【創作百合】線香花火【掌編小説】風まかせ文芸部/ふわっとことばあそび
夏休み最後の日。
美月と私は、自転車を押して町外れの河川敷へ向かっていた。
八月三十一日の夕暮れ。
昼間の熱を抱えたアスファルトから、むっとした湿気が立ち上っている。けれど時折吹く風には、昨日までとは違う匂いが混じっていた。夏の向こう側から、秋がこちらを覗いているような風だった。
美月の自転車の前籠には、コンビニで買った花火の袋と、水を入れたペットボトルが一本。
明日になれば二学期が始まる。また制服を着て、決まった時間の電車に乗って、同じ教室で顔を合わせる。
だから今日を惜しむ理由なんて、本当はないはずだった。
この夏、美月とはよく会った。
図書館で宿題をした。
駅前でアイスを食べた。
夕立に追われて、商店街の軒下へ駆け込んだこともある。びしょ濡れになった美月が笑うから、私までおかしくなって、雨が止むまでずっと二人で笑っていた。
夏祭りにも行った。
薄い水色の浴衣を着た美月を見つけたとき、なぜかすぐには声をかけられなかった。
いつもと同じ顔なのに。
いつもと同じ美月なのに。
あのとき胸の奥で起きたことを、私はまだ誰にも話していない。
河川敷に着くころには、空は群青色に沈み始めていた。
昼間は耳を塞ぎたくなるほど鳴いていた蝉の声も遠のき、代わりに草むらから細い虫の音が聞こえる。川の向こうでは住宅街の明かりが、ぽつぽつと灯り始めていた。
「どれからやる?」
美月が袋を開ける。
「派手なやつ」
「子ども」
「美月もやるくせに」
「やるけど」
最初に火をつけたのは、赤い手持ち花火だった。勢いよく噴き出した光に驚いて、美月が「うわっ」と声を上げる。
「近い近い!」
「そっちが近づいてきたんでしょ!」
暗くなりかけた河川敷を、赤や緑の光が走った。二本同時に火をつけてみたり、どちらが長く燃えるか競争したりした。煙が風向きを変えるたび二人して逃げた。
美月が調子に乗って花火を大きく振り、火の粉が自分の足元へ飛んで悲鳴を上げた。私は笑いすぎてお腹が痛くなった。
「笑いすぎ!」
「だって美月の顔」
「もう一本そっちに向けるよ」
「危ないからやめて」
くだらないことで笑った。夏祭りの打ち上げ花火みたいに空を埋め尽くすことはない。音だって、川の向こうまで届かない。それでも私には、あの夜に見上げたどんな花火より眩しく思えた。
やがて袋は軽くなった。火薬の匂いが湿った夜気に混じっている。使い終えた花火を水の入ったバケツに沈めると、じゅ、と小さな音がした。
「あと、これだけ」
美月が袋の底から線香花火を取り出した。
二本。
一本を私に差し出す。
「最後はやっぱりこれだよね」
「線香花火?」
「うん」
美月は線香花火を指先でくるくる回しながら言った。
「知ってる? 線香花火って、燃え方に名前があるんだって」
「名前?」
「見てれば分かるよ」
私たちは堤防の階段に並んで腰を下ろした。美月がライターを点ける。小さな炎が紙縒りの先へ移り、やがて橙色の玉になった。
「これが蕾」
「まだ花火じゃないみたい」
「これから咲くんだよ」
火の玉は、夜の底で頼りなく揺れていた。落ちそうで落ちない。何も起きていないのに、目を離せない。
四月。
二年生になって最初の席替えで、美月が隣になった。
その日の二時間目だったと思う。
「消しゴム貸して」
彼女が小声で言った。ただ、それだけ。私は机の上に消しゴムを転がした。美月は「ありがと」と笑った。
その顔さえ、当時はすぐに忘れると思っていた。人と仲良くなるきっかけなんて、たぶんそんなものだ。あとから振り返らなければ、始まりだったことにも気づかない。
ぱち、と音がした。小さな火の玉から、丸い火花が弾け始める。
「牡丹」
美月が言う。光が咲くたび、その横顔が一瞬だけ夜の中に浮かぶ。
頬。
睫毛。
風に揺れる前髪。
暗くなって、また光る。
暗くなって、また。
「……なに?」
不意に美月がこちらを向いた。
「なにが?」
「見てたでしょ」
「花火をね」
「ほんとに?」
美月が笑う。
「ほんと」
私は線香花火へ視線を戻した。その途端、自分の心臓の音だけがやけに近くなった。
六月ごろから、美月の姿を教室で探すようになった。朝、席に座っているのを見つけると少し安心した。休み時間に姿がないと、廊下をなんとなく眺めた。スマホが震えると、美月からかもしれないと思った。違う相手だと、ほんの少しだけがっかりした。
どうしてなのか考えようとすると、私はいつも途中でやめた。分からないままの方が、安心できた。
牡丹はほどなく姿を変えた。細く鋭い光が、勢いよく四方へ走る。暗闇を縫うような火花。
「松葉」
「急に激しくなった」
「私、ここが一番好き」
美月は言った。
「派手だから?」
「違う」
少し考えてから、
「なんか、一生懸命だから」
私は笑った。
「花火に一生懸命とかある?」
「あるよ。絶対」
美月は真面目な顔で線香花火を見ている。その横顔を見ていたら、本当にそんな気がしてきた。
海に行こうと言ったのは私だった。夏祭りに誘ったのも私だった。宿題なんて家でもできるのに、図書館へ行こうとメッセージを送った。
会えば会うほど、次に会う理由が必要になった。それで今日も、
「夏休み最後だし、なんかしない?」
と送ったのは私だ。すぐに、
「花火しよ」
と返ってきた。その二文字が嬉しかった。どうして嬉しいのかは、やっぱり考えなかった。松葉が夜の中で激しく弾けている。明日にならなければいいのに。そんな言葉が喉まで来て、消えた。言えばきっと、美月は「なんで?」と聞く。私はその答えをまだ持っていない。
やがて、火花から勢いがなくなった。長く細い光が、重力に引かれるように静かに垂れ始める。
「柳」
美月の声も、少しだけ静かになった。川面を渡ってきた風が頬を撫でる。昼間の熱が嘘のように冷たい。遠くを電車が走っていく。橋の上を移動する窓明かりが、ひとつずつ闇の向こうへ消えていった。
「明日から学校かあ」
美月が呟いた。
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
彼女は少し間を置いた。
「夏休み、楽しかったから」
それだけだった。それだけなのに、胸の奥を指で押されたような気がした。
「私も」
自分の声が思ったより小さかった。柳の火花が一本、また一本と落ちていく。
来年も同じクラスとは限らない。休み時間に当たり前のように話すこともなくなるかもしれない。
夏が来ても、今年みたいに二人でどこかへ行く理由が見つからないかもしれない。
来年という言葉は、わずか一年先なのにひどく遠かった。
「来年もできるよ」
私は線香花火を見たまま言った。美月は何も答えなかった。聞こえなかったのかと思ったころ、
「……うん」
小さな声がした。それだけで、十分だと思った。火はさらに弱くなった。赤い玉の周りで、小さな光が咲いては消える。
ひとつ。
ふたつ。
忘れたころに、またひとつ。
「散り菊」
美月が囁いた。終わりにこんな綺麗な名前をつけた人は、どんな気持ちだったのだろう。
消えないで、と思った。
この火が落ちなければ、今日がもう少しだけ続くような気がした。美月と過ごした夏まで、まだ終わらないような気がした。
「ねえ」
美月が言った。
「なに?」
「来年もやろうね」
私は横を向いた。
美月は花火を見つめていた。最後の光が頬を淡く照らしている。
「うん」
もっと何か言いたかった。でも、その先の言葉を私は知らなかった。最後の火花が咲いた。ほんの一瞬。夜の中に、小さな菊が開く。それから、赤い玉が音もなく落ちた。
二人で暗くなった指先を眺めていた。さっきまでそこにあった光の残像だけが、目の奥に残っている。
「終わっちゃった」
美月が言った。
「うん」
さっきまで賑やかだった河川敷が、急に広くなったように感じた。
草むらでは虫が鳴いている。川は何事もなかったように流れている。
私たちは立ち上がり、花火の後片付けをした。
帰り道。
二人で自転車を押した。街灯の下を通るたび、影が長く伸びて、重なって、また離れた。
歩くたびに美月の自転車のハンドルが私のハンドルへ近づいた。ぶつかりそうになると、どちらかが少しだけ避ける。それなのに、歩幅だけは最後まで同じだった。別れ道で、美月が手を振る。
「じゃ、明日」
「うん。明日」
たった一晩しか離れない。なのに、背中が見えなくなるまで私はそこに立っていた。
翌朝。
教室にはもう日常が戻っていた。窓から容赦なく残夏の日差しが差し込み、黒板の隅には白いチョークで、九月一日と書かれている。夏休みなんて、最初から存在しなかったみたいだった。
「おはよ」
席に着いた私に美月が言う。
「おはよう」
それだけ。昨日のことには触れなかった。授業が始まる前、教科書を出そうと机の中へ手を入れる。指先に、細い紙の感触。それは一本の線香花火だった。一瞬、昨日の夜を思い返す。最後に美月が袋から取り出した線香花火は、二本だった。
私に一本。美月に一本。袋は空になったはずだった。それなのに、ここに一本ある。紙縒りのところに、小さな字が書いてあった。
――来年まで、とっといて。
思わず隣を見る。美月は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。知らないふりをしている。けれど、こちら側の耳だけが少し赤い。いつ抜き取ったんだろう。花火を買ったときかもしれない。河川敷へ向かう途中かもしれない。私が煙にむせている間かもしれない。
分からない。
ただ、美月は昨日の夜、あの袋の中から一本だけ、燃やさずに残した。私は何も言わなかった。言わないまま、その一本をペンケースのいちばん奥へしまった。
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。私の夏は終わったはずなのに。ペンケースの中には、まだ火をつけていない夏が、一本だけ残っていた。
#風まかせ文芸部
お題:『線香花火』
