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「こういう人間だ」と決めつけるほど、モヤモヤした気持ちが長引くのかもしれないという話

朝の準備で、着替えの手が止まった子どもにイライラしてしまう。

そんな時、つい「この子は準備が遅い子だ」「自分は余裕のない親だ」と、自分や相手にラベルを貼って決めつけてしまうことってありませんか?

私は一度そう思い込んでしまうと、モヤモヤした気持ちをずっと引きずり、状況が固定されて動かなくなるような感覚に陥ることがあります。

なぜ、私たちは自分や相手を決めつけることで、余計に苦しくなってしまうのか。

そのヒントを、COTEN RADIOの仏教哲学回で知った、「無我」という言葉の中に見つけました。

前回までのnoteでは、仏教の「苦」「楽」「慈悲」を、日常のモヤモヤとつなげて考えてきましたが、今回のnoteでは「無我」について整理してみます。

ただし、今回も仏教の専門的な解説をしたいわけではありません。

私は仏教の専門家ではないので、このnoteではCOTEN RADIOで龍源さんが話していた内容を入口にして、自分がどう受け取ったかを残しています。


【参考】COTEN RADIO番外編「仏教のこと、龍源さんに聞こう」


「自分はこういう人間だ」と思うと、動けなくなることがある

日常生活の中で、自分や相手を「⚪︎⚪︎な人だから」と決めつけてしまうことってありますよね?

「自分は余裕がない人間だ」
「この人は分かってくれない人だ」
「この人はいつも文句ばっかり言ってる人だ」

このような言葉は、何が起きているのかを簡単にまとめられるので、とても便利です。

でも、その言葉を強く信じすぎると、今度は状況が動かないものに見えてきます。

この子はこういう子だから仕方ない。
自分はこういう親だからダメだ。
相手はこういう人だから無理だ。

そういうふうに見た瞬間、本来変わる可能性があるものを固定化してしまう感じです。

前回までのnoteで考えてきた「苦」が、出来事と自分の望みとのズレから生まれるのだとしたら、ここで貼っているラベルも、その苦から逃れにくくしているのかもしれません。

無我を「固定しすぎない視点」として受け取ってみる

龍源さんの説明を聞いて、私は「無我」を、「自分が存在しない」という意味ではなく、自分や相手を固定されたものとして見すぎない視点として受け取りました。

たとえば、「私はこういう人間だ」と思っても、その私は本当にいつでも同じように振る舞うのか。

あるいは、「あの人はこういう人間だ」と思っても、その人はどんな場面でも同じように振る舞うのか。

実際には、眠さ、疲れ、時間、場所、相手、声のかけ方、置かれている環境など、さまざまな条件によって振る舞いは変わります。

だとすると、自分や相手をひとつのラベルで固めてしまうこと自体が、モヤモヤを強くしている場合があるのかもしれません。

朝の準備で「また始まった」と思ってしまう

この話をいちばん日常に引き寄せやすいのは、やはり朝の準備の場面でした。

こちらは時計を見ながら、早く着替えてほしい、早く出発できる状態にしたいと思っています。

でも、子どもは着替えの途中でおもちゃに手を伸ばして遊ぼうとしている。
その瞬間、私は心の中で「また始まった」と思ってしまい、

「また準備が遅くなる」
「どうして毎回こうなるんだろう」
「この子はいつも準備が遅い子だ」

と子どもに固定したラベルを貼ってしまう。

同時に自分自身にも、

「予定どおりに回せないダメな親」
「余裕のない親」
「イライラする親」

など、ラベルを貼っています。

こうなると、目の前で起きているのが「着替えの途中でおもちゃに手を伸ばした」という出来事だけではなくなり、「この子はいつもこうだ」とか、「私はちゃんとできていない」といった意味がどんどん上乗せされていくのです。

でも、少し落ち着いて見ると、子どもだけが原因で起きているわけでも、自分だけが原因で起きているわけでもありません。

子どもは、

遊びたい気持ちが残っていたのかもしれない。
目の前におもちゃがあるから、気持ちが向いてしまうのかもしれない。
こちらの急いでいる理由が、十分に伝わっていないのかもしれない。

親側にも条件があります。

たとえば、

時間に追われている。
家事や仕事の残りがある。
睡眠不足や疲れがある。
仕事のスタートが遅れるという気持ちがある。
ちゃんとした親でいたいという気持ちがある。

などです。

つまり、「親が悪い」「子どもが悪い」の二択というより、時間、疲れ、予定、声かけの仕方、環境などが重なって、その朝の状態が生まれている。

もちろん一呼吸おけたからといって、すぐにイライラが消えるわけではありませんし、毎回うまく対応できるわけでもありません。

分かっていても時間がないと焦るし、分かっていても声が強くなることはあります。

ただ、それでも少しだけ違いがあります。

「この子はいつも⚪︎⚪︎」と決めつける前に、

「もしかしたら眠いのかもしれない」
「切り替えが難しいのかもしれない」

と一拍置ける瞬間があれば、その一拍があるだけで、

声かけのタイミングを変える。
朝の準備中に目に入りやすいおもちゃを減らす。
急ぐ理由を先に伝える。
親側の予定を少し緩める。

といった選択肢が見えやすくなります。

つまり、私は「無我」という言葉を「自分や相手を、固定されたものとして見ないための視点」と受け取り、「自分や相手に固定のラベルは貼らない」という方向で日常につなげました。

自分や相手を「固定しすぎない」

この「無我」の視点は対人関係を見直す入り口になるかもしれません。

たとえば、仕事で「あの人は分かってくれない人だ」と思ったり、友人関係で「自分はこういう性格だからあいつとは仲良くできない」と思ったり、相手の性格や自分の性格を固定化してしまうことってありますよね?

もちろん、相手の言動によって傷つくことはありますし、距離を取った方がいい関係もあると思います。

だから、「全部、自分のレッテル貼りの問題です」と言いたいわけではありません。

ただ、「自分が悪い」「相手が悪い」の二択に入る前に、いまこの状態を生んでいる条件を考えることは可能です。

時間がなかったのかな?
疲れていたのかな?
期待が強すぎたのか?
相手に伝わっていない前提があったのか?
環境がそうさせているのか?

こうやって分解してみると、固定されていない動かせる場所が見えてくることがあります。

見方を変えればすべての人間関係が解決する、とは言えません。

でも、見方を固定しすぎると、解決できる可能性のある問題まで解決できなくなるかもしれません。

最後に

前回まで、「苦」「楽」「慈悲」を通して、日常のモヤモヤをどう見直せるか考えてきました。

今回の「無我」からは、自分や相手を「こういう人だ」と固めて見ないことも、日常のモヤモヤをどう見直せるか考える一つの入口になるのかもしれないと感じています。

前回までの「苦」「楽」「慈悲」、そして今回の「無我」を通して、仏教は人や状況を単純に善悪で分けるのではなく、苦がどう生まれ、どう減らせるのかを本気で考えているのだと実感できました。

次回は、今回の「無我」ともつながる、「中観」「空」について、COTEN RADIOで聞いた内容を入口にしながら、自分なりに整理してみたいと思います。


【参考】前回までのnote


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