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「君のため」は、だいたい自分のためだ

Xを散歩していたら、YouTubeでよく見ている長谷川良品さんが、noteを始めていることに気づいた。

好きなYouTuberがnoteにいるというのは、テレビで見ていた人が、近所の喫茶店でコーヒーを飲んでいるようなものである。

もちろん、こちらは平静を装う。

五十を過ぎた男が、画面を見ながら浮き足立っている姿は、あまり人には見せないほうがいい。

長谷川さんは、強迫性障害について書いていた。

コメントをすると「もしやあなたも?」という返信を頂き、それを読んで、僕にも似たところがあると気づいた。

昔は電車に乗ってから、

「鍵をかけたっけ」

と不安になり、途中の駅で降りて家まで戻ることが何度もあった。

当然、鍵はかかっている。

わざわざ遅刻して、きちんと施錠された玄関を確認する。防犯意識が高いのか、社会人として問題があるのか、評価の難しい行動である。

そのことをあらためてコメントに書いたところ、長谷川さんからまた返信をもらった。

しかも、フォローまでしてくれた。

さすがに、少し舞い上がった。

人間、五十を過ぎても、画面の向こうで見ていた人にフォローされれば普通に喜ぶ。承認欲求は若者だけの病気ではない。老眼でも通知欄は読める。

その長谷川さんが、YouTubeで佐藤二朗さんの問題を取り上げていた。

動画の内容には、概ね納得した。

そして動画を見ながら、別のことも考えた。

きょうび、年長者が若い人に説教じみたことを言えば、ドン引きされるのは当たり前である。

若者に限らないかもしれない。

僕だって、頼んでもいない人生訓を聞かされるのは嫌だ。

まして、

「お前のためを思って言っている」

などと言われれば、余計に腹が立つ。

僕は二十代の頃、中島義道の『私の嫌いな10の言葉』を読んだ。

そこにも、「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」という言葉が出てくる。

以来、僕はなるべく、恩着せがましいことを言わないようにしてきた。

「君のため」と言えば、発言した側は善人になれる。

相手が反発すれば、

「せっかく心配してやったのに」

と被害者にもなれる。

善人と被害者を一人で兼任できる。ずいぶん便利な言葉である。生命保険なら特約扱いになるだろう。

佐藤二朗さんは、実際に「あなたのためを思って」と言ったわけではない。

むしろ、かなり慎重に言葉を選んでいたように見える。

相手への配慮を示し、事情への理解を語り、乱暴に断じたのではないと説明する。

それ自体は悪いことではない。

ただ、慎重に言葉を重ねたぶん、僕には少しだけ、恩着せ防御の匂いがした。

最大限に配慮した。

相手を尊重した。

そのうえで、あえて厳しいことを言った。

つまり、自分は乱暴な人間ではありません、という防弾チョッキを何枚も着込んでから、相手の俳優としてのあり方を撃っているようにも見える。

もちろん、悪意があったとは思わない。

おそらく本人なりの善意もあったのだろう。

だからこそ、ややこしい。

僕が佐藤さんの立場なら、たぶんこう言う。

「あなたのそのやり方が、僕は気に入らない」

こちらのほうが、ずっと感じが悪い。

相手から、

「あなたに気に入られるために仕事をしているわけではありません」

と返されれば、それで終わりである。

SNSに流れれば、面倒くさいおじさんとして処理されるだろう。

だが、言うなら、そのハレーションまで引き受けたほうがいい。

君のためではない。

僕が気に入らないから言う。

そして、君には僕を嫌う権利がある。

少なくとも、一度そう言っただけで、直ちにハラスメントになるとは僕は思わない。

無礼かもしれないし、説教臭いかもしれない。もちろん関係が壊れるかもしれない。だが、不快な発言とハラスメントは同じではない。

人間同士が意見をぶつければ、多少は嫌な思いをする。どちらも傷つかず、どちらも不快にならず、しかも本音だけは伝わる。そんな都合のいい会話は、脚本家だって書けない。

もちろん、防弾チョッキを脱いだからといって、相手が傷つかないわけではない。

ノーガードの殴り合いでも、殴られれば痛い。しかも年長者の拳は、本人が思うより重いことがある。

だから、こちらのほうが正しいとは思わない。

ただ僕は、相手を殴っておきながら、「君のためだった」と善人の席に戻るのが嫌なのだ。

これは倫理というより、僕の矜持であり、たいした役にも立たない美学である。

とはいえ、そんな剥き出しの関係が、今の世の中から完全に消えたわけでもない。

数年前まで、僕には二十代の相棒がいた。

二人で橋梁点検の仕事をしていた。

高所作業なので、危ないことをすれば注意した。そこでは、若者の自主性よりも重力のほうが強い。

重力は多様性にも配慮しないし、コンプライアンス研修も受けていない。足を滑らせれば、地面が即日判決を下す。

僕は彼に対して、防弾チョッキを着なかった。

「お前のために言っている」とは言わない。

危なければ、

「そのやり方は危ない」

仕事の進め方が気に入らなければ、

「僕はそれが気に入らない」

と言った。

彼も、僕の言い方が気に入らなければ、普通に言い返した。

たまに険悪になった。ただ、修復は早かった。何に腹を立てているのかが、お互いに見えていたからだと思う。

その彼が、橋梁点検の仕事を辞めることになった。

この仕事は受注が不安定だった。

彼はバイクが好きで、バイク関係の営業職へ行きたいと言った。

取引先の人は、

「好きなことは趣味にしておいたほうがいいんじゃないか」

と言った。

もっともらしい話である。

好きなことを仕事にすると嫌いになる。夢より現実を見ろ。年長者が若者に言う言葉としては、かなり出来がいい。

僕は逆のことを言った。

「やりたいことがあるなら、やれ。あとはなんとでもする」

彼が辞めれば、僕の仕事は困る。

だからこそ、

「君の将来のためには、この仕事を続けたほうがいい」

などとは言いたくなかった。それでは、「彼のため」という看板を掲げて、僕の都合を隠すことになる。

彼は辞めて、バイクの営業へ行った。

それから音信不通である。

今もバイクを売っているのか。

もう辞めたのか。

結婚したのか。

どこにいるのか。

何も知らない。

それでいい。

「あのとき背中を押してくれたおかげです」

などという感動的な連絡もいらない。

こちらが勝手に言ったことなのだから、感謝まで求めれば、善意に請求書を添えることになる。

彼は彼の道へ行った。

僕は僕の現場に残った。

人の人生に、勝手に鍵をかけてはいけない。

ただし、自分の家の鍵をかけたかどうかは、今でもたまに気になる。

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