「遊びは後でいい」が人生を苦しくする~自分らしさは…責任の表れなのかも~
「ちゃんとやっているのに、なぜかしっくりこない」…その違和感の正体のひとつは「遊びがないこと」かもしれません。
私たちはいつから、遊びを「後回しにするもの」にしてしまったのでしょうか…そもそも「遊び」は、働きや遊びに本当に邪魔なものなのでしょうか?
私は、働きや学びも含めて、人々の暮らしの中心に「遊び」がないことこそが、社会全体を息苦しくしているという仮説を立てています。
こう話すと大概が「適度な遊び心は誰にでも必要でしょ」くらいの軽い話で一蹴されます。
その一言で片付けられてしまい、立ち止まって深く考える人がほとんどいないことに、いよいよ見過ごせなさを感じています。
少しだけ立ち止まってもらえる人が増えるように、この違和感を言葉にしてみたいと思います。
職場でも、家庭でも、学校でも。
求められる役割を果たし、任されたことをきちんとこなす。
ミスなく、滞りなく、周囲に迷惑をかけないようにやり切る。
そうして積み重ねてきたものは「信用」にはつながります。
この人なら大丈夫。
この人に任せておけば安心。
しかしその一方で、どこか息苦しさを感じているとしたら…
それは「自分らしさ」が少しずつズレてきているサインだと思われます。
「でも、まずはちゃんとしておかないと、責任を問われるでしょ…」
そんな声が、どこかで聞こえてきそうです。
「自分らしさ」なんて言い出したら、わがままな人だと思われてしまう。
そう感じてしまうのも、無理はないのかもしれません。
だからこそ、少しだけ立ち止まって考えてみたいのです。
「責任」と「選択」のあいだにあるもの
多くの場面で、私達は「自分で選んだ責任」より「他者に委ねられた責任」を引き受けながら生きています。
英語の「responsibility」には、本来「自分で引き受ける」という、自律的で能動的なニュアンスが含まれます。
一方で、日本語の「責任」は、広辞苑で調べてみても、どこか「他者に与えられるもの」として扱われがちです。
会社の方針、上司の指示、社会の常識。
そして家庭の中でも「親だから」「子どもだから」という役割。
気づかないうちに、「こうあるべき」を背負っていることがあります。
それ自体が悪いわけではありません。
ただ、自分で選んだわけではない責任が重なり続けると「どう関わるかを自分で選ぶ余地」が、少しずつ失われていきます。

ここで一つ、誤解されやすい違いがあります。
「わがまま」と「自分らしさ」は、似ているようでまったく別のものです。
わがままとは、結果を自分で引き受けないあり方です。
うまくいかなかった時に、他人や環境のせいにしやすい状態とも言えます。
自分の言動に対しても、責任を持たないあり方です。
一方で、自分らしさとは、結果を自分で引き受けるあり方です。
たとえうまくいかなくても「自分で選んだもの」と腹落ちしている状態。
そのため、自分の言動に対して責任を放棄することはありません。
つまり、責任の違いは「選ぶこと」そのものではなく「引き受ける姿勢」にあるのです。
では、その「引き受け方」と「遊び」は、どのようにつながるのでしょう。
遊びとは「余地」である
働くときも、学ぶときも、「遊び」は本当に邪魔なものなのでしょうか。
多くの場合、遊びは「ご褒美」として扱われます。
本来は自分で選び取って関わるはずのものが、いつの間にか「やらされているもの」になってしまい、その反動として「ご褒美」という形で処理されがちです。
しかし、物事に自分らしく関われている時、そこには共通点があります。
少し試せる余地がある。
どう関わるかを、自分で選べている。
そうすると…もっと試してみたくなる。
そして、もう一歩踏み込みたくなる。
この「余地」の中にあるものこそ、本来の意味での「遊び」なのではないでしょうか。

そうなんです。
遊びとは、ふざけることでも、怠けることでもないのです。
人が自然と関わりたくなり、試したくなり、動き出してしまうようなチカラです。
そもそも、自分から関わりたくなる瞬間や、能動的に動いている感覚。
そうした「主体性」が生まれる瞬間は、誰にでも幼い頃には、すでにあったのではないでしょうか。
夢中になって時間を忘れていたこと。
誰に言われなくても何度も試していたこと。
その感覚の中にこそ、本来の「遊びの本質」があったはずです。
それにもかかわらず、遊びは「子どものもの」と切り分けられ、大人の暮らしから切り離されてしまっている。
ここにこそ、大きな違和感があります。
本来「遊び」は、大人にこそ必要なはずです。
働くこと。暮らすこと。そして、子どもの主体性が育まれる土壌をつくること…あらゆる価値づくりの中心に「遊びの本質」があるのではないでしょうか。

その本質を見落としてきたのは、何もあなた個人の責任ではありません。
むしろ、経済発展こそが美徳とされてきた社会の風潮や、画一的な教育システムの中で形づくられてきた「常識」の影響が、大きかったとも言えます。
個々の「選択する余地」や「遊びの本質を発揮できる機会」は、そうした流れの中で少しずつ削がれてきました。
そしていつしか、それらを手放すことが「ちゃんとしていること」として正当化されてきた可能性が高いのです。
だからこそ今、あらためて問い直してみたいのです。
自分は、どう関わりたいのか。
その余地は、本当にもう残っていないのか。
余地を取り戻すという選択
自分らしさに蓋をして、与えられた責任をただ正しくこなし続ける時、人は「信用」を積み上げていきます。
一方で、自分で選び取った関わり方の中で、試行錯誤しながら向き合っていく時、そこには「信頼」が生まれていきます。
どちらが正しい、という話でもないのです。
ただ、もし今「ちゃんとしているのに、なぜかしっくりこない」と感じているのだとしたら。
それは能力や努力の問題ではなく「遊びが入る余地」がなくなっているだけなのかもしれません。
「信用」を維持することに意識が向きすぎて「信頼」を育む余白が削がれているだけかもしれないのです。
「信用の維持」には、遊びの余地は入りにくいものです。
一方「信頼を育む関わり」には、遊びの余地が土台として存在しています。
では、なぜ私たちはその余地を削ってしまうのでしょうか。
失敗しないため。
評価を落とさないため。
周囲に迷惑をかけないため。
そうした思いが強くなるほど、私たちは無意識に「余白」を手放していってしまうのでしょう。

世間ではよく「モチベーションを上げる環境づくり」が語られます。
しかし、本当に必要なのは、モチベーションを上げることなのでしょうか。
それとも、自然と関わりたくなる状態を取り戻すことなのでしょうか。
もし「関わり方を自分で選べる余地」があるなら、人は本来、無理に動機づけされなくても動き出していくものです。
そうだとすれば、外から何かを足すことよりも、その余地をどう取り戻すかのほうが、ずっと本質的な問いではないでしょうか。
それにもかかわらず、なお外から何かを足し続けようとするならば。
それは結局、「遊び」をご褒美のように後から与える構造と、どこか変わらないままである気がします。
そして気づかないうちに、また新たな「苦痛に対するご褒美」を増やしていくだけになってはいないでしょうか。
チーム側に問題がある場合も…
さらに視点を広げてみると、これは個人の内面だけの問題ではなく、チームや組織のあり方にも深く関わっています。
会社勤めであれ、複数の個人が関わるプロジェクトであれ、本来チームが果たそうとしている「責任」とは…どこにいる誰の未来に、どんな価値や幸せを届けたいのかという問いにあるはずです。
そのビジョンに心から共感し、自分の役割を引き受けているとき、その責任は「自分で選んだもの」へと変わっていきます。

しかし一方で、掲げていたはずの目的が形だけのものになっていたり、その実現のプロセスに納得が持てなくなっているとしたら…気づかないうちに、自分が選んだわけではない責任を、ただ引き受け続けている状態になってしまうこともあります。
その状態で「チームのために」と責任を果たし続けることは、本来の意味での主体的な関わりとは言えません。
そこには「どう関わるかを選ぶ余地」も、そして「遊びの余地」も、ほとんど残されていないからです。
もしそう感じているのであれば、その場から距離を取るという選択は、決して無責任でも、わがままでもありません。
むしろ、自分が本当に関わりたいと思える場所や、自分が届けたい価値に向き合うための、ひとつの誠実な選択です。
あなたが築きたい誰かの未来に対して、納得できる関わり方は、きっと他にもあるはず。
そして、もしその選択に対して「わがままだ」と言われることがあったとしても…その言葉自体が、関わり方の余地を認めていない側の論理である可能性も、少しだけ立ち止まって見てみてもいいのかもしれません。

日常の中にある「遊び」と、その先へ
いきなり職場や社会を変えるのは難しいからこそ、まずは身近な関係から。
「どうするべきか」ではなく「自分はどう関わりたいのか」を選んでみる。
ほんの小さな選択でもいいのです。
少しずつ、その習慣をつけていく。
遊びは、特別な時間の中にあるものではありません。
むしろ、日々の暮らしの中に、静かに存在しています。
「どう関わるかを自分で選べる余地」そのものが、すでに遊びなのかもしれません。
今日のどこかで、ほんの少しだけ。
いつもと同じやり方ではなく、自分なりの関わり方を選んでみる。
その小さな一歩が、しっくりこなかった日々を、少しずつ変えていくはずです。

大人が「遊びのない関わり方」を当たり前にしてしまうと、子どもたちはそれを、そのまま“社会の姿”として受け取っていきます。
だからこそ、自分らしさが活きる関わり方を選び取ることは、わがままではなく、未来への責任なのかもしれません。
子どもたちは、大人の生き方を、驚くほどよく見ています。
子供たちが見る大人の背中に、少しでも「余地」が残っていることを願って。
他者に押し付けられて苦痛を伴う労働や学びから、自ら選ぶからこそ工夫が生まれる関わり方へ。
その変化は、きっと大人も子どもも一緒に進めていけるはずです。
そろそろ「遊びの余地」を自分で削り続けることをやめて…
自分らしさを掘り下げる一歩へと、向かってみませんか。
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
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