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【独り言】元教員が感じた、平和学習の限界〜戦争を知らずに、平和を語れるのか〜

 高校生の頃、私は修学旅行で沖縄を訪れました。教員になってからも、引率する修学旅行先は沖縄ばかりでした。しかし、退職前に勤めていた学校では、現在の修学旅行先が沖縄ではなく、広島と大阪になっているといいます。初日は広島で平和学習を行い、その後、生徒たちは班行動で新幹線に乗って大阪へ移動するそうです。

 修学旅行を担当する教員にとって、平和学習はぜひとも入れたい教材の一つです。なぜなら、修学旅行とは単なる観光旅行ではなく、学習活動の延長にあるものだからです。集団生活を学び、自主性や社会性を養い、その土地の文化や歴史に触れて見聞を広げます。そして、忘れてはならないのが「楽しむこと」です。仲間と時間を共にし、友情を深め、思い出を作る。その経験は、後になって振り返った時に何よりの宝になるでしょう。

 その修学旅行の中で、平和学習は特別な意味を持っています。私はこれまで、高校生としての修学旅行、教員としての引率、そして個人旅行として沖縄を訪れた経験があります。しかし、平和学習を受けたのは修学旅行の時だけでした。個人旅行で沖縄を訪れた時には、戦跡を巡る観光客は決して多いとは言えず、現在の平和学習は、修学旅行生という存在によって支えられている側面が大きいのではないかと感じます。

 高校生の頃の修学旅行では、実際に戦争を経験した語り部の方の話を聞く機会がありました。当時の私には難しい部分もありましたが、そこでは、ただ体験そのものが語られていた印象が強くあります。政治的な主張を押しつけられているようには感じませんでした。戦争を生き抜いた人間の言葉として、ありのままに胸に残ったのです。

 一方、教員になってからの修学旅行では状況が変わっていました。当時を知る語り部の方々は少なくなり、私たちは旅行会社が組んだ一般的なルートを巡っていました。ガマ——沖縄戦で住民や兵士が身を潜めた自然の洞窟——に入り、ガイドの方の説明を聞きます。しかし、その説明には、政府や軍への政治的批判が多く含まれているように感じられました。また、話の中心は主に住民被害であり、陸軍や海軍の慰霊碑の前はほとんど説明もなく通り過ぎていきました。

 もちろん、沖縄戦において住民が大きな被害を受けたことは疑いようのない事実であり、その苦しみを学ぶことは極めて重要です。しかし、戦争を理解するためには、それだけでは足りないのではないかとも感じました。

 ある時、生徒の一人が私に「空母って何ですか」と質問してきたことがあります。「空母から発艦したグラマン」という説明の意味が分からなかったのでしょう。しかし、それは決して特別なことではありません。学校教育の中で、兵器や軍事について詳しく学ぶ機会はほとんどないからです。まして修学旅行の平和学習では、兵器そのものの説明や、「なぜその兵器が必要とされたのか」といった戦争の構造に踏み込むことはありません。生徒たち自身も、そうした話題にはどこか触れてはいけない空気を感じ取り、深く質問することを避けているように思えました。

 しかし、被害だけを切り取って学ぶことには限界もあります。たとえば、空母とは何か、なぜ航空機による攻撃が行われたのか、なぜ戦争は島全体を巻き込む形になったのか。そうした背景を知らなければ、戦争を単なる「恐ろしい出来事」として受け止めることはできても、「なぜそれが起きたのか」を考えることは難しいでしょう。

 兵器を知ることは、戦争を肯定することではありません。むしろ逆です。人間がどれほど合理的な計算の上で戦争を遂行し、その結果としてどれほど大きな被害を生み出したのかを理解するためには、兵器や戦術、補給、地理的条件といった要素から目を背けることはできないはずです。

 こうした現場の実感を持ちながら、近年ある出来事が気になりました。同志社国際高等学校の授業内容が、文部科学省の調査において政治的中立性を欠くと認定された件です。授業で特定の政治的立場に偏った内容が扱われていたとして問題視されたもので、「こうした認定は平和教育を萎縮させる」という指摘も見られました。しかし、私は教育現場にいた感覚として、今回の件によって新たに萎縮効果が生まれるとはあまり思いません。

 なぜなら、教育現場はすでに十分すぎるほど慎重だからです。現在の学校では、兵器や軍事、戦争そのものについて深く踏み込んで語ること自体が、ある種のタブーになっているように感じます。教室には中国や韓国をはじめ、様々な背景を持つ生徒たちがいます。不用意な発言で誰かを傷つけたり、政治的主張と受け取られたりしないよう、教員は常に細心の注意を払っています。

 だからこそ、戦争を多面的に語ることは難しいのです。兵器の役割や軍事的合理性に踏み込めば、「軍事を肯定している」と受け取られる可能性があります。一方で、被害や悲惨さだけを語れば、戦争の構造そのものは見えにくくなります。現場の教員たちは、その狭いバランスの上で授業を行っています。

 そして、多くの教員は決して無自覚ではありません。大学で学問に触れ、歴史叙述や情報には必ず視点の偏りが存在することも理解しています。その上で、できるだけフラットに語ろうと努力している人がほとんどでしょう。少なくとも、意図的に特定の結論へ生徒を誘導しようと考えている教員は、多くないように思います。

 今回の文部科学省の発表によって、むしろ教育現場では「多面的に扱う必要がある」という意識が強まり、これまで避けられがちだった軍事的背景や兵器、戦争遂行の論理などについても、両面から説明しやすくなるのではないかという期待もあります。しかし、実際には大きく変わらないのではないかとも思います。現場はすでに極めて慎重であり、教員たちは波風を立てないように細心の注意を払いながら授業を行っているからです。

 その中でも比較的「安全」に語りやすいものがあるとすれば、それは政府批判や反戦です。これはあくまで私個人の感覚ではありますが、教育現場ではその方向性の発言は比較的許容されやすい空気があります。一方で、「なぜ軍隊が存在するのか」「なぜ兵器が必要とされたのか」といった話題は、途端に扱いづらくなります。

 しかし、本来の平和学習とは、単純な善悪だけで終わるものではないはずです。戦争を否定するためにも、まず戦争がどのような論理と合理性によって遂行されたのかを知る必要があります。そこに踏み込まずに被害だけを語れば、生徒たちは「悲惨だった」という感想は持てても、「なぜ起きたのか」を自分の頭で考えることは難しいのではないでしょうか。

 平和を願うことは簡単です。しかし、平和を本当に理解するためには、戦争そのものを知ろうとする姿勢が必要なのだと考えています。


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