フィリピン里親の話⑥|今、彼女とはFacebookだけで繋がっている| 会いたいのかもしれない。でも、この縁を後悔したことはない
今、
彼女とは、
ほとんど連絡を取っていない。
Facebookで繋がっている。
それだけだ。
時々、
誕生日。
母の日。
そんなタイミングで、
メッセージが届くことがある。
私は、
文章で返事はしない。
リアクションボタンだけ。
そんな距離感が、
もう10年以上続いている。
◆「貸して欲しい」だった
誤解されたくないことがある。
最初の1万円も。
シンガポール出稼ぎ前の5万円も。
彼女は、
「お金をください」
とは言わなかった。
言ったのは、
「貸して欲しい。」
だった。
もし、
シンガポールで働けるようになったら、
返す。
そう言っていた。
私は、
その言葉を、
嘘だとは思わなかった。
むしろ、
彼女なりの誠実さだったのだと思う。
けれど、
私の中では、
答えは決まっていた。
貸すくらいなら、あげた方がいい。
返済を期待する関係に、
したくなかった。
そして、
もし、
そのお金で人生が少しでも変わるなら。
それでいいと思った。
正直に言うと、
私は、
彼女を責めることができない。
もし、
自分が同じ立場だったら。
頼れる人が、
人生の中にたった一人しかいなかったら。
私だって、
きっと同じように頼ったと思う。
だから、
単純に、
「依存だ。」
「お金を求めてきた。」
とは、
私には言えない。
人は、
追い詰められた時、
頼れる場所に手を伸ばす。
それは、
とても人間らしいことなのかもしれない。
◆返済はいらない。でも、もう支援はしない
シンガポールから帰国した後。
彼女から、
返済したいという話があった。
でも、
私は断った。
返さなくていい。
そのお金があるなら、
また海外へ行く準備資金にした方がいい。
そう伝えた。
そして、
もう一つ、
私はメッセージを書いた。
「でも、今後、一切、金銭的な支援はしない。」
それは、
私なりの線引きだった。
善意と、
自分を守ること。
その両方のために、
必要な言葉だった。
その後、
彼女から届いた最後の大きな報告は、
「出稼ぎで稼いだお金で、小さな家を建てた。」
というものだった。
良かった。
本当に、
良かった。
でも、
その後の彼女の生活を、
私は知らない。
今、
どんな毎日を送っているのか。
仕事はどうなのか。
子ども達は大きくなったのか。
幸せなのか。
それとも、
まだ大変なのか。
正直、
分からない。
分からないまま、
時間だけが過ぎていった。
◆これ以上、彼女の人生に加担してはいけない
気づけば私は、
少しずつ、
こう思うようになっていた。
「もう、これ以上、彼女の人生に加担してはいけないのではないか。」
加担。
少し強い言葉かもしれない。
でも、
私の感覚に近いのは、
その言葉だった。
支援。
善意。
国際協力。
そういう綺麗な言葉だけでは、
説明できない感覚。
私は、
18歳の頃、
彼女のスポンサーだった。
仕事に疲れていた頃、
彼女の存在に励まされてもいた。
けれど、
私は、
彼女の人生の責任を負える人間ではない。
そして、
負ってはいけない。
たぶん、
その境界線を、
ようやく受け入れ始めていたのだと思う。
だから、
メッセージが届いても、
リアクションだけ。
その距離感が、
今の私には、
一番自然だった。
◆娘の修学旅行と、フィリピン
今年、
私の娘が、
修学旅行で、
フィリピンへ行くことになっている。
しかも、
偶然にも、
里子が住んでいる地域の近く。
内容は、
ボランティア活動や、
貧困問題について学ぶプログラムだ。
正直、
少し驚いた。
私の中では、
もう過去の出来事になっていた里子の話。
けれど、
フィリピンには、
今も、
残っている貧困問題がある。
娘が、
その現実を見に行く。
これは、
偶然なのだろうか。
それとも、
何か意味があるのだろうか。
そんなことを、
考えてしまう。
私は、
連絡を取るべきなのだろうか。
昔のように、
彼女の話を聞くべきなのだろうか。
でも、
答えは出ない。
◆会いたいのかもしれない。でも…
支援終了直後の頃は、
思っていた。
いつか。
どこかで。
会えたらいいね、と。
今は、
正直、
会いたいのかどうか、自分でも分からない。
もし、
機会があったら。
もし、
本当に人生のどこかで、
会える日が来たら。
私は、
行くのだろうか。
行かないのだろうか。
そして、
会った後、私たちはどうなるのだろう。
以前のように話せるのだろうか。
それとも、
もっと複雑な感情だけが残るのだろうか。
どうするのが正解なのか。
今の私には、
まだ答えがない。
◆彼女は、今、私をどう思っているのだろう
時々、
考えることがある。
彼女は、
今の私を、
どう思っているのだろう。
15年後に突然Facebookで現れた、
昔のスポンサー。
お金を貸してくれた人。
返済しなくていいと言った人。
そして、
「今後、一切、お金の相談はしないで欲しい。」
そう伝えた人。
彼女は、
あの時、
何を思ったのだろう。
傷ついたのか。
理解してくれたのか。
それとも、
別の感情だったのか。
私は知らない。
たぶん、
これからも、
本当のところは分からないのだと思う。
でも。
Facebookのプロフィールを見ると、
彼女の 「家族」 の欄には、
今も、「姉」の場所に、私の名前がある。
それだけは、
ずっと変わっていない。
15年後に突然現れ、
お金を貸し、
返さなくていいと言い、
そして、
もう金銭的な支援はしないと伝えた人間の名前。
その意味を、
私は今でも、
うまく説明できない。
◆それでも、後悔はしていない
でも、
一つだけははっきり言える。
私は、
18歳の時に里親になったことを、
後悔したことは一度もない。
再会した後には、
想像していなかった現実もあった。
善意だけでは解決できないことも、
たくさんあった。
それでも。
社会人になったばかりの頃、
仕事に疲れ、
自信を失いそうになっていた私を、
遠いフィリピンの女の子の存在が支えてくれた。
私は支援していたつもりだった。
でも、
振り返ると、
支えられていたのは私の方だったのかもしれない。
15年後にFacebookで再会したことにも、
私は後悔はない。
あの時代だからこそ、
あの再会だったのだと思う。
会った方が良かったのか。
会わなかった方が良かったのか。
それは今でも分からない。
でも、
あの里子との出会いが、
私の人生を少し豊かにしてくれたことだけは確かだ。
◆もし、この制度を初めて知った人がいたなら
そして願うことがある。
もし、
この記事を読んで、
フォスターペアレント制度やチャイルドスポンサー制度を初めて知った人がいたなら。
世界のどこかで、
教育を受ける機会を必要としている子ども達がいることを、
少しだけ思い出してもらえたら嬉しい。
大きな支援でなくてもいい。
私が18歳の頃に始めた月4,000円の支援も、
誰かの人生の一部になった。
そして、
私自身の人生の一部にもなった。
彼女とは今もFacebookで繋がっている。
時々、
写真を見る。
時々、
誕生日にリアクションを返す。
それだけの関係だ。
でも、
それでいいのかもしれない。
会いたいのかもしれない。
でも、
何が正解かは分からない。
それでも、この縁を後悔したことはない。
あの時始まった縁を、
私は大切に思っている。
(完)
関連記事
▶ フィリピン里親の話①|18歳でフィリピンの里親になった私|あしながおじさんになりたかった18歳の私
▶ フィリピン里親の話②|社会人1年目、遠い国の女の子に支えられていた|私を励ましてくれた、フィリピンの妹のような存在
▶ フィリピン里親の話③|15年後、Facebookで里子を見つけた|会えないと思っていた私たちの再会
▶ フィリピン里親の話④|感動の再会のあとにあった現実|国際支援で教えられた「直接支援」の難しさ
▶ フィリピン里親の話⑤|善意と依存の間で揺れた話|「見捨てたら」と思ってしまった私
シリーズを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この話は、
国際支援の成功談でも、
失敗談でもないのかもしれません。
ただ、
18歳の私が始めた一つの選択と、
長い年月を経ても続いている縁の話でした。
そして、
この経験は、
今も続いている私の国際交流や国際支援との関わり方の原点になっています。
あの18歳の時の小さな選択は、
私が世界とつながる最初の一歩だったのだと思います。
#創作大賞2026応募作品
#エッセイ
#フィリピン
#国際交流
#里親支援
#チャイルドスポンサー
#海外支援
#国際協力
#実話
#人生を変えた出会い
#フォスターペアレント
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費&国際交流ボランティアに使わせていただきます!