山口訪問記② 〜萩・菊屋家住宅〜
晋作の生家を訪れた後はすぐ近くにあった菊屋家住宅へ。
■菊屋家住宅


有力町人として萩城築城を支えるとともに、城下町の町割りにも尽力。
代々萩藩の御用を務める豪商となったおうち。


「御成」とは身分の高い人が訪れること。
毛利藩主や幕府の巡見使など、特別な賓客を迎える際に使われた格式高い入口だった。

水がめに水をためておいて、木桶ですくって消火できるようにしていたものか。


光沢のある綸子には雲と雨龍の地紋が織り出され、その上に宮中の調度品である「几帳」と葵唐草が刺繍されている。
几帳は平安貴族の住まいを象徴する調度品で『源氏物語』にも登場する雅な世界を表現したもの。


商家でありながら武家住宅の書院造を取り入れた格式ある客間で、藩主や幕府の巡見使など身分の高い客を迎えた部屋。
柱には四面を削りながら四隅に丸太の自然な丸みを残した「面皮柱」が使われるなど、数寄屋的な意匠も見られる。
床の間には江戸前期の画家・雲谷等璠による『鍾馗図』、屏風には江戸中期を代表する画家・松村呉春の『製茶図屏風』が飾られ、格式ある応接空間を演出。
長州藩を代表する御用商人・菊屋家が経済力だけでなく高い文化的教養も備えていたことを物語る一室。

炭火を入れた炉の上にかぶせ、その上から着物を掛けて、香をたきしめたり衣服を乾燥させたりするための道具。
江戸時代には香りも教養や身だしなみの一つとされ、武家や豪商の家では来客や外出前に着物へほのかな香りを移す習慣があったそう。
おしゃれ!!

電話は役所や銀行、有力商家などごく限られた場所にしかなく、長州藩を代表する御用商人だった菊屋家も、地域でも早い時期に電話を導入したことが分かる。
東京で電話事業が始まった明治23年(1890年)から約20年を経て近代的な通信網が萩にも広がったことを伝える貴重な遺構。

一桁の「五番」という番号からも、菊屋家が萩で最初期の電話加入者であったことが分かる。
当時の電話もそのまま展示されてるー!!!
ちなみにこの5番は今の菊屋の電話番号にもそのまま残っているんだそう👀
以前、京都でも訪れた豪商のおうちにも電話室があったけど、当時の豪商の商売的に電話はなくてはならないものだったんだなというのがよく分かる。


通りに面した商家の中心で、来客の応対や商売が行われた部屋。
土間への出入口は人が一人通れるほどの幅に絞られており、人の出入りを管理しやすい構造になっている。
長州藩を代表する御用商人・菊屋家では、多くの人や荷物が行き交う一方で、商家ならではの安全対策もばっちり。

明治4年(1871年)の岩倉使節団に参加した伊藤博文が、アメリカ・コネティカット州の時計メーカー「セス・トーマス社」の柱時計を持ち帰り、菊屋へ贈ったもの。
菊屋と伊藤博文は交流があったのね👀
約150年を経た現在も、定期的にぜんまいを巻きながら現役で時を刻み続けているとのことで驚き。

昭和38年(1963年)第18回国民体育大会への行幸啓で萩を訪れた昭和天皇・香淳皇后両陛下は、笠山の麓にある国の天然記念物・明神池で魚への餌やりを楽しまれたそう。
この網はその際の御用として準備されたもので、菊屋家12代当主・菊屋嘉十郎の覚書にも記録が残されている。
写真の一本は予備として用意されたため未使用だが、柄には当時の行幸啓を記念する墨書が今も残されている。

明神池は、外海と溶岩の隙間でつながり海水が出入りする珍しい塩水の池。マダイやクロダイ、スズキ、ボラなどの海産魚が生息し、その特殊な環境から国の天然記念物に指定されている。
昭和天皇はヒドロ虫類などの生物学研究に長年取り組み、海の生物にも広く関心を持っていた。そんな昭和天皇が、海産魚の群れる明神池で餌やりをされたというのも興味深いエピソード。

土間は商家の物流や炊事、作業の中心となった空間で、土足のまま荷物を運び込めるよう広く造られている。
土間は道路のかさ上げに伴い、慶長9年(1604)の当初地盤から昭和54年(1979年)までに約60cm埋め立てられていた。復元時に掘り下げられ、現在は当初の地面より約30cm高い位置に復元されている。
見上げると二階を設けない吹き抜けの「小屋組」が広がり、太い梁が建物を支えている。
開放的な構造は荷物の搬入や換気にも適しており、豪商・菊屋家の実用性を重視した建築の工夫を感じることができる。





写真では分かりづらいけど、縁側には「縁板覆(えんいたおおい)」という珍しい工夫も。
町人には縁側に欅材を使うことが禁じられていたため、使った欅材を隠すように杉の半割丸太で覆ったのだそう。
長州藩の御用商人として高い格式を持ちながらも、あくまで「町人」であった菊屋家の立場が建築にも表れていておもろい。
この場所は風も通ってとっても気持ちよく、同行した2名はここでしばらくゆっくりしておりました。


日本から同社へ直接注文して製作された特注品の一部とみられ、銀器には毛利家の「一文字三星」を逆にした「渡辺星」の家紋が刻まれている
(左上の大きな銀食器側面に家紋が見える👀)
菊屋家は毛利家の御用商人として深い関係を持ち、毛利家や旧藩関係者ゆかりの品々が多く残っているようで、この銀器も、そうした交流を物語る展示の一つ。
英国王室にも製品を納めた名門メーカーの洋食器に日本の家紋を入れて特注しているのが注目ポイント👀

銀食器に刻印されているという渡辺星紋はこちら↓。確かに毛利の家紋の逆紋になってる。

素朴な土味と釉薬の表情に、古萩らしい味わいが感じられる。

白壁の蔵や井戸、作業場に囲まれた生活空間の中で、ひときわ目を引くのが大きなソテツ。
ソテツは室町期から庭園に植えられ、江戸時代には大名庭園などでも好まれた南方系の植物。菊屋家のこの株がいつ植えられたのかは分からないけれど、歴史的な商家の中庭でひときわ存在感を放っている。

華やかな座敷や美術品とは対照的な日常の道具たちもこうして展示されていた。
豪商の暮らしを実際に動かしていた裏方の様子がよく分かる一角。

菊屋家に残る古い図面にも描かれていることから、古くからこの場所に蔵があったことが分かる。
現在の建物は19世紀後半に建て替えられたものと考えられているとのこと。
内部には菊屋家に伝わる貴重な資料や美術品が展示されていたけれど、残念ながら本蔵内は撮影禁止のため、写真は入口まで。

18世紀末から19世紀初め頃に建てられたと考えられる、お金などの貴重品を保管するための蔵。
床下には人目につきにくい石室が設けられ、千両箱を積み上げて保管していたのだそう。
石室は床も壁も厚い石板で造られ、さらに石の蓋をする厳重な構造で、盗難だけでなく火災にも備えた、豪商・菊屋家ならではの金庫的な蔵。
こちらも内部は撮影禁止のため、写真は入口まで。

18世紀頃の建築とみられ、日常の炊事場とは別に、大がかりな煮炊きをするために使われた場所。
餅つきなどの季節行事や味噌・醤油づくり、災害時の炊き出しなど、大量の湯や食事が必要なときに活用したそう。薪を燃やした際の煙や熱を逃がしやすくするために、屋外に開いた半屋外の造りになっている。
棚には桶や臼など、大量調理や仕込みに使う道具が並んでおります。

江戸時代後期、19世紀頃に建てられたと考えられる米の貯蔵庫。
湿気や害虫から米を守るため、床は石敷きとし、屋根には本体の屋根の上にもう一枚屋根を重ねる「置屋根」という構造を採用し、熱や湿気がこもりにくいよう工夫されている。
豪商・菊屋家にとって米がいかに重要な財産だったかを物語っている。中は見れず。

庭園に向かう途中にあった建物。
もとは江戸時代の呉服商「伊勢屋」の離れ座敷で、明治時代に菊屋家の所有となった。
1899(明治32)年、初代内閣総理大臣・伊藤博文を迎えるために2階部分を増築し、現在は1階が茶室として使われているそう。



松やモミジなどの樹木を配した広々とした庭を歩きながら楽しめる造りで、江戸時代から残る書院庭園とはまた違った、近代の菊屋家の美意識を感じられる庭園となっている。

て、養蚕場まであるのすごいね。
■わらじ

ここでもう2名の仲間と合流。

柑橘の薄切りが載っているのがこちらのうどんの特徴。
だしもうどんも最高過ぎて、この写真見てたらもっかい食べたくなってきた🥹
ふらっと立ち寄ったお店のレベルが高すぎる。



菊屋家住宅はふらっと寄った場所ではあったけど、家紋入りの特注銀食器やら昭和天皇が利用された手網(予備)、当時のままきれいに残っている電話室、伊藤博文から贈られた今も現役で動いている時計など、なかなかに見所のあるものがたくさんあって非常に面白かった。
訪れたときには外国の団体さんがちょうど見学されていて、菊屋家住宅ガイドのおばちゃんの説明を、外国人ガイドさんが翻訳してツアー参加者に伝えるという場面も見かけた。
こんなマイナーなところにも海外の方が来るのね。でもここは確かに来るべき場所だわ。
次回へつづく。
