誘引ー風まかせ文芸部
それは幻想的な眺めだった。
透き通るような海辺で椅子に座り足を濡らしてハープを引く彼女は、月明かりに照らされる女神のように美しかった。
息を飲んで立ち尽くす。
しかし全身がびしょ濡れで、ハープを引く指先から流れる赤い雫を見た時には別の意味で立ち尽くした。
事件なのか、夢遊病なのか、精神病なのか、あらゆる可能性が頭を巡る。
声をかけるべきか、このまま立ち去るべきか答えの出ない問いが繰り返される。
そして、次の違和感を感じる。
彼女の足元から黒いものが蠢いている。
波だと思っていたものは、よく見ると髪の毛のように見えた。
自然と彼女の背後へ視線が向く。
海の奥で、月明かりを反射するように何かが時折きらりと光る。
それが目玉に見えた時、僕はすぐに視線を反らした。
見てはいけないものだった。
ふと、チョウチンアンコウを思い出した。
光る擬餌状体で獲物を誘い、近づいた瞬間に丸呑みにする深海魚。
つまり、美しい女神はルアーで、本体は……あれなのではないか。
僕の横を通り過ぎる男が導かれるように、女神に近づいた。
男「そんなところで、どうしたの?」
男は女神に声をかける。
女神は切なげに微笑むと、男に手を伸ばした。
男は迷わずに、その手を掴む。
僕は一歩も動けないまま、後ろの目玉を見ていた。
浅瀬に向けて目玉はスーッと近づくと、月明かりが暗くなる。
大きな山が覆いかぶさるように、女神も男も黒い影の中に消えていった。
額から汗が流れていく。
海は静かだった。
波打つ狭間から、またハープの音が聞こえる。
月明かりに照らされた人影が、海の中からゆらりと現れた。
美しい男が儚げに椅子に腰掛けて、ハープを奏でる。
指先から落ちる赤い雫が月明かりに照らされた、半透明な海の中に滲んでは溶けていく。
指人形が取り替えられるように、ルアーが変わる。
ハープの音だけが、月明かりの海をゆらゆらと漂う。
人間という餌が、また光に誘われるまで。
お読みいただいて、ありがとうございました。
本作は風まかせ文芸部さんの企画に参加しております。
