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川の街リュオーレの物語⑤ 第3話 老木

窓の隙間から、朝の風が入ってきた。
土と新緑の香りが、少し濃くなった気がする。

あそこへ、行こうと思った。

ハルナギは寝具の中で一度伸びをして
身体を起こした。
今日も天気がよさそうだ。

地面のぬかるみは大分と乾いていた。
家の裏手の湧き水も、いつもの流れに戻っている。

水を汲み、台所のかまどで火を起こす。
お茶の葉が入った円い筒を手に取り、少し考えて棚に戻した。

窓際に吊ってある乾燥した葉っぱを数枚ちぎり、ポットに入れる。

今朝は、こちらにしよう。

沸かした湯を注ぐと、ほどなくして、
控えめで清々しい香りが立ち上ってきた。

ハルナギは、お茶を茶碗ではなく水筒に入れた。
パンと赤い果実を包み、背負い袋を持つ。

靴底を軽くぬぐい、ブーツを履いて戸を開けた。

丘の小道をしばらく下ると、やや太い道に行き当たる。
リュオーレと西の山々をつなぐ街道だ。
ハルナギは、街と反対の方向に歩き始めた。

街道といっても大きな道ではない。

今朝も、一台通っていったようだ。
まだ新しい轍が残っている。
山の産物を市場に運ぶのだろう。

ところどころに残る水たまりを避けながら、
木漏れ日の道を緩やかに上っていく。

雨の後、草や木は一斉に枝葉を伸ばしていた。
道端に咲く花も色合いを増している。

街道に沿って小さな流れが続いている。
丘に住む子どもたちが沢遊びをする姿は、まだ見られない。

街中とは違う鳥の声が、聞こえてきた。

街の鳥が群れで歌い合うのに対し、
山の鳥は一羽で遠くへ届けるように鳴いている気がする。
ハルナギは、その歌が好きだった。

小川に丸太が2本、渡されていた。
橋と呼ぶほどのものでもない。

ハルナギはそこを渡り、街道から離れた。

一人が通れるほどの細い道が森の中に続いている。
落ち葉に覆われているところも、慣れた様子で歩いていく。

すぐ脇の茂みで、何かが慌ただしく動いた。
森の生き物を驚かせてしまったかもしれない。

上りが急になったその先で、視界が開けた。

小さな空間がぽっかりとあいている。
ちょっとした広場のようだ。

そこに大きな木が一本、立っていた。

ゴツゴツとした幹が地面からまっすぐ伸び、
途中から枝を縦横に広げている。

かなり古い木だ。
太い幹の半分ほどは苔に覆われ、
根元には一つ、洞が開いていた。

上の方ではもう枯れていそうな枝もある。
それでも、ほかの枝先には緑の若葉が茂っていた。

ハルナギは目を閉じ、軽く礼をしてから歩み寄った。

この木のことは、ただ「老木」と呼んでいる。

昔は、別の呼び名があったと聞く。
でも、この木のことを口にする人は、もうほとんどいない。

幹にそっと手を触れた。
いつもの挨拶だ。

乾いた木肌の感触が伝わってきた。

大きく張り出した老木の根に腰を下ろし、
背負い袋を脇に降ろした。

水筒から茶碗にお茶を注ぐ。
この山で摘んだ葉だ。

香りを吸い込み、まだ温かさが残るお茶を口に含んだ。

食事を終えると、
ハルナギは老木の周りをゆっくりと歩いた。

ここは、森のほかの場所と少し違う。

冬は老木が葉を落とし、日光が降りる。
春になると葉が茂り、木陰が広がる。

そのせいか、ここでは花の時期が少し遅くなる。

「あっ」

ハルナギは腰を下ろした。

指先ほどの大きさの薄いオレンジ色の花が咲いていた。
カルポックだ。
周りではミツバチが小さな羽音を立てている。

ハルナギは茎をつまみ、そっと花の裏側を確かめた。

「よかった。今年も……」

街にも山にも咲くこの花には、
リュオーレ近郊にだけ残っているものがあるという。

花びらではわからない。
裏側を見て、ようやく気づくことができる。

文書館で知ってから、
見かけるたびにこの花の裏を覗くようになった。

街でも、ハルナギが住む丘でも、
リュオーレに昔から咲くというカルポックは一つも見つからなかった。

「人も、荷も、種も。
馬車が、ほかの場所のものを運んでくるからな」
橋守のエンゾに、そんなことを言われた。

「裏を見なきゃわからない違いなんか、誰も気にしないだろう」
とも。

ハルナギがようやくリュオーレ固有の
カルポックを見つけたのが、この老木の下だった。

「今年も、咲いてくれた……」
ハルナギは、しばしその小さな花を見つめた。

ふと、背中のあたりの空気が少し変わった。

振り向くと、老木の根元の洞から
何かが顔を出し、こちらを見ていた。

「小さいの、来てたんだ」
ハルナギの顔がやわらぐ。

やがて姿を現したそれは、子犬ほどの大きさで、
灰色がかった毛並みをしていた。
キツネに似ている気もする。けれど、そうとも言い切れない。

そして、太い尻尾の先が淡く光を帯びていた。

いつもここにいるわけではない。
ときどき、気まぐれのようにハルナギのそばに姿を現す。
そして、いつの間にかいなくなる。

鳴き声を聞いたことはない。

ハルナギは、この存在を「小さいの」と呼んでいた。

自分よりずっと長い歳月を
この山で過ごしているのかもしれない。

水筒に残ったお茶を茶碗に移し、ゆっくりと飲み干した。

立ち上がり、
老木と、小さいのと、カルポックの花を順に見た。

風がそよぎ、あたりを揺らした。

ハルナギは手を挙げて、来た道に足を向けた。


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リュオーレの物語は、静かに続いていきます。
第1話の最後に、各話への道しるべを置いています。

川の街リュオーレの物語: 第1話 橋守|湖上珊歩

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