森のくまさんの話
以前、私はnoteで「どちらにしようかな」の話を書いた。
地域によって続きの歌詞が違う。
世代によっても違う。
家族内ですら違う。
あの記事を書いたあと、コメント欄や頭の中でずっとザワついていた。
そうだ。
まだ書いていないものがある。
子供時代の文化遺産。
いや、文化汚染と言ってもいい。
替え歌である。
しかも、ただの替え歌ではない。
子供たちが謎の団結力を見せ、全力で下品さへ走っていた、あのジャンル。
そう——
森のくまさん問題である。
本来の森のくまさんは平和そのもの
まず確認しておきたい。
本家「森のくまさん」は、とても平和な歌だ。
ある日
森の中
くまさんに
出会った
花咲く森の道
くまさんに出会った
なんという優しい世界だろう。
事件も起きない。
爆発もない。
裏切りもない。
株価暴落もない。
ただ森でくまさんに会っただけである。
令和のコンテンツ界では逆に珍しいほど穏やかだ。
しかし子供たちはそれを許さなかった
私たち子供は、そんな平和を見逃さなかった。
「このままでは終われない」
そんな使命感があったのだろう。
そして歌詞はこう進化する。
あるひんけつ
森のなかんちょう
くまさんにんにく
出会ったんそく
花咲く森のみち◯ぽ◯
くまさんに出会ったんそく
……冷静に見てほしい。
語呂合わせへの情熱だけで突っ走っている。
意味はない。
品もない。
知性も怪しい。
だが、勢いだけはある。
子供の笑いとは、勢いで成立するのだ。

妻バージョン、まさかの別ルート
例によって妻にも聞いてみた。
すると妻もスラスラ歌い出した。
あるひんけつ
もりのなかんちょう
くまさんにんにく
出会ったんそく
花咲く森のみち◯ぽ◯
くまさんに出会ったまたまきんたま
最後だけ急カーブである。
いや待て。
なんでそこだけ急に新技を出してくる。
我が家の妻は、普段ご機嫌で笑っている人だが、こういう時に時々底知れぬ才能を見せる。
子供世代、下品がアップデートされる
さらに帰省していた子供たちにも聞いてみた。
すると、息子と娘は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
嫌な予感しかしない。
そして始まった。
あるひんけつ
もりのなかんちょう
くまさんにんにく
出会ったんこぶ
花咲く
もっこり
◯ん◯ん
ぶらぶら
◯ん◯ん
き◯たま
どっこいしょ
くまさんに出会ったまたまきんたま
……長い。
そして情報量が多い。
私たち世代が単純な下ネタ一本槍だったのに対し、現代版は構成・緩急・リズム・展開力まで備えている。
もはや作品である。
YouTubeか。
SNSか。
どこで学んだ。
教育の敗北か、進化の勝利か判断が難しい。
↓この動画の替え歌が一番近いらしい
かたつむりまで犠牲になっていた
ここで妻が思い出したように言った。
「かたつむりの歌もあったよね」
通常版はこちら。
でんでんむしむし
かたつむり
おまえのあたまは
どこにある
つのだせ やりだせ
あたまだせ
これも穏やかだ。
優しい。
自然と対話している。
だが妻世代では、これがこうなるらしい。
でれんでれん
むるしむるし
からたらつるむるりん
おろまらえれのろあらたらまらはら
どろころにりあらるん
つるのろだらせれんやらりるだらせん
あらたらまらだらせん
呪文である。
かたつむり、どこ行った。
もう召喚術の詠唱にしか聞こえない。
子供時代の笑いは意味より温度だった
今思えば、なぜあんな歌で笑っていたのかわからない。
意味はない。
整合性もない。
教育的価値もゼロに近い。
それでも、みんなで腹を抱えて笑っていた。
通学路で。
公園で。
帰り道で。
子供時代の笑いは、内容ではなく誰と笑ったかだったのだと思う。
くだらないことを全力で共有できる時間。
それが最高だった。

大人になってからわかること
大人になると、効率だの意味だの成果だのと言い出す。
何の得になるのか。
時間対効果はどうか。
再現性はあるのか。
うるさい。
子供の頃の私たちは、そんなこと一切考えていなかった。
ただ、
「なんかおもしろい」
それだけで爆笑していた。
それって、実はかなり強い才能だったのかもしれない。
最後に
今もし誰かが本気で、
「森のくまさんの替え歌、歌える?」
と聞いてきたら、私は迷わず歌うだろう。
そして家族にまた引かれるだろう。
でもいい。
くだらないことで笑える人間でいたい。
人生は時々、真面目すぎる。
だからたまには、
あるひんけつ
森のなかんちょう
くらいで、ちょうどいい。
