ベイトソンに試される506-『精神の生態学へ』第5篇 認識論と生態学 6 「第5篇へのコメント」-
原注(★1) 巨視的に見て世界が心的特性を持つからといって、それを構成する最小粒子が精神特性ないしはその可能性を持つということにはならない。この点でわたしは、サミュエル・バトラー、ホワイトヘッド、テイヤール・ド・シャルダンと意見を異にする。わたしの見る心性とは、複雑な関係性 complex relationshipのみが持つ機能である。
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今回落書きするのは第5篇を総括する「第5篇へのコメント」である。最後の第6篇には「コメント」の章はないので、『精神の生態学へ』という本では、これが総括の役割を果たしているかもしれない。というのも、この章は、1つ前の論考の「形式、実体、差異」(1970)へのコメントになっているように見えるからだ。「形式、実体、差異」は、ベイトソンも認めるようにこの本におけるベイトソンのステップの総括的な論考だった。
その「形式、実体、差異」後半に、「第5篇のコメント」に関わるベイトソンの重要な立ち位置が示されている。この論考では、精神の「超越」性を批判し、その「内在」性について論ずる一貫した姿勢で、「精神の生態」という多元的な関係ネットワークが検討されたのである。この「コメント」に入る前に、そのような立ち位置から1970年当時の状況に対するベイトソンの危機感迫る引用部分をあげておく。(前回の「形式、実体、差異」への落書きでは引用しなかった部分である。)
神を外に出してその創造物と向かい合わせ、そのうえさらに自分のことを神の似姿として信じるなら、自分はまわりの事物の外側にいて、それに相対するように存在すると思ってしまうのも道理です。精神は完全に自分の所属するものに思え、まわりは「心ない」、したがって道徳的・倫理的な配慮をする必要のない世界だと思えてくる。そこから何をどう絞り上げようと自由だ、と。自分の生存を支える単位は自分であり、あるいは家族や同族のグループであり、まわりの世界、他の社会的ユニット、他の種族や野獣や草や木と対抗しながら存在しているのだと思ってしまう。
そんな考えで自然に対している者たちが、高度なテクノロジーを手にしたら、生存の可能性は地獄の雪玉ほどのものでしょう。憎しみの生みだす死の兵器で自滅しないまでも、爆発的に膨れ上がっていく胃袋で、この惑星を食べ尽くしてしまうに違いない。世界は有限の材料からできているのです。
いま申し上げていることが正しいとすれば、思考の根本的な組み立て直しが必要です。自分とは何か。他者とは何か、これは面白がっていられることではない。事態は急を要するところまで来ているのであります。サイバネティクス以前の前提----産業革命期に特に強調されまた強化され、ダーウィン的な生存ユニットを正しいとするような旧式の前提----に乗った行動を続けていれば、その誤りを自ら帰謬法によって証明する日はそう遠くないでしょう。20年後かもしれないし、30年後かもしれない。世界の一方の陣営諸国の滅亡どころでは済まされないカタストロフィーがわれわれを襲うまでに一体どれだけの時間が残されているのか。今日われわれにとっての最大の課題は、新しい思考を身につけることであります。これは簡単なことではありません。
ベイトソンにとって「神」は「精神」に置き換えられうるものだった。そう考えて引用を読むと、精神を外在化し、人間に超越すると考えるようにすると、「精神」は対象として捉えられる。さらにヒト自身をその「似姿」として位置づけると、<自己プラス環境>において「生存ユニット」をなすはずのヒトという種は他の生物、ひいては生きる環境から自律している、と思い込むのだ、とベイトソンは解釈する。
表面的には、西洋文化の根底にあるユダヤ=キリスト教批判に見える。が、対象を一次的とし関係を二次的な位置に貶めてきた思考習慣そのものへの批判、というさらに一段階抽象化された視野からベイトソンは捉えているように思える。というのも、関係の知を貶めるこの習慣が「産業革命期に特に強調されまた強化され、ダーウィン的な生存ユニットを正しいとするような旧式の前提」に及ぶからである。
サイバネティクスを通ったベイトソンからすれば、関係の多様さを対立と競争の関係のみに単純化しすぎるこの思考習慣が、「高度なテクノロジーを手にしたら、生存の可能性は地獄の雪玉ほどのもの」になるとされる。この辛辣な比喩には、当時すでに進んでいた環境破壊の現実が背景にあることか示されていると理解できる。
以上のベイトソンの姿勢と当時ベイトソンの現状を踏まえて、「第5篇へのコメント」の落書きへと移りたい。
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この章は『精神の生態学へ』の中で最も短い章で、邦訳でも1500字に満たない。さらにキーワードが「内在」という語一つに絞られている。それゆえテーマは「精神の生態」の「内在」性となる。「内在」は、「形式、実体、差異」で特に強調され展開されたワードだった。では、冒頭を引用する。
第5篇を締めくくる「形式、実体、差異」に至って、本書のこれまでのところで述べてきた多くのことがらが、1つの大きな理論的枠組みの中に収まってきたようだ。すなわち、われわれの宇宙は、物理的に決定されているだけでなく、それに加えて (そしてつねにそれと相伴うかたちで) 心的にも決定される----これまでの論は、結局この点に帰結するものだった。「心的決定」 mental determination といっても、超自然的な要素を科学にもちこもうというのではない。世界を巨視的な視点から見たとき、そこには必ず心的な特性が現れる、ということだ。(★1) これは超越者から与えられる決定ではなく、内在する immanent 心的決定である。宇宙の中の生ある部分、あるいは生き物を含んだ部分では、この決定性はことに複雑で顕著に現れている。
上の引用で注意したいのは「心的」mentalという語である。これはベイトソンの用法では、「精神」mindと同義と考えてよい。つまり情報伝達過程であり、関係を伝達するプロセス全体を指す。「形式、実体、差異」がその概念の吟味にあてられ、これまでの歩みをベイトソン自身が再確認というかようやくのこと自覚するに及んだことが表明されている。
一方で、冷戦下でのベトナム戦争に対する反権威的な流れが、科学技術の権威性への反発を生んで「超自然的」なオカルト的立場を生み出している流れに与することではないと釘も刺している。サイバネティクスを通して関係の科学を構想するベイトソンに、この流れから「グル」のレッテルを貼って集まる者たちが多かったのは事実である(以前の落書きでも書いた)。

エピグラフに挙げたのはこのパラグラフにあるこの章唯一の「原注」(★1)である。「最小粒子が精神特性あるいはその可能性を持つ」というのは、例えばテイヤール・ド・シャルダンなら、「内面的な意識」を指しているのだが、ベイトソンはシステムから見て意識をサブシステムの一部と捉えている点が異なる。つまり前者はその核心に精神的な要素としての意識を見出そうとするのに対して、後者はそれを派生したものと見なしているのである。
テイヤール・ド・シャルダンにとって、最小単位としての「精神」はバイオスフィア(生物圏)からヌースフィア(叡智圏)へとヒトが進化する基点となった。が、ベイトソンにとって「精神」とは要素に還元されるものではない。「複雑な関係性 complex relationshipのみが持つ機能」なのであり、ヒトも他の生物と同じ「精神の生態」の中にある。
それゆえ、この派生したサブシステムを軸とした文化が、それを支えるはずのシステム自体を排除していくような自殺行為に対して、システムを含めた「巨視的」な観点から警鐘を鳴らすことになるのである。ここでポイントとなるのが西洋文化が思考習慣に組み入れた「精神」の超越性に対する「内在」性の強調である。
しかし西洋文化では、超越する神という前提があまりに強力であり、思考の大きな部分がその前提に根を張っているため、内在的な言葉で世界を捉え直すことがなかなか容易ではない。ダーウィンでさえ、ときに<自然選択>が、超越性と目的を持つ存在であるかのように語っているのだ。
そんなわけで、超越を信じることと内在を信じることの違いを、少々極端なかたちで提示しておきたい。
超越する心性または神性は1人の全知の存在として思い描かれる。<彼>の得る情報は、地上をめぐる系路とは分離したチャンネルを通して得られる。地上の1つの種が、エコロジーを破壊するふるまいに耽るのを見ると、この<心>は、怒りと悲しみをもって、戦争や疫病や汚染や死の灰を送り届ける。
内在する心性も、最終的には同じ結果をもたらすものだ。ただしこちらは怒ることも悲しむこともしない。現象に内在する以上、超越的な伝達チャンネルによって事態を把握し自らの行動を決定することができない。したがって分離した感情をもつことも、評価のコメントを下すこともない。より大きな決定のしくみが、内在者と超越者とでは違っているのである。
サブシステムの一部としての意識の力の拡大とシステム自体へのその力の行使は、「超越性」をその起動因としているとベイトソンは考える。それによって外在化というこの思考の働きが、自己と対象を切り離し、対象へ向かう目的因を作り出し、「目的意識」をテクノロジー開発競争に乗せて、「進歩」という名の下にシステムを破壊してきたのだ、と。(「目的意識 対 自然」、「目的意識がヒトの適応に及ぼす影響」の2つの論考を参照。)
超越する精神(「心性」または「神性」)は、人格を持つゆえに「怒りと悲しみをもって、戦争や疫病や汚染や死の灰を送り届ける」。するとヒトは天災や人災の原因は、どこか自分の世界と切り離されたところからくるように思い込めてしまう。一方、内在する「精神」も天才や人災を起こすことには変わらない。関係のネットワークは安定しているのではなく変動しているからだ。
が、「内在」する精神においては、ヒトの側にも偏在しているゆえに、人格が与えられていない。よって、ヒトが慣れ親しんだ対象認知や原因の特定、問題の解決のような単純な対処が困難なことは確かである。その反面、人格を与えられた精神(神)を欺くようなこともできない。それはヒトの側にあって他と密接に連動しているからだ。それが「内在」と呼ばれる理由である。
聖パウロはガラテア人への手紙 (第6章) で、「神をあざむくことはできない」と述べているが、その言葉は内在的精神にもそのまま当てはまるだろう。内在的精神は、復讐することも罪を許すこともない。言い訳は無用。それを「あざむく」ことは不可能なのである。
しかしわれわれの心が----道具や行動のすべてを含めて----より大きな心の一部分であるということは、われわれ自身の矛盾や混乱が、この大きな心のコンピューティング機構に「狂い」をもたらすことを意味する。われわれという狂気を含んだ内在的精神は、それ自体狂気に落ちる危険にさらされる。巨大なテクノロジーを抱えるに至ったわれわれは、今やこの大きな心の中に狂気を生みだす能力を身につけたのだということを自覚しなくてはならない。
この「内在」する「精神」は、「コンピューティング機構」とも呼ばれる。というのも、この「精神」は、「差異を作る差異」つまり「情報」でできているからであり、情報という単位は「0/1」のような関係を表すセットとして捉えることができるからだった。(「形式、実体、差異」参照。)
もちろん、その「機構」mechanismの中にヒトも他の生き物たちも属しているのだから、誰かが「あざむくこと」があれば全体に「狂い」が生ずるのは目に見えている。キリスト教を普及させた情報伝達の使い手パウロの言葉を出して(「ガラテヤ書」を参照)、超越する神ではなく内在する神=「精神」の本性を語らせる上の引用の最初のセンテンスは、多少アイロニカルなユーモアすら感じられる。
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もちろん、この「コンピューティング機構」の「狂い」とは、サブシステムの一部を拡大し、技術開発に奔走して「戦争や疫病や汚染や死の灰」を別の誰かの原因にすり替えてきたヒトという種の傲慢と不遜にあるのは、意識の権限を狭める「芸術」的な関係の知に「謙虚さ」を見ていく第5篇の大事なテーマだった。
このような知の学習や伝達をどうすべきか、という議論は『精神と自然』(1979)や『天使のおそれ』(1987)の課題となるのだろう。が、『精神の生態学へ』に関して言えば、「精神」の「内在」性を明確にしていくステップ(段階)を踏んできた試行錯誤の過程が、これまで通読してきた読者にも実感できたはずである。
とすれば、関係の知の学習、またはベイトソンの学習理論に倣うなら「学習 Ⅲ」と「学習 Ⅳ」へステップする手前に、「内在」する「精神」が「偏在」する世界を「生態」という概念を用いて検討する余地が残っている、ということになる。この「コメント」の最後は以下の1行で締め括られている。
本書最終部では、この大きな精神病理プロセスのいくつかを考察していこう。
「内在」する「精神の生態」は、いわば「コンピューティング機構」の「狂い」、つまり「この大きな精神病理プロセス」のいくつかのケースとして扱われる。最後の第6篇で、ベイトソンは精神医学領域で統合失調症における病理の問題を検討して構想した学習理論を「精神の生態」に拡張して検討することになる。
ちなみに「最終部」とされる第6篇「精神のエコロジーの危機」には、4つの論考が収録される。
タイトルは以下の通りである。
1.「ヴェルサイユからサイバネティクスへ」
2.「エピステモロジーの病理」
3.「環境機器の根にあるもの」
4.「都市文明のエコロジーと柔軟性」
ヒトという種全体の従来の思考習慣は、『精神の生態学へ』の最後では、「精神病理プロセス」としてその姿を表す。もちろんこの「精神」は、精神医学において個人に分割されていた「精神」と異なり、「生態」全体に「内在」する情報伝達過程として捉え直されていることは容易に予想できるだろう。
