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徳川に本当に恭順してたのかな?鹿児島城〜お城マニアへの道 No.174

こんにちは!

歴史と食がつながると、旅はもっとおもしろくなる。
お城さんぽの楽しさをお届けしたい!
アラフィフ旅ライターの更科そば子です。

前回は、18歳の志賀親次が島津の大軍を3度撃退した岡城をご紹介しました。

今回は、岡城を追い詰めた側の島津氏の本城、鹿児島城を学びます。

徳川家康も追い詰められた強豪・島津氏のお城とはどんなものだったのか?

お城検定目線+更科そば子の旅目線で学んでいきましょー!


基本情報:鹿児島城

  • 城名:鹿児島城(かごしまじょう)

  • 区分:日本100名城

  • 所在地:鹿児島県鹿児島市城山町

  • 築城者:島津家久(忠恒)

  • 築城年代:慶長6年(1601年)頃

  • 城郭構造:平山城(屋形造)

  • 天守:なし

  • 主な城主:島津氏

  • 別名:鶴丸城
    →御楼門の屋根が鶴の翼を広げた形に似ていることから

  • アクセス:JR鹿児島中央駅からバスで約15分「薩摩義士碑前」下車すぐ

  • 本丸までの所要時間:御楼門・石垣・黎明館で約1〜1.5時間

👉 ポイント

  • 麓の居館(屋形造り)と背後の城山(山城)からなる二層構造の城。江戸時代の文献に「鹿児島城は山城」と記されるほど城山が重要だった

  • 天守を築かなかったのは幕府への恭順の意を示すため。有事には城山に籠城することを想定した二段構えの設計

  • 2020年に復元した御楼門は高さ・幅ともに約20m、国内最大級の城門

  • 西南戦争(1877年)最後の激戦地。私学校跡の石垣に今も銃弾の痕が残る

鹿児島城の歴史

島津氏は、戦国時代に大友・龍造寺とともに九州を三分した大大名。
関ヶ原では西軍につきながら生き残り、薩摩・大隅・日向三国を支配し続けた名門です。

その島津氏の本城として1601年頃に築城を始めたのが、初代藩主・島津家久(忠恒)でした。

家久が選んだのは、背後に城山(標高107m)を擁する地でした。
麓に屋形造りの居館を構え、有事には背後の城山の山城に籠城するという、最初からそういう設計だったのです。

居館部分は天守もなく石垣も低い、一見すると質素な造り。
これには理由がありました。

関ヶ原で西軍についた島津氏は、徳川幕府との関係を慎重に保つ必要があった。
天守を築かないことは、幕府への恭順の意を示す政治的なメッセージでもありました。

しかし城山を含めた全体像を見ると話は違います。
江戸時代の文献には「鹿児島城は山城」と記されており、鹿児島城にとって

城山がいかに重要であったかがわかります。
麓が手薄に見えても、いざとなれば城山に籠城できる。それが、家久の設計思想だったのです。

もう、恭順してないじゃん!と思ってしまいます。

また、薩摩藩は独自の「外城制(とじょうせい)」により、領内100か所以上に武士を常駐させた軍事拠点を置いていました。
本城だけで守るのではなく、領国全体で外敵を迎え撃つ体制を整えていたのです。

その後、鹿児島城は約270年にわたって薩摩藩の政治の中心として機能します。
西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀など、明治維新を牽引した人物たちがこの城下から生まれました。

そして1877年(明治10年)の西南戦争。
西郷隆盛が率いる薩摩軍は政府軍に敗れ、最後の拠点として城山に立てこもります。
城山はその後陥落し、西郷は自刃。
その前に火災で焼失した本丸に続き、二の丸が焼失し、建物はほとんど残りませんでした。

現在、本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館などが建ち、城跡として整備されています。

見どころ情報(検定向け)

● 御楼門(国内最大級の城門)

鹿児島城のシンボルが御楼門(ごろうもん)です。

高さ・幅ともに約20mと国内最大級の城門で、屋根に取り付けられた2基の鯱も国内最大。
1873年の火災で焼失しましたが、明治初期の古写真や礎石の痕跡をもとに伝統工法で復元され、2020年に完成しました。

夜はライトアップされており、城山を背景にした御楼門の姿は格別です🏯

● 石垣

鹿児島城の居館部分の石垣は、水面から高さ7〜8m、約70度の急勾配という特徴的な造り。
「布積み」「亀甲崩し」など様々な積み方が見られ、当時の高い築城技術を伝えています。

そして特に注目したいのが、本丸の北東隅に残る隅欠です。

鬼が出入りする北東の方位が忌み嫌われ、災厄を取り除こうと、わざと城の北東の石垣の角部を直角に欠けさせたものです。
これが「鬼門除けの隅欠」で、全国でも多くは見られないレアな石垣の形式として知られています。

また御楼門そばの私学校跡の石垣には、西南戦争の際の銃弾の痕が今も無数に残っています。

● 城山と黎明館

鹿児島城の背後の城山は、江戸時代は城の山城部分として機能していた場所。
現在は展望台が整備されており、鹿児島市街地・錦江湾・桜島を一望できる絶景スポットです。

西南戦争最後の激戦地でもあり、城山の随所に土塁などの山城の遺構が残っています。

また本丸跡に建つ黎明館では、島津氏ゆかりの歴史資料や発掘調査資料が展示されています。
ここを見てから城山と合わせてお城を訪問すると、より深く島津家の思想が理解できそうです。

城下町グルメ(※試験には出ません!)

と、いうわけで!皆さんお待ちかね!
お楽しみの城下町グルメ情報のお時間です!

島津氏が270年かけて育てた城下町・鹿児島のグルメは特徴があって面白いですよ〜!

■ 六白のキャベ丼

鹿児島市の繁華街・天文館にある老舗とんかつ店「味の六白」の名物メニューです。
ほかほかのご飯の上にシャキシャキのキャベツをどっさり盛り、甘く濃いソースをたっぷりかけた揚げたてサクサクのとんかつをのせた丼です。

「六白」とは鼻・尾の先・四肢の先端の6か所が白い純粋な黒豚のこと。
鹿児島の黒豚のルーツは古く、島津家久により琉球から移入されたといわれています。

なんと、初代藩主の名前がグルメにも!
歴史グルメとしてぜひ名物をいただきましょう!!

■ さつまあげ(つけあげ)

写真提供:いちき串木野市

鹿児島名物として有名なさつま揚げ。
鹿児島のさつま揚げは砂糖を入れて甘口に仕上げるのが特徴で、本土のさつまあげとは一味違うそうです。

ちなみに、鹿児島では「さつまあげ」ではなく「つけあげ」と呼ぶのが地元流だとか。

歴史としては、江戸時代の藩主・島津斉彬公の時代に、魚のすり身を油で揚げた琉球料理「チキアーギ」が琉球との交易で伝わり、さらに改良考案されたものといわれています。


六白に続き、島津氏と琉球との交易が生んだ食文化が、今や全国区の名物になったというのは面白いですよね✨

■ 鹿児島ラーメン

鹿児島ラーメンは、九州の他の地域に比べて豚骨を煮込みすぎず、鶏ガラや野菜を合わせることであっさりとしたコクのある味わいに仕上げているのが特徴。
チャーシューのほかに、茹でキャベツやもやしがトッピングされることが多いです。

ちなみに、ラーメンを待つ間に、サービスとして大根の漬け物(麦味噌漬けや桜島大根など)とお茶が出てくるお店が多いという、独自の文化があるそうです。

ご当地ラーメンって歴史がギュッと詰まってるから面白いですよね✨
名店がたくさんあるそうなので、ぜひ行ってみたいと思います!

更科そば子的感想まとめ

島津家のお城、実はずっと楽しみにしていたんです✨

戦国時代、4兄弟でめっちゃ強かった島津氏。
戦国時代、もしももっと近畿地方に強いところに島津家があったら、普通に天下人は島津家になっていたのじゃないか、という説もありますが、そんな強い人が育つ背景には、きっと風土やそこからくる思想、そして独自の食があると思うんです。

そんな文化的な背景が知りたくて、ずっと鹿児島に行ってみたいと思いつつ、すご〜く遠くてなかなか行けず。。。

でも、本当に行ってみたいんです。
日本の古代史を知る上でもとっても重要な場所だと思うから。

なので、鹿児島城の記事から始まる島津シリーズ、とてもワクワクしています!

次も鹿児島の島津氏のお城、志布志城です。
島津氏が南九州制圧の足がかりにした中世山城です✨

これもまた楽しみ!

もしあなたも私と一緒にお城とグルメの旅を楽しんでいただけるなら、スキ&フォローで応援してもらえると嬉しいです☺️

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