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【独り言】大人の平和学習 〜沖縄戦の実相にふれるたびに〜

 沖縄県平和祈念資料館には、「むすびの言葉」と題された一節があります。


  この なまなましい体験の前では   
  いかなる人でも   
  戦争を肯定し美化することは   
  できないはずです

 高校生のときにも同じ資料館を訪れており、文章が大好きな私がこの言葉を見逃すはずがありません。しかし記憶にはまったくありませんでした。

 後に教員となって修学旅行の引率でこの場所を再訪したとき、この言葉が目に入りました。この言葉には衝撃とともに感動すら覚え、思わずスマートフォンで写真を撮ってしまいました。一生手元に置いておきたいと思ったからです。受け取る側が変わると、同じ言葉がまったく異なるものとして届きます。そのことを、身をもって知りました。

沖縄県平和祈念資料館にて

引率という立場で受ける平和学習

 以前の記事で、平和学習は高校生によって担われているという趣旨のことを書きました。修学旅行で沖縄を訪れ、ガマを歩き、資料館を見学します。その中心にいるのは生徒です。引率教員の主な仕事は生徒の安全管理であり、自分の好奇心でガイドの話を聞いたりするような立場ではありません。

 しかし、例えばある修学旅行の引率では、ガマを巡る際には男女で分かれて行動し、それぞれのグループに教員が付きました。生徒に向けられたガイドの言葉は、引率している私も聞くことになります。解説を受ける主体ではありませんが、生徒のおこぼれのようなかたちで、私も受け取っていたのです。

高校生のときと、大人になってから

 同じ場所に立ち、同じ言葉と向き合っても、受け取れるものは年齢とともに変わります。社会で働き、世界で起きていることを知り、その重みを積み重ねてきた目で読む言葉は、同じ文面であっても、まったく別の重さを持ちます。これは高校生の感受性が低いということではありません。経験の蓄積とともに、届くものが変わるということです。

 むすびの言葉との再会はそのことを示しています。知識として伝達するよりも、何かに触れて感じ取るというかたちでしか届かないものがあります。平和学習が「教育」であるよりも「学習」であるゆえんも、ここにあるように思います。

大人こそ受けるべき平和学習

 平和学習は学校教育の一環として設計されており、その主役は生徒です。しかし、むすびの言葉との再会が示すように、平和学習の場が持つ力は大人に対しても衰えません。むしろ、経験を積んだ分だけ深く届くものがあると考えます。

 私がむすびの言葉に出会ったのは、引率という偶発的な機会によるものでした。意図して受けに行ったわけではなく、たまたまそこにいただけです。それでもあれほど深く届いたのであれば、意図を持って訪れた大人には、さらに大きなものが届くのではないでしょうか。

 これまでの記事で平和学習に批判的な論点を重ねてきましたが、決して平和学習を否定したいわけではありません。日本が誇るべきこの営みを、生徒だけのものと捉えるのが惜しいと思っています。学びに、年齢の上限はないのですから、是非こうした平和学習を大人になっても受けられる機会があればいいと思っています。


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