「国崩し」と臼杵城〜お城マニアへの道 No.172
こんにちは!
歴史と食がつながると、旅はもっとおもしろくなる。
お城さんぽの楽しさをお届けしたい!
アラフィフ旅ライターの更科そば子です。
前回は、大友宗麟の本拠地・府内城をご紹介しました。
今回も引き続き、大友宗麟のお城です。
臼杵城。
島の上に建てられた海城で、南蛮貿易で手に入れたポルトガルの大砲「国崩し」で島津軍の猛攻を退けた、宗麟の合理主義が詰まったお城です🏯
ではでは、お城検定目線+更科そば子の旅目線で学んでいきましょー!
基本情報:臼杵城
城名:臼杵城(うすきじょう)
区分:続日本100名城
所在地:大分県臼杵市大字臼杵
築城者:大友宗麟(義鎮)
築城年代:弘治2年(1556年)
城郭構造:連郭式平山城(海城)
天守:なし(廃城令で撤去)
主な城主:大友宗麟→福原直高→太田一吉→稲葉氏
別名:丹生島城(にうじまじょう)・亀城(きじょう)
→築城当時は四方を海に囲まれた孤島(丹生島)であったことに由来。亀城は島の形が「亀」の姿に似ていたことからアクセス:JR臼杵駅から徒歩約10分
本丸までの所要時間:古橋口から本丸まで徒歩約15〜20分
👉 ポイント
臼杵湾に浮かぶ孤島・丹生島に築かれた海城。現在は埋め立てられて陸続きに
1586年、島津軍の侵攻を国崩し(フランキ砲)で撃退
現存建物は畳櫓・卯寅口門脇櫓の2棟でともに重箱櫓(総二階造り)という特徴的な形状
2001年に大門櫓が明治期の写真をもとに木造復元
臼杵城の歴史
前回ご紹介した府内城が大友氏の館跡に築かれた城なのに対し、臼杵城は大友宗麟自身が場所を選んで築いた城です。
1556年、宗麟は家臣の内紛を避けるように、臼杵湾に浮かぶ孤島・丹生島に拠点を移します。
北・南・東の三方を海に囲まれ、西だけが干潮時に干潟でつながるという天然の要害。
「海が守ってくれる」ことを想定した徹底した守りの発想です。
宗麟は、ここで南蛮貿易で得た富を背景に、城下を整備。
宗麟を慕う多くのキリシタンが府内から移住してきたともいわれ、臼杵は宗麟の信仰と政治が交差する城となりました。
1586年、島津軍が北上し、臼杵城に攻め込んできます。
このとき宗麟が使ったのが、南蛮貿易でポルトガルから輸入したフランキ砲「国崩し」でした。
その圧倒的な威力で島津軍を撃退するも、城下もまた大きな損害を受けます。
翌1587年、宗麟は58歳の生涯を閉じました。
その後、朝鮮出兵での失態で大友氏が改易されると、福原直高・太田一吉と城主が入れ替わります。
関ヶ原後の1600年には、美濃郡上八幡から稲葉貞通が入封。
以後、明治維新まで稲葉氏15代が臼杵藩の藩主として城を守り続けました。
廃城令で建物の多くが撤去され、さらに西南戦争での落城により残った建物も焼失。
建物はほとんど現存していませんが、臼杵公園として整備されています。
見どころ情報(検定向け)
● 天守台の石垣

天守は残っていませんが、天守台の石垣は今もしっかり残っています。
佐賀の名護屋城に次ぐ古さの石垣は、もともとは7m以上の高さを誇っていたそうですが、現在は少し低く整備されています。
石垣をよく見ると、アルファベットのような刻印が残っている石があるのだとか。
国際色豊かな都市だった大分の名残を感じますね。
発掘調査の結果、天守台は1594〜1600年の間に築かれたことが確認されており、天守の構造は3層4重だったとされています。
大友宗麟の作った天守、見てみたかったなあ〜
● 古橋口の石橋
城の正面入口・古橋口から登城すると、最初に出迎えてくれるのが江戸時代から残る石橋です。
かつて本丸・二の丸の周囲は海で、陸側の三の丸とは今橋と古橋の2本の橋で結ばれていました。
海に浮かぶ孤島だった臼杵城の地形を、今も体感できる貴重なスポットです。
石橋を渡り、岩盤を削って作られた登城道・鐙坂(あぶみざか)を上っていくと、正面に畳櫓がそびえる✨
この登城体験そのものが、臼杵城の見どころのひとつです。
● 現存する2棟の櫓

現存する建物は畳櫓(たたみやぐら)と卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)の2棟。
どちらも重箱櫓(総二階造り)と呼ばれる、上下の階が同じ平面規模で重なる特徴的な形の二重櫓です。
卯寅口は城の搦手(裏門)にあたり、緊急時に船で脱出するための海側の出口として使われていたとされています。
「万が一のとき」まで想定していた当時の知恵が感じられますね。
なお二の丸の大手門にあたる大門櫓は、明治期の写真をもとに2001年に木造復元されたものです。
復元とはいえ、当時の姿に近い門をくぐれるのは嬉しいですね🏯
城下町グルメ(※試験には出ません!)
と、いうわけで!皆さんお待ちかね!
お楽しみの城下町グルメ情報のお時間です!
臼杵市は豊後水道の豊かな海の幸と、城下町文化が育んだ独自のグルメが揃っていましたよ〜!
■ 臼杵ふぐ
臼杵市は全国屈指のフグの産地として知られており、「臼杵ふぐ」として高いブランド力を誇ります。
豊後水道の激しい潮流にもまれて育つふぐは身が引き締まり、てっさ・てっちりともに絶品だそう✨
大友宗麟の南蛮貿易で栄えた港町・臼杵の、豊かな海の恵みを象徴するグルメ!
地元ならではの鮮度をいただいちゃいましょう!
■ 黄飯

黄飯(おうはん)は、クチナシの実でご飯を黄色く染めた、臼杵独自の郷土料理。
「かやく」と呼ばれる白身魚や野菜、豆腐などを炒め、煮こんだ「けんちん汁」のようなものと一対でいただきます。
黄色く炊いたご飯は、江戸時代の稲葉氏の藩政時代に「質素倹約の精神」として広まったとされており、贅沢な赤飯の代わりの祝いの飯として作られたのが起源だそうです。
参勤交代の際にも食べられていたという記録が残っています。
見た目は鮮やかで食欲をそそりますが、シンプルな味わいが特徴とのこと。
江戸時代の臼杵の城下町文化が生んだ一品です。
■ きらすまめし
きらすまめしは、おからを使った臼杵の郷土料理です。
「きらす」はおからのことで、「まめし」はまぶすという意味だそうです。
鮮魚を刺身にする際に余った端材をおからと混ぜた、城下町の庶民の知恵から生まれた一品。
今では臼杵の食文化を代表する郷土料理として知られています😊
刺身にきらすをまぶす、ということで、ご飯は使われていません。
てっきりきらすまを乗せたご飯なのかと思いましたが違うんですね〜。
大分独自の料理、ぜひいただいてみたいです。
更科そば子的感想まとめ
大友宗麟って、南蛮貿易をビジネスで始めて、後からキリスト教を信仰するようになった人なんですよね。
「これは使える」と思ったものは何でも取り込む、すごく実利的な人だったんだなと思います。
ポルトガルの大砲「国崩し」もそのひとつ。
その威力は、当時の日本人にしたらえげつないものだったはずです。
南蛮文化で大友氏の繁栄を支えていた優れたビジネス感覚も、耳川の戦いで島津家に大敗したとたんにガタガタと崩れていく。
盛者必衰、といえばそれまでですが、繁栄がずっと続くわけではなく、その都度、判断を間違わずに進まなければならない、ということを、歴史が物語ってくれているように感じます。
というわけで、大友家の繁栄の証である2つのお城を学んだあとは、大友家と島津家の争いの歴史へと入っていきます。
次回は、大分県竹田市の岡城。
瀧廉太郎「荒城の月」の舞台として有名な、豊後南端の断崖に立つ難攻不落の山城です。
ここは、大友氏が島津に追い詰められたお城だそうです。
一旦どんなドラマが展開されたのでしょうか。
もしあなたも私と一緒にお城とグルメの旅を楽しんでいただけるなら、スキ&フォローで応援してもらえると嬉しいです☺️
いいなと思ったら応援しよう!
応援は、昔ながらの製法で今もがんばってる職人さんや料理人の方のお店で使わせていただきます!