朝日遺跡弥生環濠の乱杭、逆茂木は治水対策のもの
タイトル図は愛知県朝日遺跡ミュージアムの円窓付土器。ぽっかりと穴の開いた土器は水の祭祀のためと考えられる。また、従来より防御施設と説明されてきた杭跡などが、治水に関係することも説明します。
あいち朝日遺跡ミュージアムに次のような解説がある。「弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、集落の基本的な配置が定まりました。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれました」
だがこれには疑問があるので説明したい。

1.弥生環濠の逆茂木、乱杭は防衛施設か
愛知県清須市の朝日遺跡は東海地方最大の弥生集落といわれ、弥生時代争乱の証拠とされた防御施設のある遺跡として有名となっている。環濠の内側に築かれた土塁とその手前の濠、そしてそこに逆茂木・乱杭などのバリケードと、まさに防衛対策を備えた集落のように説明されている。各地の遺跡の復元整備や弥生時代の復元画にも大きな影響を与え、吉野ヶ里の復元も朝日遺跡が参考とされたという。HPにもこの解釈に沿った様子が描かれている。

しかし、環濠施設の全体の図では、乱杭などは中心のやや左上の丸囲い部で示されているように環濠の一部だけに存在し、その位置は北側と南側にある集落の谷で分けられた接点に築かれている。集落の東西の側面は墓地が広がり、そこにバリケードのようなものは見当たらない。いったいこの防御施設はどこからの敵の侵入を想定しているのか疑問が浮かんだので、現地の博物館の学芸員さんに尋ねると、防御施設を疑問視する見解の存在することを説明された。
一番のポイントとなる逆茂木、乱杭はこの場所に川が流れており、洪水・水害対策の施設だと調査員の赤塚次郎氏は指摘しているのである。この逆茂木は期間が限定され、流水性の砂層が堆積していることが根拠となるという。また乱杭も数多く設置されているが、実際に先端部が尖った状態で出土した木材はないとのことだ。このような説得力のある「異論」があるのに、なぜ展示解説には考慮されないのであろうか。
また先ほどの学芸員の説明では、どうしてこの場所に集落を作ったのか不思議とされている。弥生時代当時のこの地は海岸線が迫っており、濃尾平野を縦に走る複数の大きな河川もあり、たいへん水のつきやすい場所であった。
近くに台地もあるのに、なぜわざわざ条件の悪いところに集落を構えたのであろうか。台地のある地域は縄文時代からの先住民が多く存在していたようで、新参ものの渡来人は彼らに遠慮して荒れ地に村づくりを始めたのかも知れない。水田を始めるには、水の確保が容易な土地ではあるが、その一方でリスクも伴う地であったのだ。その為に実利的な面でも祭祀面からも、水への対策が切実だった。ぽっかりと大きな口を開けた土器が、多数見られるのも、唐古・鍵、清水風遺跡の絵画土器と同様に、荒ぶる水神を祀るためであったと考えられよう。


国立羅州博物館 半島との関係がうかがえる
2.転換が必要な弥生環濠についての視点
では、乱杭、逆茂木と考えられたものは具体的にどのような目的があったのであろうか。これは代表的な弥生時代の遺構のある登呂遺跡について、次のような解説がある。
この登呂のムラは地下水位が高いために、地面を深く掘り下げると水が湧きだしてくるので、周囲に土を盛り上げて竪穴住居と同様の構造にする低湿地対応の「平地式住居」を採用したという。住居の平面は小判形をしていて、盛り土が内側に崩れないように羽目板を縦に隙間なく並べ、盛り土の外側にも横木と杭列によって護岸する(岡村渉2014)。水対策の苦労がしのばれる遺跡であった。

図は、治水のために無数の杭を打ち込んでいる様子がわかる灌漑施設。こういったものは、弥生時代の全国にあったと思われる。
吉野ケ里遺跡の環濠にも、多数見つかったこの杭状のものを、いつまでも防御の乱杭などと言う説明からの脱却を望みたい。
藤原哲氏は、環濠を取り巻く状況をみて、戦争の痕跡と環濠の存在が結び付かないのではという興味深い指摘をされている。武器や殺傷人骨が多い北部九州には集落に伴う環濠は少なく、逆に武器や殺傷人骨などの戦闘の痕跡がほとんど見られない南関東では環濠集落が発達するという事象は、従来から説明されてきた環濠集落=標準的な弥生集落=防御集落という図式は妥当でないことを示しているとする。
そして、「弥生時代の戦闘形態は、奇襲や待ち伏せによる小規模で散発的な戦闘が主流であったと評価」したいという。
そうすると「集落が環濠による防御状態にあるという戦闘像と、倭国乱といった政治的な現象と直接的に結びつけるイメージは、これを改めなければならない」と結論されているのである。
藤原哲氏は日本書紀の記述から、興味深い指摘もされている。それは古代の列島の城郭の少ないことは、乙巳の変において中大兄が「卽入法興寺爲城而備」(即ち法興寺に入り、城として備ふ)などは、常設の防御施設が存在しないので寺院を利用している事情が傍証になるという。「考古学からも防衛施設が少ない事実、日本書紀は史実をある程度反映」するのだという。検討すべき視点ではなかろうか。
以上のように従来の弥生時代の定説への疑問、新たな解釈が次々と研究者から発信されていることからも、早急に見直しが進むことを期待したい。
あいち朝日遺跡ミュージアムについては、以下の記事などご覧ください。
参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
原田幹『朝日遺跡 東西弥生遺跡の結節点』新泉社2013
久世辰男 『環濠と土塁――その構造と機能――』月刊考古学ジャーナル№511
武末純一『韓国の初期環溝(濠)の構造と機能』月刊考古学ジャーナル№511
原田幹『朝日遺跡 東西弥生文化の結節点』 新泉社2013
橋口達也『弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成』 雄山閣2007
藤原哲『日本列島における戦争と国家の起源』 同成社 2018
歴博フォーラム『天下統一と城』 塙書房 2002
佐原真 戦争の考古学 佐原真の仕事4』岩波書店 2005
佐原真 弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争』佐原真編 吉川弘文館2002
文化財保存全国協議会編『文化財保存70年の歴史』 新泉社2017
藤原哲『日本列島における戦争と国家の起源 』同成社2018
岡村渉『弥生集落像の原点を見直す 登呂遺跡』(遺跡を学ぶ99)新泉社2014
灌漑施設の図は 橿原考古学研究所付属博物館
