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608号室 ー 33歳、遅すぎる反抗期 ー

冷蔵庫に手をかけると、
そこに映る顔が、608号室の母に見えた。

「ママー!」
娘が足にまとわりついても、にんじんを切る手を止めなかった。
息子が指差す動画に、眉をひそめた。

パタン。
冷蔵庫に背を向ける。
出汁パックを鍋に放り込み、火をつけた。

33歳、冬。





一人っ子の私は、いつも母と一緒にいた。
クリスマスにはケーキを焼き、夏休みには隣で工作をした。

高校生になると、一緒に服を買いに行き、夜中までテストの問題を出してくれた。
大学生になっても、終電に駆け込んででも、家に帰った。

公務員になってからは、両親を旅行に連れて行き、妊娠してからは「近くに住まない?」と誘った。

母は、半年と経たずに引っ越してきた。
息子が産まれてから、母は毎日のように手伝いに来た。




でも。

母が来る日には、コンロの油汚れがやたら気になった。私は席を立ち、ボウルに卵を割る。
「ママ、上手ね〜」
やっと歩きだした息子に、母が笑いかける。
ボウルを洗い桶に入れると、卵液が広がり、水が濁っていく。



実家でマグマグを洗っていると、母の声。
「もう、ちゃんと見といてよ」
リビングの父が、こけて泣く息子の前で、立ち尽くしていた。
茶色い泡が、排水口に吸い込まれていく。



「手伝いに行こうか?」
母からのLINEに既読をつけずに、朝ごはんの準備をはじめる。
「今日は、大丈夫」
ようやく送ったのは、昼を過ぎてからだった。





大阪の片隅の、3LDKのマンション。
608号室で育った。

広い窓からは、町工場の煙と、果てしなく続く瓦屋根。
リビングには、2人がけの薄緑のソファと、葉っぱ模様のベージュのカーペット。キッチンには、毎晩ピカピカに磨かれるコンロ。


薄緑のソファは、母と私でもういっぱいで。
少し離れたテーブルで、パサリと新聞を開く父の咳払いだけが聞こえる。

テレビの下には、父が突然買ってきた最新のDVDプレイヤー。
「またなんか買ってきたん!」
「...安かってん」
ため息をつく母をよそに、いそいそと配線をつなぐ父が「あれ」と頭を掻く。
「説明書、読んだの?」
丸い背中に、皿をテーブルに運ぶ母の呆れ声が飛ぶ。
私は、苦笑いをしながら箸を出した。

もそもそと昼ごはんを食べた父は
「ちょっと出かけてくるわ」
ふらりと家を出て行った。


トントントン。
608号室のキッチンからは、母が何種類もの野菜を刻む音がする。

母が皿を運ぶ横で、父は「いただきます」も言わず、煮物のような味噌汁を口に運んだ。

やっと食卓についた母が、口を開く。

「どう?」
「...ちょっと熱いな」

「夏期講習、申し込もうと思うんやけど」
「好きにしたらいいやん」

母のハンバーグは小さく、少し焦げていた。

パタン。
母は、排水口の野菜クズをゴミ箱に入れた。



608号室で、一度だけ、父に叩かれたことがある。

キッチンの母の隣に、小学生の私は長いこと立っていた。大好きなアニメ番組を、録画し忘れたのだ。

母は「しょうがないやん」と、にんじんを切る手を止めなかった。

「お母さんが、覚えててくれへんからやん」
何も言わない母の、まな板を見つめる眉間には、皺が寄っていた。

突然、テーブルで新聞を読んでいたはずの、父の手が飛んできた。

「いい加減にしなさい」

見たこともない、真剣な顔。
私は黙って、自分の部屋に向かった。

なんなん。
ベッドの上で、抱えた膝を見つめる。
本を開いて、閉じる。

コン、コン。
ドアの向こうに、母の気配がする。
「ごはんできたよ」

しばらくしてから、リビングにぽてぽてと向かう。
テーブルにつき、3人で黙って煮物のような味噌汁をすすった。

にんじんは、甘かった。





鍋から出汁パックを取り出し、
まだ固いにんじんと、玉ねぎ、しめじ、豆腐を入れる。

ふつふつと浮かんでは消える泡に、
608号室の、小さな私が浮かんだ。


608号室のカーペット。
そこで、ごろんと横になったことがない。

畳の上の小さな左手には、擦り切れたオレンジ色の猫のハンドタオル。
洗濯機のマークがすっかり消え、薄汚れたピラピラがピョンと飛び出している。
つるつるのピラピラを指で擦りながら、眠りについた。

「さあ、ごはんを食べますよ」
母の明るい声。

「にんじん、おいしいよ。食べてみようか」
テーブルには、食べるまで下げられない皿。

「うわ。戦うやつ。うるさいなあ」
アニメのオープニングソングに、顔をしかめた母がリモコンに手を伸ばし、NHKの7時のニュースが淡々と流れはじめる。

アナウンサーが、こどもの転落事故を伝えはじめる。
「こんなに小さいのに」
ふと見ると、母の目が潤んでいた。




小学6年生のとき、
「学校いきたくない」
私はぽろりと口にした。

担任の先生が、タバコ臭くて嫌やねん。

母はキッチンカウンターとテーブルの隙間に座り込み、何枚もティッシュに手を伸ばした。

「まさか、そんなこと言うなんて...」

知らぬ間に、母は学校に相談し、夏休みに私の好きな先生が特別に補習してくれることになった。

「先生に渡してな」
母は、おじいちゃんから送られてきた桃の箱から、きれいなものを2つ選んで、そうっと紙袋に入れた。

桃をぶら下げ、セミの鳴き声を聞きながら、じりじり日差しが照りつける道を歩いた朝。

足は学校に向かっているのに、
心はどこか置いてけぼりだった。

帰ってきて、「どうだった?」と聞く母に、
「...うん、算数やった」とだけ答えた。

母の「大丈夫?」に「...まあ、大丈夫やろ」と答える父のどもり声を、思い出した。




33歳になって、
608号室が歪んで見えるようになった。

娘がハイハイをはじめた頃、
再雇用の父が、会社に行けなくなった。

私の運動会で涙を浮かべ、まだ歩けもしない初孫に、大きな新幹線のチョコレートを買ってきていた父。

桜が散るころに、「ばかたれ」と壁を叩きはじめた。

娘がつかまり立ちをした初夏。
父から夜中に「救急車を呼んでくれ」と何回も着信が入るようになった。

毎晩、枕元に立つ父に、母も崩れていった。

「明日も来てもいい?
もう、一緒にいたくないねん」
しょぼしょぼした目の母は、ポケットだらけの小さな鞄を、のろのろと肩にかける。

「...うん、いいよ」

私の左手が、Tシャツの裏のピラピラを確かめる。



来んといて。



父に投げつけたその言葉を
母には飲み込んだ。




娘が歩き出した真夏に、父は入院した。
「病院いこか」
娘を後ろに乗せ、車を走らせる。
父は「お前のせいや!」と叫びながら、連れて行かれた。


一度だけ、面会に行った。
「入院するほどじゃなかった」
狭い面談室で、大真面目な顔をしていた。



父のじっと俯くしかめ面に、私が重なる。

スクリーンの「今後も検討していく」を、何度もコピペする夜10時。

今日も乾かせなかったボサボサの髪。染みだらけのTシャツ。泣く子を抱いて、リビングを何周もする深夜2時。

ふと、やっと寝た子を抱いて、鏡を見た。
父と同じ角度の猫背が、映っていた。





退院前の秋の日、しんとした母の家を訪ねた。
眠る娘を抱きながら、テーブルで母と向き合った。

「入院しても、変わらんかったな」
母は、深いため息をついた。

「私が学校行きたくないって言ったこと、あったやん?」
母は、あの夏の桃を覚えていなかった。

「えー、今さら、そんなこと言われても。
高校も大学も、楽しかったやろ?」
眉を下げた母が、肩をすくめた。

すうっと、涙が引いた。

「...ちゃうねん」
娘を抱く腕に、ギュッと力が入る。
あの夏の、セミの声が聞こえる。

「私を生きがいにせんとって」
母を見上げる。

「えー、あかんの?」
母が困ったように笑う。
「私は子育てが、楽しかってん」

「それじゃ、あかんねん。
お母さんには、お母さんの人生を生きてほしい」

母の顔が、ひしゃげた。
「だって、かわいかったんやもん」
私の口はこどものように、への字になった。

「...そんなこと言われてもなあ」
母は、赤い目にティッシュを押し当てた。

「お茶でも飲む?」
席を立つ母は、私と目を合わせなかった。

左手が、シャツの裏を探る。

コップをテーブルに置く、母の手の皺。






608号室から見える空は、広かった。

「買い物いくけど」
「行かない」

教室でひとり弁当を開いた中学時代、窓際に立ってぼんやり外を眺めた。

ゆらゆらと立ち昇る工場の煙に、自分を重ねた。
6階から見える屋根は、小さい。

でも。

ニュースに目を潤ませる母。
運動会で涙を浮かべた父。

私は部屋に戻り、本を開いた。





あの608号室は、もうない。

「お迎えのとき、来てくれへん?」
保育園からの帰り道、母にLINEする。
息子の顔のOKスタンプだけが届く。

「こんにちは」
玄関を開けると、口をぎゅっと閉じた母。
「お茶飲む?」
「持ってきた」

そんな母は「もう帰るわ」とポケットだらけの鞄をさっとかけるようになった。
細い背中が、しゃんと伸びている。



「もう、こんなとこで、ゲームせんといて」
今日も、母は父に眉をひそめる。
「何があかんの?」
私の言葉に、母の眉が下がった。
父は、黙ってスマホを眺めている。



猫背の父は、まだ「ばかたれ」とぶつぶつ言っている。

「家におると、お母さんうるさいやろ」
「...細かいからなあ」

おもむろに、父が冷蔵庫を開けた。
「え、なに?」
「お茶」
「ちゃんと聞いてよ」
母と同じ呆れ声。

パタン。

冷蔵庫に、
猫背の33歳が映った。





包丁から豆腐を鍋にそっと滑り込ませ、乾燥わかめをじゃっと入れる。

「ママ見て!」
その声に「なにー?」とだけ返し、鍋に味噌をとく。コンロには、こびりついた油汚れ。

味噌汁をお椀に入れ、テーブルに運ぶ。
「ごはんできたよ」
4人がけのソファに足を投げ出し、動画を見るこどもたちに声をかける。

お椀から、にんじんが飛び出している。
また、煮物になってしまった。

「ごはん、できたよ」
こどもたちは、まだ来ない。

湯気が立ち上る味噌汁に、ふーふーと息を吐く。

「にんじん、食べる?」
やっと食卓についた息子が、顔をしかめ、首を横にふる。
「そっか」

パシャーン
娘がお椀をひっくり返した。
「あー!もう!」

パシャッパシャッ
娘は、水たまりを叩いて笑っている。
布巾が、静かに汁を吸い込んでいく。

倒れたお椀の底に、にんじんが一つ、へばりついていた。
指でつまんで、口に入れる。

ほろ苦かった。




【追記】
感想を記事にしていただきました。
NMさん、本当にありがとうございます。


また、コングラボードをいただきました。

家族の思い出、親との関係性に悩んだ日々を、
ようやく言葉にできました。
読んでくださり、ありがとうございます。

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