【連載小説】アイネちゃん、隣に座っていいですか?④奏汰の一日
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叔父から謎LINEが来て、今夜は突然、妹の見合いがセッティングされていたようだった。そして謎の相手も、突然やって来た。
俺は酔っ払ってボンヤリした頭で、必死に状況を把握しようとしていた。
叔父は時折、それなりに頭がいいせいなのか、思い付きで突拍子もないことを言い出すから困る。まあ、愛音のことを相談したのは俺なんだが……せめて事前に話くらいしておいて欲しかった。本当に、全然知らなかった。
思い出したように、遥くんが小声で喋り出した。
「そうだ……あの人!僕いちど朝にテレビで見たことあります。なんか、すっごく頭のいい人らしくて、小難しい話の討論会に呼ばれてました。ちょっと、面白い人だったんですよね。何かが、ずれてて」
玲央が小声で返事をする。
「うん、俺も見た。うちの大学で教えてるんだけどさ……ねえ律、なんで白石先生来た?……あと先生さ、どうも頭に鉛筆刺さってるみたいなんだけど、言ってあげたほうがいいかな。ほら、あの右の髪の毛んとこ」
……ほんとだ。何で?
「マジで?……あ、マジだな。いつものことだけど。あの、なんかさ、さっき叔父さんから連絡きてさ。先生、叔父さんの部下でさ、代わりに来たんだ。愛音とお見合いするんだって」
「……はあ?!」
「……お見合い?!」
玲央と遥くんはほぼ同時に声を揃えて叫んだ。驚いていたようだった。そして二人は顔を見合わせた。それから、玲央は顎に手をやると、眉間に皺を寄せて何かを考えはじめ、遥くんはおでこに手をやりながら真顔で廊下の床板を見つめていて、それぞれになんだか、そう……狼狽しているようだった。
2人のその様子を見て、律が何故か少しニヤニヤしながら、今度は白石先生に声をかけた。
「先生、頭にエンピツ刺さってますよ。ほら」
ヘンテコだな。
律は先生の頭に刺さった鉛筆を、取ってやっていた。
「え……あ、すいません、またか。僕としたことが。恥ずかしい」
「それ、いつものトレードマークですよね?先生の。授業で見てて斬新で面白いなって。さすが、夏野菜…….あ、いえ、なんでもないです」
「はあ。よく指摘されてて……いやあ、考え事してるとどうも、癖で刺しちゃうんですよ。こないだも海外の学会で登壇した時にね……」
「えっ、海外でですか?アハハ、面白そう!聞きたいその話!」
律は楽しそうに、玄関先で座って靴を脱ぐ白石先生と、談笑しはじめた。
……さっき、遥くんが来るにあたって、律と玲央が度々こそこそと話しているのを、俺は聞いてしまった。
玲央は、……どうも愛音のことを好いているらしい。知らなかった。昔から俺はそういう話には疎いのだ。そんなら早く言ってくれたら良かったのに。ただ、奴はまだ学生だ。愛音を任せるにはちょっと頼りないんだよな。もう少ししたら、社会人になるからいいのかもしれないけど……義兄として一生付き合っていくのに、玲央なら慣れていて、話はしやすい。しかし、大学で芸術を専攻しているあいつは、これから一体どんな定職に就く気でいるのか。きちんと妹を養っていけるのか。もし、ふたりが上手くいったとしても……芸術で大成するのは一握りの人間だ。玲央ならなんとかいけるのか。愛音をあてにしてヒモみたいになって、二人して路頭に迷うようでは困る。
……そして、きっと遥くんも、愛音に気があるに違いない。ああしてきちんと土産を持ってきたことといい、さっきの狼狽した様子といい、愛音と一緒にここへ付いてきたということは要するに、そう言うことなんだ。しかし、なんとなく見た目がチャラいな。まあ、社会人だし、礼儀正しくて優しそうで、いいやつそうではあるのだけど……。
それに、思いがけず白石先生まで来て、今夜は正直なんだか大変な状況になってしまっている。白石先生が教授になれば、経済力はまあ、ありそうだが……。
なんとなく、胃が痛い。
だが、願ったり叶ったりの贅沢な状況ではある。いつか誰かが貰ってくれたら…….まあ、愛音を必ず幸せにしてくれるのなら、俺は相手が誰でもいいんだが。
腕組みをしながら愛音の方を見る。しかし、妹は困惑しながら俺を睨んでいた。服につけたジェヒョン?だかのバッヂを掴んで引っ張りながら、ひそひそ話かけてきた。
「ねえ、お兄ちゃん。何よこれ。……どうせまた叔父さんと何かたくらんだんでしょ?またきっと余計なこと言ってさ。私知ってるんだから。さっき酒屋でも、おじさんとおばさんにからかわれたんだから!妹がズボラだって他人にベラベラ話すわ、勝手にお見合いとかセッティングするわ、最低、ほんと腹立つ、許せない」
妹は怒っていた。傷ついたか。やりすぎたか?まずい。
必死に弁解していた。
「ハハ……いやいやまさか。初めて聞いたよ、今」
「……ウソだね。信じらんない。OJも許せん」
「いやいやいや、ほんとだってば。見合いとか白石先生のこととか、今初めて知ったし。俺がぼやいてるの聞いて、叔父さんも色々心配したんだよ」
「ならやっぱり相談したのは事実じゃんか」
愛音は半ベソだった。
俺は、妹の涙には弱いのだ。
「……まあ……悪かったよ」
「絶対他にも言ってるな」
「いやいや」
愛音は少し赤い目で、さらにぷーっと膨れてむくれていた。焼いた餅みたいだった。律が言ってたの、わかるわ……しかし、自分の見合いが始まるかもしれない、と言うのに"推し"のバッジつけてんのはどうなんだ。外さないんかこいつは。……本人には自覚もその気もないんだな。まあ、そうだろうな……。
あー。お酒のせいか、頭がぼーっとする。
……"推し"か。推し、な。
……昼に、職場で弁当を広げていたら、愛音がLINEで連絡してきた。"職場の後輩を、連れてくる"と。そのLINEを見るなりなぜか、食べようとして箸でつまんでいたハンバーグを、落としてしまった。昨夜の夕食に、自分で作った残り物。ランチクロスがソースで汚れた。自分でも驚いた。あーあ、あとで染み抜きだ、と思っていたら。
「……あはは、奏汰くん、汚してるし」
粗相をしていたところへ、……真琴先輩がコーヒーを持って笑いながら近づいてきた。
ドキッとした。
タイミングが悪い。
「あっ……。はは……やってしまいました」
先輩は今日も綺麗だ。昔から変わらない。
ショートボブの髪に水色のシャツ、ベージュのパンツスタイルで、紺のカーディガンを腰に巻いていた。爽やかだった。
言うならば先輩が、俺の"推し"だった。高校の頃からずっと憧れだった2年上の真琴さんは、保健師さんになって、市役所でも先輩で、素敵だから職場の中でもやっぱり皆の憧れの的だった。しかし、いいないいな、と思っているうちに、あっというまに、年上の上司と結婚してしまった。1年くらい前の事。
そりゃそうだよね。先輩のファンは皆、悲しがっていた。
俺も正直、複雑だったが……いいんだ、憧れの人は憧れのままで、幸せになってほしい。"推し"の幸せが、俺の幸せなのだ。
「……今日もお弁当、自分で作ったんでしょ?毎日すごいよね。偉いねえ」
朝からバタバタと頑張っていた俺の心に、昔から優しい先輩のその言葉が、染みた。
「まあ、残り物ですけど」
「立派だよ……私もさ、作るんだけど実は苦手でさ。"できたよ、持っていきな"って、たまにでもいいから、お弁当作ってくれるような人と結婚したら良かったな、って、思うよ。だから、奏汰くんと結婚した人は幸せになるね。間違いない」
「そうですかね……僕も誰かに作ってほしいですけど。はは」
「あら、奏汰くんに作ってくれる人いないんだ。意外。モテそうなのにね」
「いやいやまさか……そんなのいませんよ。色々忙しくて」
「そうか。それは勿体ないなぁ。…….はぁ。……そんなら、いっそ私が貰ってもらえばよかったかもなあ。早まったかも、結婚。……そのハンバーグ美味しそ」
また、ドキッとした。
何だろう急に。
「……はは……何言ってるんですか、幸せな人が」
「そう?そう見える?」
「見えますよ」
「……そっか。……でも、色々ありますよ、私も」
「えっ?」
「……なんて冗談。ふふ。しっかり食べなよ。じゃね、またね」
そう言うと、真琴さんは手を振って苦笑いしながら去っていった。……その顔が、俺にはなんだかとても……淋しそうに見えて。
……先輩はなんで急に、あんなこと言ったんだ。
「……ねえ。……チェリー。……チェリーってば!……ちょっと!……奏汰!」
「……おぉ、?」
走馬灯のように今日の記憶がよみがえってきてしまい、ボンヤリしていたら、横から腕をトントン叩かれた。
「おぉ?じゃないよ、先生案内しなよ!ほら早く!」
「……あ、……うん」
トトちゃんにそう言われて、慌てた。
「……結局ね、そのあと頭からペンが3本と、無くしたはずのネクタイピンが出てきましてね。教授に、"君さ、白柳徹子さんじゃないんだから、もう頭からもの出すのやめな?"って静かに言われまして……」
「あはは!エンピツだけじゃ無かったんですね。ウケるわ~」
「あ………すいません先生、じゃあ、こちらへどうぞ」
「あ、お兄様、すみません。律くんと盛り上がってしまいました。では、失礼いたします」
「いえいえ、お気になさらず」
……と、言うわけで、とりあえず今みんなでリビングにいる。
し-んとしてる。
なんだか複雑。楽しい会のはずだったのに。
やっぱりOJに余計な話しちゃったかな、俺。
やっぱりちょっと、胃が……。
すると、白石先生が沈黙を破った。
「わあ、これはすばらしいお造りですね!教授から伺いましたが、これを、お兄様が?感心いたしました。そのほかのお総菜も美味しそうで!」
「ああ、はあ、まあ。お総菜はほとんど、トトちゃんですけど。どうも……召し上がって下さい」
刺身の会とは聞いていたんだな……。
「あ、申し訳ありません。私、魚介が苦手なんです。幼少期は、近所の水族館の魚が、唯一の友達だったので」
「……あ、そうですか……」
だからトンカツ持ってきたのかな……すると白石先生は、玲央に気付いたようで声をかけた。
「…….あ、君は、葉山律くんと仲良しの、芸術学部の美男子、王子レオくんではないですか?こんばんは。僕は、芸術は好きなんですが、君は、絵も彫刻も、いい作品作りますよね。こないだの学内展では君が作った服も、拝見しました。斬新で、実によかった。君が着た写真も見たけど、かっこよかった。僕、ファンですよ。作品、ひとつ欲しいくらいです。着てみたい。……なんと言いますか、作品の根底に、万物への愛が、溢れてますよね」
「へえ、玲央くん芸術学部なんだ。服も作るの?モデルもやるんだ、やっぱり。すごいな。見てみたいかも」
遥くんは感心しているようだった。
「……それは、ありがとうございます。……でも先生、ちがうんです。僕は王子じゃありません。一条です。一条玲央です。その呼び方マジでやめてください」
ああ。玲央はイケメンだからな。大学では、女子たちから"レオ王子"と呼ばれているらしいことは、律が言ってたな。
本人は嫌なんだ。俺は羨ましいけどな。
「……あ、すいませんでした。違うのですね。君の作品の前で、女子学生達が皆で"王子、王子"って騒いでいたので……あれ、君は学内で、"王子くん"ってよばれてませんでしたっけ?めずらしい名字で、それでいて王子様のような君にぴったりだな、と思って、私はそのように記憶していたのですが」
……いや、名字じゃないだろそれは。
「あの、……すみません、凄く…….苦手なんですそれ。ほんとトリハダ立つんです。誰が言い出したのか……」
「ああ、王子というのは、御本人が意図されておられない呼称でしたか。……それは、僕としたことが。確認不足でした……。すみません。……一条玲央くん。承知致しました。これで正しく認識致しました……申し訳ない。……それで、そちらの方は?」
「あ、僕は九条遥です。はじめまして。愛音さんの後輩です。今日は、葉山家にお招きいただいてます。……ああ、叔父様は、大学の先生をされていたんですね……知らなかった。すごいですね、愛音さんのご家族って」
「……ああ、九条くんはご存知ではなかったのですね。どうも。葉山教授の部下の、白石です。…….ところで、一条と九条、なかなか高貴なお名前ですが……このお二人には何か縁を感じますね。ご親戚か何かなのでしょうか。……ちなみに、九条くんはご実家や血縁の方が京都の方だとか、ありませんか?」
「ああ、ええと、祖母が京都にいます……」
「……あれ?俺のばあちゃんも京都出身らしいよ」
「えっ、本当に?玲央くんも?驚いた」
「そうですか……それは実に興味深い。もしかして一条くんも王子ではないけれど、ご先祖様はそれに近い身分の方かも分かりませんね。お二人ともまた、詳しく聞かせて下さい。……あ、もしかしてあなた方も、葉山教授に呼ばれたのですか?……属性の異なる男子を3名も呼ぶなんて、婚活パーティーのつもりなんでしょうか?教授も人が悪い。言うならばまるで愛音さんは"かぐや姫"のようですね。これから我々3名は無理難題でも言い渡されるのでしょうか……そう考えますと、我々は今、葉山教授のチェスの駒にでもなっているのか……まさかこのパーティーも教授の実験装置の1つなのでは?……そうですね、人間をある一定のストレスのかかるカオス状態に置き、防衛本能を解除させ、無理難題を解決させる過程で、本音や隠れた個性を引き出そうとかそう言った…….そして、そのような理由から僕は今、1つの結論を導き出したのですが、あの……もしかしてどこかにモニタリング部屋がありませんかね?このお宅。ありがちだ」
「………はい?」
遥くんは不思議そうな顔をしていた。
そりゃそうだ。
なんだか変わった人だよ、この人。
「恐れ入りますが、お兄様。このあたりに……カメラのようなものが、設置されてはいないでしょうか。僕は先程から、教授にモニタリングされていないかが、どうも気になってしまいまして。教授はいつもやり手なので」
……OJ、ふだんどんな鬼畜な研究してんだよ。
「……そんなもんないですよ。それに叔父は忙しくて、最近家に来られてないので、安心して下さい。……だけど、僕はまだ別にあなたのお兄様ではないですけどね……はは」
「いいのよ!……あ、すいません、うふふ。あ、それじゃあったかいうちにトンカツ切ってくるね!キャベツまだあったな。先生、いただきますね。ありがとうございます」
「あ、はい、ぜひ」
トトちゃんはなんだかやけに見合いに乗り気だな。俺はちょっと苦手かなぁ、この人。
「そうですか……モニタリングされていないとしたら杞憂でした…….ところで、一条くんと九条くん、先程のそのお祖母様がたのルーツですが、京都のどのあたりか、具体的に地図を見ながら……」
白石先生はカバンから地図を取り出して開きはじめた。玲央と遥くんはちょっと困っていた。
すると、キョロキョロ辺りを見回して、全員が困惑している様子に気付いたのか、律が口を開いた。
「先生、先生!……今日はそう言う小難しい話はやめましょう。今夜はうちは給料日の刺身の会なんです。……トンビや犬………や、……そう、たとえ、……猫だったとしても、仲良く楽しくやれるような、そんな素敵な会にしたくて、やってるんですから」
よく言った律。それでいい。
さっきから何言ってんのか全然、良く分かんないとこもあるけども。
「……しかし、お見合いではないのですか?僕は自己紹介も兼ねて、愛音さんに今このお話をしようと……」
その話、愛音には刺さらないと思うけどな。
好きなのはジェヒョンだし。
「……お見合いも、気にしなくていいですよ。叔父が勝手に言い出しただけなんだから。今日はただ楽しく飲んで食べて行って下さい。餅も……あ、姉貴も、急に言われて、今日はちょっと動揺していて。それにこんな、ジェヒョンですし」
律は愛音のバッジを指差しながら言った。
「……餅ってなによ」
すると、白石先生はあっけらかんと答えた。
「……あ、そうでしたか。なら、やめておきます。今回はあくまで仕事の一環ですので。私には私の自由がありますから。やりたいことが沢山あるので、見合いや結婚などは、実のところまだ私には必要ないのです。ははは」
……いいんかい。
愛音、ファーストインプレッション、だめだったのか。はは。可哀想に……。
愛音はそれを聞いて気に食わないようだった。
ああ、そんなにブーたれるな、妹よ。
でも、少しほっとした。
玲央と遥くんはほっとしつつも、……なんだか複雑な表情だった。
妹は仕事は向いているようで、何とかうまくやっているようだ。不思議でならない。
まあ家ではとにかく基本ズボラで何もしない妹なので……最近休みの日は頭をちょんまげ様に縛って、グレーのスゥエットでソファに寝転がり、黒豆煎餅を齧りながらアイドルのLUMOS?だかなんだかの、動画やDVDを「アハハハ」とか笑いながらひたすら見ている。やっかいなのは面白いから、と言って、皿洗いなどしている俺に一緒に見るように勧めてくることだ。こっちはそれどころではない。休み返上で家事と……もはや、育児だ。いよいよ小言の1つも言いたくなる。あれ、……確かこないだは野球選手の追っかけじゃなかったか?……お陰さまで妹は、何年も浮いた話の1つもない。
妹は一般的に家事といわれるもの……炊事も洗濯も掃除も苦手だ。やっても正直、下手くそだ。向いていない。本人も分かっているのだろう。けど、最近は部屋の掃除と自分の洗濯だけは一応、本人にやらせるようにしている。
律はまあ、回りを俯瞰して見ていて、気が回るというか、割としっかりしたところがあるので、料理もまあそこそこやるし、なんとか自立していけそうだ。しかし愛音は……。このままいけば、一生自立しきれない妹を家で世話しながら、自分は独身のまま中年を迎え、2人きりで寂しく老後を迎えていくのではないか、というリアルな恐怖を、俺はうっすら感じはじめている。これから愛音と2人で生きていくとしても、恐らく俺が先に死ぬだろう。
いったい俺のことは誰が世話してくれるのか。ちゃんと葬式は出せるのか。律がやってくれるにしても、そのあと、妹は一人で路頭に迷いやしないか。
きっと律には律の家庭ができるだろうし。
きっと、愛音は婆さんになって、律の家に引き取られても、あの調子では、けむたがられるにちがいない。それでは妹があまりにかわいそうだ。俺はそれを望んではいない。
妹はかわいい。
しかし、ちゃんと自分の力で、自分の足で生きていってほしい。
寂しくないように、いてほしい。
そう、それに、俺にも、俺の人生があるのだ。
最近、小学校からの付き合いの信之助が、マリーさんと結婚したのにもちょっと感化されているのは否めない。……べつに、具体的な話はないけど。
我が家には愛音に「ちゃんとしなさいよ」と小言を言うような父さん母さんがいない。だから俺が言ってやるしかない。ちょくちょくお世話になってる島酒店のおじさんおばさん、それからOJこと、父の弟の裕之(ひろゆき)叔父さんなら、父や母の代わりに愛音に何か一言、言ってくれるかもしれない、と思って相談していた。それから、何でも話してる親友の信之助とトトちゃんにも。
もし、将来愛音が結婚したら、俺は一人でひっそり、"自分だけのために"丁寧に和食を作って、食べて、お祝いしようと思う。もちろんお魚は欠かせない。焼き魚かな、いや、刺身かな。やっぱり。
その時の味噌汁に使う味噌は、もう決めている。そして愛音の結婚式では、カラオケでとっておきの歌を歌ってやるのだ。曲も、もう決めている。……それは、俺が愛してやまないバンド、"スパッツ"の曲ではないのだ。
なのに……怜央が愛音を好きだと分かったことも、愛音が後輩の遥くんを連れて来たことも、今、白石先生が現れたことも、……実際俺はなんだかんだ言って、複雑な心境だった。
やっぱり俺は動揺しているんだ。
彼氏を連れてくると言われた父の気持ち、花嫁の父の気持ち、かぐや姫の翁の気持ち……何となくわかる。
さっきは砂糖と塩、間違えるし。
高校生の時の、"陽人くん"以来だな。こんなのは。
「皆、おまたせ、ほら、美味しそうなトンカツ!切って来たよ。ご飯も炊いてあるからね、食べたい人は食べな。ワカメとお豆腐のお味噌汁と、タクアンもあるよ」
トトちゃんが、白石先生の持ってきた立派な分厚いトンカツを切り分けて、キャベツと一緒に持ってきた。
トトちゃんすまん、せっかく切ってきてくれたけれど……この話はどうやら、破談になるだろう。
「すみません、僕昼から何も食べていないのでお腹が空いてしまいまして、早速いただきますがよろしいですか」
「はい。どうぞどうぞ。昼からですか……食わないで何してたんですか一体」
「学内で、人間観察をしておりました」
「……そうですか」
「あ、俺も食べたい。ソースソース。白ごま擂 らなきゃ」
律がテンションあがり気味に、ごまを擂る真似をした。
「ああ、そこに小さい擂り鉢用意しといた。もう入れといたよ、ごま」
「さすがトトちゃん!玲央も遥くんも食おうぜ」
「……トンカツに罪はない。食べる」
「すいません……僕は、お酒すすんじゃってもうお腹いっぱいなので、やめときます」
「わぁー♡うれしい!いただきます!うわ、サクサク!それにお肉がジューシー!遥くん、おいしいよこれ、食べた方がいいよ」
愛音は誰よりも早くトンカツに手を出した。情けない。たしかここのトンカツはこいつも好物だったな。トンカツのおかげで、どうやら白石先生に袖にされたらしいことは、もう忘れたらしい。
「……愛音さんは食べっぷりがいいですね。僕は元気出ます。たくさん食べる人好きです」
遥くんはニコニコしながら、嬉しそうに愛音を見ていた。
「うん。普段もすごくよく食べるよ、愛ねえは」
玲央は茶碗を持ってトンカツとご飯をモグモグ食べながら、ここぞとばかりにマウントをとって、得意気だった。遥くんは少しつまらなそうにした。
……まあ、愛音を思うもの同士、仲良くやってくれ。やっぱり、まだ認めないけどな。
トトちゃんが聞いた。
「遥くんは、普段あんまり食べないの?」
「いや、量は結構食べるんですけど、……納豆とか漬物と、ご飯があれば、それで食べちゃう感じです」
「へえ、なんか、男らしいね。作る人は楽でいいかもね。ふふふ」
「……白石先生も、よく食べてますよね。学食で見かけると、一度に2、3人前頼んでません?」
「ああ、律くん。見られてましたか。はい、僕は沢山食べる方で。あ、あと何故か僕はよく味噌汁とかをこぼしてしまうんで、予備の意味もあるんです」
「だからか!へえ、意外。先生頭いいのに」
「……悩みですね。服とか汚すこともあるんで、洗濯が大変で困ってます。苦手で。けどクリーニング代もばかになりませんし……しかし、このトンカツは旨い、お姉様のこの味噌汁、すごく合いますね。旨いです」
「あの、私はお姉様ではないですけど……幼なじみです……椎名といいます」
「……あ、お兄様の奥さまではないのですか?てっきり、愛音さんの義理のお姉様かと」
「……まあ、でもそんなもんですよ?ねえ2人とも。先生、こちら美月姉ちゃんです」
律がそんな風に言うので、俺とトトちゃんは「いやいやいや……」とほぼ同時に否定した。
トトちゃんは苦笑いしていた。
「そうでしたか、それは大変失礼いたしました…….はい、トンカツ、美味しいですよ、是非召し上がって下さい」
そう言うと白石先生はトンカツの皿を俺とトトちゃんの方に差し出そうとした。その拍子に、白石先生が使っていたソースの皿に先生の手がひっかかって、ガシャンと音がすると、なんとその皿が、空中に飛んだ。
「…….あっ!!!」
その場の全員が叫んだ。皿の中に入っていたトンカツ1切れとソースが、目の前でスローモーションになって、ひっくり返っていった。皿から飛び出したゴマ入りのソースは、波のようにゆっくりと弧を描いて飛んでいって……最終的に先生のほっぺたと、茶色いスーツのジャケットと、ネクタイとワイシャツにベタッと広がって、ついてしまったのだった。トンカツのほうは体操選手がバック転をするようにゆっくりと一回転して、味噌汁の中にボチャン!と着地した。……それはまるで芸術点を与えたくなるほど、美しい大回転だった。
みんなは口をあんぐりと開けていた。
「うわ、しまった。すみません……!また、シミを作ってしまいました……どうしましょう……」
白石先生は動揺していた。
「……あ、ちょっと見せて下さい」
遥くんがサッと立ち上がって、白石先生にジャケットとネクタイとワイシャツを脱ぐように促した。そしてテキパキとした様子でその汚れを見る。
「……あの、すいません、洗面所お借りしていいですか?あと中性洗剤と、要らない歯ブラシとタオルあります?……愛音さん、この汚れならすぐ落ちますよね」
「そうだね……ああ、あるよ。でもちょっと難しそう……素材が……」
「いや、きっと大丈夫です、僕、染み抜き得意なんで」
遥くんは、そう言ってゴムで髪の毛をハーフアップにキリッと縛ると、洗面所へ向かった。
……しばらく洗面所で水が跳ねる音がして、10分位すると、遥くんは戻ってきた。
「良かった。落ちましたよ、ほら」
そこにはまるでなにもなかったかのように染みが抜けて、ピカピカになった、白石先生のジャケットとネクタイとワイシャツがあった。
驚いた。さすが、スタイリストだ。
「……よし、これであとは乾かすだけです。もう少し待ってて下さいね、先生」
遥くんはニコニコしながら、白石先生にそう言った。
「…….あ、ああ。これはすごいな。助かります……ありがとうございました……」
律と玲央は目を丸くした。
「すげ……なんもなかったみたい」
「……プロだな」
その場にいる誰もが、遥くんの仕事に感心していた。……なんだか男らしくて、頼もしいな。
「さすが私の右腕……フフフ」
愛音は自分ではなにもやっていないくせに、得意気だった。……遥くんに申し訳なく感じた。
でも、愛音にそう言われて、遥くんは嬉しそうだった。
「いえいえ、これくらい出来ないと、仕事になりませんから。……愛音さん、ドライヤーとタオルもう1枚、貸してください。あ、白石先生、Tシャツ1枚で寒くないですか?……良ければ、律くんか奏汰さんの服、貸して差し上げたらいいかも……」
…….よく気づく。トトちゃんみたい。ケアが行きとどいている。
「あ、そうだね、気づかなかったごめん。先生背がでかいからな、……俺のでいいですか、先生」
「……ああ、すみません律くん。もちろんです……」
律は着替えを取りに行った。
「良かったですね、先生。ふふ。また汚さないように気をつけて下さいね。落ちついて動いたら大丈夫ですから。あ、それに、お顔にもついてるから拭かないと……テイッシュとかありますかね、あ、あった」
「あ、これもあるよ、はい。使ってもらって」
トトちゃんが気を利かせて、すぐにあったかいお絞りを持ってきてくれた。
「……あ、ありがとうございます!おお!こっちのがいいな。それじゃちょっとすいません」
遥くんはまずテイッシュでテキパキと先生の顔のソースを拭いてやっていた。
そんなことまで。やはり仕事柄なんだろか、……遥くんは気が利くな。でも俺ならああされたら、なんだかちょっと気恥ずかしくなってしまうかもな……。
彼と愛音が同じ仕事をしていることが、どうも府に落ちない。
「遥くん、優しいねぇ。世話好きな感じが、なんかちょっと奏汰に似てるかもよ。ふふふ」
様子を見ながら、トトちゃんが呟いた。
似てるのか?俺。
「……はい、きれいになりました。あとこのお絞りできれいに拭いてもらえば、バッチリです」
そういうと、遥くんはハイ、と言って先生にお絞りを渡して、また優しくニコッと笑った。
「……はあ。あ、どうもすいません。……ありがとう」
白石先生はされるがままに、遥くんとトトちゃんを交互に見ながら……なんだかぼーっとしていた。
【♪今日のBGM♪ 妹/かぐや姫】
♡今回は昭和の歌謡曲の名曲。もし将来、愛音ちゃんが結婚したなら、奏汰くんはこんな曲を歌ってあげるのかもなあ、なんて思います。
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*この物語はフィクションです。
実在の人物・団体とは一切関係ありません。
© 2026 Lulu Mukoda
