。

 音は低い。
 濁ってはいる。けれど、深くない。

 味は、来なかった。
 僕は燃え残りを見つめた。
 期待していたものとは違う。
 ひどく濃いはずだった。

 社会の底を通ってきた札。そして、生活の端にしがみついていた札だと思っていた。
 なのに、届かない。

 僕はしばらく考えた。

 そして、ふと気づいた。
 あの男は、千円札を手放した。
 しかも、一万円と引き換えに。
 彼は得をした。

 手放したくない金ではなかったのかもしれない。
 いや、手放したくない金だったとしても、手放す理由が上書きされたのだ。

 彼は一万円と引き換えに、それを手放した。その瞬間、紙幣に染みていたものが、少しほどけてしまったのだと思う。

 出したくなかった札ほど、よく鳴る。

 先生は、たしかにそう言った。

 けれど、あの千円札は、出された。
 納得して出された。
 だから薄い。
 僕はその言葉を、口の中で転がした。

 合意で渡された金は、思ったほど鳴らない。

 では、合意でなければ?

 その考えが浮かんだとき、背筋が小さく震えた。

 すぐに打ち消した。
 馬鹿げている。
 そこまでではない。
 僕は、ただ紙幣の音を聴きたいだけだ。
 犯罪者ではない。

 誰かを傷つけたいわけでもない。

 けれど、その夜から、街の中の財布が目につくようになった。

 コンビニのレジ前。
 駅の券売機。
 タクシー乗り場。
 居酒屋の会計。
 喫茶店の小さなトレー。

 人が紙幣を出す瞬間、僕は見るようになった。

 迷いなく出す人間や、少しだけためらう人間。そして、財布の中身を確認してから、諦めたように出す人間。さらに、一度しまいかけて、また出す人間。
 その「しまいかけた一枚」に、僕は強く惹かれた。

 出したくなかった札。

 それは、見れば分かる。
 人間は、手放していい金と、手放したくない金で、指の動きが違う。


 ある夜、雨が降っていた。

 銀座ではなかった。もっと暗く、もっと日常に近い駅前だった。終電が近づき、改札へ向かう人々の足音が濡れたタイルに散っていた。

 僕は、何をするつもりもなく歩いていた。
 本当に、そうだったと思う。
 改札の手前で、男が財布を開いた。

 くたびれたスーツ。
 濡れた肩。
 コンビニ袋。
 疲れた横顔。
 男は財布の中を見て、少しだけ眉を寄せた。
 そして、一万円札を一枚、抜きかけた。
 古い札だった。

 角が丸く、中央に深い折り目がある。雨で湿った指が、その紙幣を強く掴んでいた。

 その指が、一度止まった。

 出したくなかった札ほど、よく鳴る。

 先生の声がした。

 僕は、その一瞬で分かってしまった。

 あの札は鳴る。

 出したくないままなら、もっと鳴る。

 ならば。

 出させなければいい。

 その考えが浮かんだとき、僕はもう歩き出していた。


 次の記憶は、少しだけ途切れている。

 誰かの肩にぶつかった。

 男の声がした。

 コンビニ袋が床に落ちた。

 ビニールの中で缶コーヒーが転がる音がした。

 濡れたタイルに靴音が乱れた。


 僕の手には、一万円札があった。
 走ったのかもしれない。
 歩いていたのかもしれない。

 どこをどう通って帰ったのか、あまり覚えていない。

 気づくと、部屋にいた。

 鍵を閉め、カーテンを引き、換気扇を回していた。

 手の中の一万円札は、湿っていた。
 雨のせいだけではない。
 誰かの手の汗が、まだ残っている。

 僕はしばらく、その札を見つめた。

 返せばいい。

 そう思った。

 一万円くらい、いくらでも返せる。

 交番に届けてもいい。

 明日、駅前に行って探してもいい。

 寄付をしてもいい。

 何なら、十倍返してもいい。

 でも、それは違う。

 僕が欲しいのは、一万円ではなかった。

 この一万円札が、あの男の手から引き剥がされた瞬間に持ったものだった。

 僕は陶器の皿を置いた。

 火をつける。

 ライターの炎が、いつもより青く見えた。

 紙幣に近づける。

 火が触れる前に、音がした。

 僕は息を止めた。

 まだ燃えていない。

 それなのに、紙幣は震えていた。

 音というより、呼吸に近かった。

 細い弦が、極限まで張られている。切れる寸前の音。その奥で、雨音が鳴っている。改札の電子音。濡れた靴底。床に落ちる缶コーヒー。男の短い声。

 火が触れた。

 紙幣の端が、一瞬で黒くなる。

 音が爆ぜた。

 低い弦。

 金属音。

 濡れたドラム。

 誰かが階段を駆け下りる足音。

 止まりかけた息。

 握りしめた指の熱。

 それらが一度に鳴った。

 僕は椅子に座っていられなかった。

 身体の内側が浮いた。

 いや、沈んだのかもしれない。足元の床が消え、胸の奥だけが持ち上がる。胃がひっくり返り、舌の奥に鋭い酸味が走った。

 味が来た。

 鉄ではない。

 塩でもない。

 酸っぱい。

 恐怖の味だった。

 そのあとに、甘さが来た。

 先生の札の甘さとは違う。

 もっと若く、もっと乱暴で、もっと生々しい甘さだった。青い果物を無理やり噛み潰したような、未熟で、痛い甘さ。

 僕は笑っていた。
 笑うつもりはなかった。
 でも、喉の奥から小さな息が漏れ、それが笑いの形になった。

 札は燃えている。

 黒く縮み、反り返り、福沢諭吉の顔が歪んでいく。

 音は、さらに高くなる。

 この札には、まだ持ち主の手が残っている。

 そう思った。

 合意で渡された金ではない。
 支払いでも、贈与でも、交換でもない。
 途中で引き剥がされた金。

 だから鳴る。

 だから匂う。

 だから味がする。

 紙幣は、最後に小さく丸まり、灰になった。

 音が消えた。

 部屋は静かになった。

 僕は床に膝をついていた。

 自分がいつ立ち上がり、いつ膝をついたのか分からなかった。

 口の中には、まだ酸味が残っている。

 雨の匂い。
 濡れたスーツ。
 握りしめた指。
 床に落ちた缶コーヒー。
 短く途切れた男の声。
 僕は両手を見た。
 震えていた。

 恐怖ではない。
 罪悪感でもない。
 たぶん、喜びだった。

 そのことに気づいた瞬間、吐き気がした。
 けれど、やはり吐けなかった。

 洗面台へ行き、水を飲む。

 酸味は消えない。

 歯を磨く。

 甘さだけが残る。

 鏡を見る。

 そこには、普通の顔をした男がいた。

 普通の顔。

 雨の日に、見知らぬ男から一万円札を奪い、それを燃やして味わった男には見えない。

 僕は少しだけ笑った。

 笑ってから、すぐに真顔に戻した。

 違う。

 金が欲しかったわけではない。

 傷つけたかったわけでもない。

 確かめたかっただけだ。

 何を。

 答えは、もう分かっていた。

 合意で渡された金は、思ったほど鳴らない。

 出したくなかった札は、火をつける前から震えている。

 僕は部屋に戻り、陶器の皿の上の灰を見た。
 灰は、ただの灰だった。

 どれだけ美しい音を鳴らしても、どれだけ濃い味を残しても、最後には灰になる。

 それが不思議だった。
 あれほどのものが、こんなに軽い。
 指で触れると、灰はすぐに崩れた。
 爪の隙間に、黒い粉が入る。
 その粉を見て、僕はふと思った。

 この灰には、まだ味があるのだろうか。

 その考えが浮かんだ瞬間、僕は自分の手を引っ込めた。

 まだ、そこまでは行っていない。

 そう思った。

 まだ。

 窓の外では、雨が続いていた。
 僕はカーテンの隙間から、濡れた街を見下ろした。
 人々が傘を差し、財布を持ち、どこかへ向かっている。

 その一人ひとりの中に、出したくない金がある。

 使いたくない札。

 渡したくない札。

 しまいかけた札。

 最後まで財布に残しておきたかった札。

 街全体が、まだ鳴っていない楽器のように見えた。

 僕は、初めて金を欲しいと思った。
 使うためではない。
 燃やすためでも、たぶんない。

 奪うために。

 そのことに気づいても、もうあまり怖くはなかった。


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