山口訪問記① 〜萩・高杉晋作の生家〜
6月初旬に、農業学校つながりの人たちと、山口在住の農業学校仲間を訪ねて山口県へ行ってきました。
■山口宇部空港

けっこうなジオパーク推し。

ぷるんとした独特の柔らかさと、すっきりした上品な甘みで名古屋のういろうと全然違う!
空港のコンビニに「生ういろう」なるものが売っていた。
山口県在住のお友達に聞いたら、名古屋のういろうとは別物だとのこと。確かに、食べてみたら全然違う!
名古屋のういろうは 米粉が主体でもっちりと硬い食感だけど、山口のういろうはわらび粉が主体だからか、わらび餅のようなぷるんとした滑らかな食感だった。
調べてみたら、お米が貴重だった頃に、米粉の代わりに山口でよく採れたわらび粉を代用したのが始まりらしい👀(諸説あり)
このあと山口宇部空港から、萩へ一気に向かいます。
■田村萩焼店
萩に到着後に通り過ぎた萩焼のお店。

2018年にも萩には来たことがあったけど、そのときには萩焼を買えなかった。
このため、今回は絶対買うぞー!と決めていたのでこのお店で購入することに。
「萩陶苑」という窯元さんの、きれいな夕焼けのようなグラデーションの萩焼カップを買ってみました。
全く同じではないけど、こちらのカップのようにグラデーションがとっても素敵なカップを買いました。
■萩の町並み
お次は高杉晋作の生家を目指して萩の古い町並みを歩く。
萩は大規模な戦災を免れているのもあり、古い町の雰囲気が良く残っていて、私はこの萩の町の雰囲気が本当に大好き。
幕末にタイムスリップした気分にさせてくれる。






やっぱり良い道だもの。

■高杉晋作の生家

8年前に来て以来、2回目の訪問。


これはさすがに当時のものじゃないよねえ

「西へ行く 人を慕いて東行く 心の底ぞ 神や知るらん」
西へ行く人とは晋作が憧れた西行法師。西行に倣って剃髪・隠棲しながらも、なお幕府との戦いへ向かわざるを得ない自分の複雑な心境を、「神のみぞ知る」と詠んだ歌とされる。

岡崎城には家康の産湯に使われたという井戸もあった。
歴史上の人物の産湯の井戸、残りがち。

めちゃくちゃかっこよすぎる。





27歳で亡くなったのは早すぎるよ・・


どちらかというとお母さん似?

銃弾箱は筆箱みたい。



この手紙が書かれたとき、晋作はどんな状況に置かれていたのかちょっと調べてみた。
この手紙が書かれたのは元治元年(1864年)2月18日。
前年の「八月十八日の政変」で長州藩が京都から追放され、藩内では
「すぐに兵を率いて京都へ進発すべき」
という強硬論が来島又兵衛を中心に高まっていた頃。
一方、晋作は時期尚早と考えており、藩命を受けて来島の説得に向かうが、説得は失敗してしまう。
そこで晋作は萩へは戻らず、京都で活動する桂小五郎や久坂玄瑞らから直接政局を聞き、進発を思いとどまらせようと考えて京都へ向かう。
この手紙はまさにその京都滞在中に書かれたもの。
萩で留守を守る妻・マサに対し、
「京都へまかり越し候間、決して御気遣い下されまじく候」
「武士という者はこのくらいの事は常にござ候間、腹を強う思い留守をたしかに致され候よう」
と、自らの身を案じる必要はないこと、そして武士の妻として気丈に家を守ってほしいことを繰り返し伝えている。
他には、荷物や手紙を誰に渡すか、親族へどう伝えるか、「曾我物語」「いろは文庫」を送るので読んで心を磨くように、といった細かな指示がされており、激動の政治情勢のただ中にありながら、家族や家のことを一つひとつ気に掛けていた晋作のまめな姿がうかがえる。
しかし、晋作が京都へ独断で向かった行動は、藩政府から
「来島説得の任務を放棄し、無断で京都へ出奔した」
と受け取られてしまっていた。
晋作は京都で情勢を確認することこそ任務遂行のために必要だと考えていたのに、その判断は藩には理解されず、帰国後の3月29日、野山獄へ投獄されてしまう。
この手紙は、本人はなお藩のために奔走しているつもりでいる一方、国元ではすでに「処分すべき人物」と見なされ始めていた、その緊迫した時期に書かれた貴重な手紙だった。
ちなみに、この時の晋作はなんと24歳。
しかも、この手紙を書いたわずか半年後には四国連合艦隊との講和交渉を担い、同じ年の12月には25歳で功山寺挙兵を決行する。
晋作、あんたすごすぎるよ・・
やっぱりいつ見ても晋作はすごいわ。
次回へつづく。
