ろろろのめ第18回 『「すき、かわいい、おいしい」で分断される日本社会――「批判なき社会」が招く“静かなるシビル・ウォー”』
『「すき、かわいい、おいしい」で分断される日本社会――「批判なき社会」が招く“静かなるシビル・ウォー”』
はじめに:川口の「体感治安」から見えた、日本社会の静かなる亀裂
埼玉県川口市で表面化した、在住外国人(特にクルド人コミュニティの一部)と地域住民との間の緊張は、日本社会に横たわる深い亀裂を象徴している。メディアが報じる「数字」だけでは見えない、住民のリアルな体感治安の悪化と、それに伴う不安の広がりが存在する。2023年7月には、病院に100人近くの外国人が集結する騒動も発生した。川口市議の具体的な体験(クルド人の車に追跡され怒声を浴びせられたこと)や、住民からの切実な声(「毎日珍走団が走り夜は女性は歩けず」「道を走ればクルドカーから資材が落ちてくる。文句を言えば次は殺すと脅される」「地獄だからな」)は、表面化しにくい「沈黙の不安」が地域に蔓延していることを示す。
この問題は、単なる地域の問題に留まらない。日本の言論空間全体、特にソーシャルメディア上での「批判」のあり方、そして「批判なき社会」へと繋がる危険な潮流を象徴している。本稿では、一見無関係に見える複数の事象――川口の問題、著名人の発言、そして政治との距離感――を紐解き、日本社会に蔓延する「批判=悪口」という認識が、いかにして「批判なき政治」と「議論なき社会」を生み出し、私たちを「中間の無い社会」へと追い込んでいるのかを考察する。
「優しい言葉」の裏側で進む“分断”:林原めぐみと中川翔子の事例から
著名人の発言は、社会の空気を象徴し、時に増幅させる力を持つ。
人気声優・林原めぐみによる「外来種」発言は、その典型例である。この発言が一部で差別的と批判された一方で、「悪意がないから許される」という擁護論や、「批判する方が悪」という空気が同時に存在した。これは、無自覚な差別性がいかに「善意の言葉」の陰に隠れて社会に広がるか、そしてそれに対する批判が「人格否定」として退けられる構造を鮮明に示した。
タレント・中川翔子の発信も同様の構造を示唆する。彼女の「すき、かわいい、おいしい」といったポジティブな言葉は、SNS上で「人を攻撃する人とは関わりたくない」という「批判の忌避」へと繋がる傾向がある。彼女と政権との長年にわたる関係性は、その発言の背後にある無自覚な近さと、ファン層に見られる無批判な追認の構造を浮き彫りにする。
2007年の安倍首相(当時)へのコスプレ勧めがあった。
2013年には「安倍晋三さんからLINEがきた!!にほんじゅうが一体感!!」というツイートがあった。
安倍元総理追悼時には、ファンから「安倍元総理の意思は、僕たち国民が継いでいかなければいけません。今まで、安倍元総理に頼りすぎてたかも…」という声が聞かれた。
これらの事例は、彼女の「優しい言葉」が、意図せずして「現政権への批判をも含む『攻撃的な言論』を抑制したい」という、ある種の「批判なき社会」への誘導に繋がりうる可能性を示すのである。
https://www.gov-online.go.jp/prg/prg1120.html
「批判なき政治」の台頭と、言葉の意味の変容
政治家の発言は、社会の言論空間を直接的に規定する力を持つ。
今井絵理子参院議員の「批判なき選挙、批判なき政治」という発言は、民主主義の根幹を揺るがすものであった。この発言が沖縄の「慰霊の日」になされ、沖縄県出身の議員から平和への言及なく発せられたことは、政治における特定の優先順位と、歴史的記憶の軽視を示唆する。
この発言は、現代社会における「批判」という言葉の解釈に大きな議論を呼んだ。Togetterなどのまとめサイトでの議論に見られるように、一部の若者層では「批判」を「すっごい悪いこと」「和を乱す」「喧嘩を売る」「ケチをつける」「縁起の悪い行い」「DISる」といった悪口や人格否定と捉える認識が広がる。言葉の意味の乖離は、建設的な議論を困難にし、政治的な議論を「水掛け論」や「口論」へと矮小化させ、「議論なき社会」を助長するのである。
現自民党政権は、しばしば「批判なき政治」という言葉を使い、批判を封殺してきた経緯がある。小籔千豊氏が、政治家への批判を「反自民の人の見方」と一蹴したような事例は、いかに「批判=悪」という空気が形成されてきたかを示す。このような状況下では、特定の政治的主張に対する批判が、人格攻撃や非国民的行為として扱われ、言論空間から排除されていくメカニズムが機能する。
また、社会が「誰もが感じている」という共通認識を求める一方で、その「共通認識」が実際の現実と乖離していることがある。例えば、林原めぐみ氏よりも津田大介氏の方がSNSで炎上している事実や、過去の「赤いきつね」騒動の本質がツイフェミ側にあることなど、「TL(タイムライン)に閉じこもっていると、そんな火を見るよりも明らかなことにさえ気づけない」という状況は、言論空間が閉鎖的になり、客観的な情報が届きにくくなっている現状を浮き彫りにする。津田大介氏が自身の過去の発言や行動を棚に上げて批判に愚痴をこぼす姿は、「思想よりも振る舞いの方が大事」という、現代社会が突きつけている厳しい評価に直面していると言える。
クルド人問題にみる、法制度の歪みと地域社会のすれ違い
川口のクルド人問題は、日本社会が抱える複雑な外国人事情と、その中で「批判」が封殺されてきた結果の現れである。
クルド人とは、トルコ東部、イラク北部、シリア北部、イラン西部にまたがる地域に居住する民族で、独自の言語や文化を持つ。彼らは「クルディスタン」と呼ばれる地域に多く住んでいるが、それぞれの国では少数派であり、差別や迫害を受けてきた歴史がある。現在、国家を持たない最大の民族と言われている。埼玉県川口市を中心に、多くのクルド人が居住する。
川口市内の外国人人口は5万人を突破し、2年で約1万人増加した。その中で、トルコ国籍の検挙数が突出しており、地域住民との間で摩擦が起きている。ゴミ出しや生活習慣の違いに加え、市議への追跡や病院での騒動、あるいは路上で資材を落とすといった具体的な問題行動も報告されている。
問題の根源には、日本の難民認定制度の運用上の課題がある。法務省資料に基づく算出では、日本で難民申請したトルコ国籍の人は9700人以上とされるが、認定されたのはわずか1人である。にもかかわらず、新型コロナ感染対策や人道的な観点から「仮放免」者が増加している。仮放免者は就労や健康保険加入を認められていないため、彼らは生活のため不法就労を余儀なくされ、地域医療センターには外国人による未払い金が7400万円にも上ると報じられている。
一方で、深刻な人手不足の解体業界では、仮放免のクルド人なしには現場が成り立たないという声も聞かれる。また、日本で生まれ育ち、日本の学校に通うクルド人の子どもたちは、将来の夢を持ちながらも、在留資格がないために働くことができないという厳しい現実に直面している。
この問題は単純ではない。クルド人コミュニティ内部にも多様な意見が存在する。川口市内で働くクルド人とトルコ人のハーフの店主のように、日本の法律に基づいて就労し、問題を起こす一部のクルド人を良く思わず、日本政府の対応に呆れている人々もいる。トルコの揚げ足を取りたい国に忖度し、「クルド人」と一括りにして難民扱いにしているという見方も存在する。これは、日本のルールを守らない外国人が存在するという事実を、国家レベルの政策の歪みとともに直視する必要があることを示唆する。この問題をスルーし、問題の本質から目を背け、特定の民族への憎悪を煽る「中韓クルド叩き」をする人々は、日本の複雑な現実から目を背けているのである。
日本社会を覆う「中間の無さ」と“静かなるシビル・ウォー”
統一教会と自民党の歴史的な関係性もまた、日本社会の「批判なき社会」の構造を浮き彫りにする。安倍元総理の祖父・岸信介氏と統一教会の深い関係、そして戦後の「反共」イデオロギーと自民党の権力維持構造への指摘は、見えない権力や政治的利害関係が言論空間にいかに影響を与えてきたかを示す。統一教会の多岐にわたる事業は、社会への影響力と情報操作の可能性を示唆する。安倍元総理射殺事件後のメディアの「教団名報道自粛」などは、権力と結びついた問題が「批判なき」状況下でいかに隠蔽されうるかを具体的に示す事例である。
日本の言論空間は、「賛成」か「反対」か、「敵」か「味方」かという二元論に陥り、複雑な背景や多角的な視点が失われている。川口の外国人問題における住民の「地獄」と、それを無視する「人道主義」の対立などは、「中間」が失われている状況を描写する。また、一般的な知識不足は、重要な社会問題への無関心を示し、「批判なき社会」が、問題の本質への無知にも繋がり、「中間の無い」極端な意見だけが声高になる危険性を示す。
「政治的左派(リベラル)よりも右派(保守)の方が、意見の多様性が高い」という認識は、英国心理学会の論文によっても裏付けられる。同論文は、米国有権者の態度ネットワークを分析し、「左派は意見が密集しているのに対し、右派は広く分散している」ことを示した。これは、「『多様性』『対話で解決』『差別』『ヘイト』『レイシスト』と普段から叫んでいる人間たちが一番排他的であるという、なんとも皮肉」な現状を学術的に補強する。
「自称左翼は自分たちが自由主義だと思い込んでいて実際にはゴリゴリの全体主義なの、滑稽だ」という指摘もある。ソ連崩壊後に「左翼」が「リベラル」を自称し始め、中道から極右までの幅広い層を「ウヨク」と一括りにして呼んでいるという見方は、言論空間におけるレッテル貼りと分断の起源を示唆する。現在の「リベラル」が「自由な発言が許されず、年長者の発言には絶対服従、意に沿わない言動をした瞬間に袋叩き。そして極端に排他的」な「自己中心的無制限」な集団であるとするならば、それはもはや「自由」ではなく「ファシズム」であり、近年の右翼と左翼の対立は、自由主義と全体主義の対立と表現するのが正しいという議論も存在する。若者の「リベラル離れ」の原因の一つに、このような「同調圧力の強さ」がある可能性は高い。
直接的な衝突はないものの、言論空間において「批判=悪」とされ、異なる意見や疑問が排除され続けることで、社会内部に深い亀裂が入り、相互理解が不可能になる。これは「静かなるシビル・ウォー」と呼べる状態であり、多様な価値観が共存する社会の健全性を深刻に損ねるのである。過去の名作とされる映画も、現在の「批評家」が中途半端な伝聞で糾弾し続ければ、その多くに触れられなくなるだろう。大事なのは現在と未来である。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1645334?page=2
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250530/k10014821171000.html
https://bpspsychub.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/bjso.12665
https://www.reddit.com/r/Asmongold/comments/1l9bk7c/study_finds_that_there_is_more_diversity_of/

私たちに何ができるのか──「誠実な沈黙からの抵抗」へ
この「静かなるシビル・ウォー」を乗り越えるため、私たちには何ができるのか。
まず、安易な「批判の否定」に抗う必要がある。「批判」と「誹謗中傷」を明確に区別し、健全な批判こそが社会を良くする原動力であるという認識を再構築しなければならない。「すき、かわいい、おいしい」といったポジティブな言葉の裏にある無意識の排除に気づき、言葉の力を建設的に使うことが求められる。
次に、「見るべきものを見る」勇気を持つこと。川口の住民の「地獄」のように、耳障りの悪い現実や、目を背けたくなるような真実からも目を逸らさない姿勢が必要である。複雑な外国人問題に対して、安易な排外主義に陥らず、法制度の不備や政治的背景を含めた多角的な視点から冷静に分析する。一橋大学の橋本直子准教授が指摘するように、クルド人側の日本語・文化の習得と、国による日本語教育制度の充実や「共生政策・社会統合政策」への十分な予算が重要となる。日本政府の「問題放置」が平穏な暮らしを脅かし、住民の目が「外国人はねえ〜」とはなって欲しくないという願いを、私たち一人一人の行動へと繋げなければならない。
そして、「誠実な沈黙からの抵抗」という姿勢である。軽率な発言や安易な同調に加担せず、無責任な「いいね」や拡散をしない。熟慮し、真実を追求し、必要であれば声を上げ、時には「沈黙」を選んででも、誠実に問題と向き合い続ける。カルチャーの世界で成功を収めるためには、「広告フォビア」と「日本嫌い」を克服する必要があるという見方も存在するように、私たちは見たくない現実からも目を逸らさず、全てが広告であるかのような現代社会において、情報に流されずに真実を見極める力を養う必要がある。これにより、「中間の無い社会」を乗り越え、多様な意見が共存し、建設的な議論が可能な社会を再構築する可能性が生まれるのである。
おわりに
「批判なき社会」は、決して「平和な社会」ではない。それは、異論が封殺され、問題が隠蔽され、最終的に社会全体が停滞し、分断が深まる危険な状態である。私たちは、この「静かなるシビル・ウォー」を認識し、自らの言葉と行動を通じて、より健全で、包摂的で、批判を受け入れられる社会を築いていく必要がある。
