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私の国際交流の原点は、小学校のあの日だった

私は今でも、ひとつだけ後悔していることがあります。

「どうして、あの時もっと何かしてあげられなかったんだろう」


それは、小学生の頃に出会った
ひとりの外国人の女の子のことです。

私の国際交流の原点は、小学生の頃にさかのぼります。

約40年前。
私のクラスに、ひとりの外国人の女の子が転入してきました。

当時は今のように外国人を見かけることもなく、
小中学校にALT(外国語指導助手)がいる時代でもありません。

私の通っていた小学校にとっても、
創立以来はじめての外国人児童でした。


彼女はフィリピン人で、
お母さんが元モデルだったこともあり、
まるでお人形のように整った顔立ちの女の子でした。

来日後、約1年間自宅で日本語を勉強してからの初登校。

自己紹介が終わった最初の休み時間、
彼女の周りにはすぐに人だかりができました。


その中で、私は勇気を出して声をかけました。

塾で少しだけ習った英語で、
「When is your birthday?」

彼女は日本語で誕生日を答えてくれました。

これが、
私が初めて外国人と交わした会話です。


彼女は日本語をある程度理解し、
クラスにもすぐに馴染んでいきました。

一緒に修学旅行にも行き、
一見すると何の問題もないように見えました。


でも、最初の頃は
日本の文化や習慣の違いに戸惑う場面もありました。

例えば、ピアスやネックレスをつけて登校してきたこと。

後から聞いた話では、
フィリピンでは生まれてすぐにピアスを開けるのが一般的で、
彼女にとってはそれが「普通」だったそうです。


中学生になると、状況は少しずつ変わっていきました。

クラスも別々になり、
授業の内容も一気に難しくなります。

先生の説明も、より複雑な日本語に。


インターネットも電子辞書もない時代。
彼女は紙の英和辞典や国語辞典を使いながら、
必死に勉強していました。

でも、次第に授業についていけなくなり、
学校に来られなくなっていきました。


ある日、母から聞かされた言葉。

「彼女、カナダに行くことになったみたいよ」

その瞬間、私はただただ泣きました。

「なんで?」
「どうして?」

理由も分からず、ただ寂しくて。


でも、後になって思い出したことがあります。

彼女はフィリピンでは裕福な家庭で育ち、
お手伝いさんがいて、
私立のインターナショナルスクールに通っていたこと。

勉強もできて、きっと自信もあったはずです。


そんな生活から、突然日本へ。

言葉も文化も違う中で、
公立の学校に通う日々。

彼女にとって、それがどれほど大変だったのか——
今なら少し想像がつきます。


結局、彼女は約1年後に日本へ戻ってきました。

でも実際はカナダではなく、
フィリピンに戻っていたそうです。

そしてその空白の時間は、
彼女にとってとても大きなものになっていました。


中学3年生で同じクラスになった時、
彼女は以前とは別人のようでした。

いわゆる「不良」と呼ばれる状態になり、
次第にまた学校に来なくなりました。

卒業式にも姿はなく、
そのまま音信不通に。


数年後、突然彼女から電話がありました。

高校には進学せず、
関西で働いているという話でした。


彼女と出会って、私は多くのことを知りました。

文化や習慣の違い。
言葉の壁。
そして、日本の学校で学ぶことの厳しさ。


「バイリンガルならうまくいく」
そんな単純なものではない現実があること。


そして、今でも強く思っていることがあります。

「私は、彼女に何もしてあげられなかった」

もし、勉強を一緒にしていたら。
もっと話を聞いてあげていたら。

彼女はあそこまで孤独にならなかったのではないか。


その後悔が、
今の私の原点になっています。


だからこそ今、私は

日本に住む外国人の方との交流や、
ホストファミリーの受け入れを続けています。


あの時できなかったことを、
今の自分で少しずつ。

同じように国際交流に興味がある方の
何かのヒントになれば嬉しいです。

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