18歳の「戦国時代の楠木正成」が守ったお城・岡城〜お城マニアへの道 No.173
こんにちは!
歴史と食がつながると、旅はもっとおもしろくなる。
お城さんぽの楽しさをお届けしたい!
アラフィフ旅ライターの更科そば子です。
前回・前々回と、大友宗麟のお城を2城続けてご紹介しました。
今回は、その大友氏が島津の猛攻によって追い詰められていく中で、ただひとつ「落ちなかった城」のお話です。
岡城。
瀧廉太郎「荒城の月」の舞台として有名ですが、その廃墟の美しさの裏に、たった18歳の城主が島津の大軍を3度撃退したという、熱いドラマが眠っていました🏯
ではでは、お城検定目線+更科そば子の旅目線で学んでいきましょー!
基本情報:岡城
城名:岡城(おかじょう)
区分:日本100名城
所在地:大分県竹田市大字竹田
築城者:緒方惟栄(おがたこれよし)
築城年代:文治元年(1185年)頃
城郭構造:梯郭式山城
天守:なし(廃城令で撤去)
主な城主:緒方氏、志賀氏、中川氏
別名:臥牛城
→城が建つ地形があたかも「牛が伏せて休んでいる姿」に似ていることからアクセス:JR豊肥本線「豊後竹田駅」から徒歩約15分
本丸までの所要時間:大手門跡から本丸まで徒歩約20〜30分(全体散策1〜2時間)
👉 ポイント
源義経を迎えるために緒方惟栄が築いたとも伝わる800年の歴史を持つ城
わずか18歳の城主・志賀親次が島津軍の3度にわたる攻撃をことごとく撃退し「難攻不落」の名を轟かせた
現在の石垣群は中川氏によるもの
竹田で少年期を過ごした瀧廉太郎がこの廃墟をイメージして「荒城の月」を作曲
岡城の歴史
岡城の始まりには諸説ありますが、1185年に緒方惟栄が源義経を迎えるために築いたとも伝わります。
その後、南北朝時代に志賀氏が城を拡張し、大友氏の重臣として岡城を守り続けました。
◆ 耳川の戦いとは
岡城の歴史を語るうえで外せないのが、耳川の戦い(1578年)です。
大友宗麟が、日向国(現在の宮崎県)に勢力を伸ばす島津氏を攻めるべく、約4万の大軍を率いて出陣したのがこの戦いです。
しかし島津軍の巧みな戦術の前に大友軍は大敗。
大友氏の重臣・国人衆が多数討ち死にし、北九州6か国を支配していた大友氏は、この一戦で一気に衰退への道を歩み始めます。
◆ 18歳の志賀親次、島津を3度撃退
耳川の戦いから8年後の1586年。
勢いに乗った島津軍は豊後府内へ向けて快進撃を続け、大友方の諸城が次々と落ちていきました。
その中で、岡城だけは落ちなかったのです。
城を守ったのは、当時わずか18歳の城主・志賀親次(しが ちかつぐ)。
稲葉川と白滝川に挟まれた標高325mの断崖という地の利を最大限に活かし、島津義弘が率いる大軍を相手に3度の攻撃をことごとく撃退します。
その戦いぶりは、島津義弘に「現代の楠木正成だ」と言わしめたほどだったのです✨
この功績により、志賀親次は豊臣秀吉から感状を受けます。
しかしその後、大友義統が朝鮮出兵での失態で改易されると、志賀親次も岡城を去ることになりました。
◆ 中川秀成の大改修と、荒城の月
1594年、播磨国三木から移封された中川秀成が岡城主に。
入封と同時に志賀氏時代の「土の城」を総石垣造りへと大改修し、現在私たちが目にできる壮大な石垣群が完成しました。
以後、中川氏13代・約280年にわたって岡藩の政治拠点として機能します。
明治の廃城令により建造物はすべて取り壊され、石垣のみが残ります。
竹田で少年期を過ごした瀧廉太郎がその廃墟に心を打たれ、「荒城の月」を作曲したのはあまりにも有名な話です。
見どころ情報(検定向け)
● 断崖絶壁と圧巻の高石垣
岡城が「難攻不落」と呼ばれる理由は、稲葉川と白滝川に挟まれた標高325mの断崖絶壁にあります。
戦国時代末期の1586年、島津氏の大軍が攻め入ってきましたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず撤退しました。
当時の岡城には現在見る石垣群はなく、土塁や空堀など土で造られた山城でした。
その後、中川秀成が大改修で「土の城」を「石の城」へ。
石垣に使われたのは、阿蘇山の噴火によって川に流れ込んできた火砕流が冷やされ石になったもの。
加工がしやすく、石垣作りに向いていたのだそうです。
三の丸北側から二の丸に続く高石垣は圧巻で、美しさと壮大さを兼ね備えた姿が見られます。
● 大手道のかまぼこ石
大手道を歩いていると、石垣の上にかまぼこのような半円柱状の不思議な形の石が並んでいることに気づきます。
どうやって作ったのか、その形の目的については詳しい資料や定説がなく、謎めいているそうです。
南蛮模様を装飾した飾り石という説、板塀があったという説、防衛のための工夫など様々な説があります。
南蛮貿易で栄えた大友氏の文化的影響なのか、それとも中川氏の美意識なのか——
謎が残るからこそ、余計に想像力をかき立てられますね😊
● 本丸・西の丸からの絶景
岡城に建物は残っていませんが、本丸・西の丸からの眺望は格別です。
本丸跡には瀧廉太郎の銅像と荒城の月歌碑が立ち、三の丸御殿跡からは阿蘇山、二の丸からは九重連山が一望できます。
西の丸近戸門からも阿蘇山が間近に迫り、「こんなに近いとは」と驚く訪問者が多いといいます。
雲海が出た日には「天空の城」さながらの幻想的な景色に。
春は桜、秋は紅葉と四季折々の顔を見せる岡城は「日本さくら名所100選」にも選ばれています🌸
城下町グルメ(※試験には出ません!)
と、いうわけで!皆さんお待ちかね!
お楽しみの城下町グルメ情報のお時間です!
阿蘇山の伏流水と豊かな山の幸に恵まれた竹田市のグルメをご紹介します。
■ 頭料理

大分の「頭料理」は、海から遠い竹田地方に江戸時代から伝わる、伝統的な郷土料理です。
クエやアラなどの大型白身魚の身だけでなく、普段は捨ててしまうエラやアゴ肉、皮、内臓などを余すところなく使い、湯引きにして大皿に盛り付け、カボスの三杯酢でいただきます。
竹田市内にある割烹や郷土料理店などで提供されています。
■ はらふと餅

竹田市の銘菓で、求肥のような柔らかい餅にあんこを包んだお菓子。
「荒城の月」にちなんだ城下町みやげの定番です。
なんと、後継者不足でお店が閉店する危機を、地元の建設業「高山組」が技術継承したんだとか!!
こういうエピソードを聞くと、訪問時には絶対に買って帰ろう!と思いますね〜。
■ 名水仕込みの豆腐料理
竹田市は名水百選にも選ばれた湧水の里。
阿蘇の伏流水を使った豆腐は、なめらかで大豆の風味が濃く、地元の食堂で丁寧に作られています。
名物のおぼろ豆腐や豆腐ステーキなど、名水仕込みの豆腐を堪能できるお店がたくさんあるそうです。
岡城が築かれた溶岩台地が育む、清らかな水の恵みをいただきましょう!
更科そば子的感想まとめ
18歳の志賀親次が、島津の大軍を3度も撃退した。
これ、すごいことだと思うんですよね。
大友氏の諸城がバタバタと落ちていく中、ひとりだけ踏ん張った志賀親次。
でも、秀吉から感状をもらうほどの活躍をしたのにも関わらず、主君・大友義統の失態によって最後は城を去ることになってしまいます。
「主君に恵まれなかった名将」って、歴史の中によく出てきますよね。
志賀親次も、そのひとりかもしれません。
岡城の断崖に立ったとき、志賀親次の孤独な戦いに思いを馳せてみたいと思います。
次回からは「島津氏の本城と支城」シリーズに入ります。
まずは鹿児島城。
天守を持たない独自の城郭思想を持つ島津氏の本城です。
西郷隆盛・大久保利通を生んだ薩摩藩の本拠地✨
どんなドラマが待っているのかワクワクしています!!
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