がんばりすぎたオトナに本気の遊びの話をします
~なぜ「正解」を出し続けるほど息苦しくなるのか~
社会の中心は「人の心」が灯る場所でなければなりません。
しかし、今の社会と経済の中心は、明らかに「おカネ」となっています。
経済に人間らしさを取り戻すためには、私は少なくとも、次の二つが欠かせないと考えています。
経済の中心に「遊び」を据え置くこと
「できない」を躊躇なく言い合える社会にすること
この二つを並べると「それでは人も経済も堕落する」「甘えた人だらけの社会になる」と感じる方が多いのも、正直よく分かります。
それでもなお、私がなぜこの二つが必要だと感じるのか。
その反面、この二つには多くの人が不思議な抵抗を覚えるのか。
その理由を順を追って言葉にしてみます。
非現実的な理想論ではなく、建設的な社会構築の話です。

「遊びが中心」とは甘い理想論ではない
「遊びを経済の中心に置く」と聞くと、大半の人が少し身構えます。
それは能天気に楽をすることなのか・努力しなくてもいいという話なのか!と捉えられるのも無理もないのです。
しかし、ここで言う「遊び」は、肩の力を抜いて何もしない状態のことではありません。
むしろ、その逆なのです。
結果が保証されていなことに向かう力
結論からお伝えすると…
「遊び」とは、結果が保証されていないことに敢えて時間とエネルギーを注ぐ行為です。
やってみたけれど、うまくいかない。
人に評価されるかどうかも分からない。
役に立つかどうかも、今は分からない。
それでも、なぜか気になってしまう。
気づけば、何度も試してしまう。
うまく言葉にはできないのに、心が躍動してやめられない。
そう、つまりは「心が動いている」状態が「遊び」の最大の特徴です。

私たちは長い間「早く正しい答えを出せること」「平均点以上を安定して取れること」を、人としての完成度のように刷り込まれてきました。
その結果、失敗するかもしれないこと・役に立つか分からないこと・遠回りに見えることに、無意識のブレーキをかける癖がついてしまったのでしょう。
完成された人間など、どこにもいないのにです。
なぜ遊びは「できない」と隣り合うのか
「遊び」とはまさに、その無意識のブレーキをそっと外す営みです。
「遊び」は、効率が悪く、無駄が多く、成果も見えにくいものです。
不安定で、不器用で、他人からは「何のためにやっているのか」も分かりにくい。
そして必ず「できない」と隣り合います。
できないから試すんです。
できないから工夫が生まれるんです。
どうしてもできないなら、笑顔で人の力を借りるようにもなります。
「できない」を許さない社会だったら「遊び」は最初から成立しません。
最初から上手な人だけが残って、途中でつまずく人は静かに場から消えていく…それは活気のある社会ではなく、均質で心の音が弾まない社会です。

そして「遊びの本質」は自分自身を甘やかすものではないということです。
むしろ「自分はまだ分かっていない」「自分はできていない」という事実に正面から向き合い続ける行為であること…ここが最大のポイントです。
心が先に動くからこそ、頭は後から必死に働き始める。
頭から先に働かせると、人は効率的な作業は高めても、その行為自体に疲弊してしまい、心躍るような創造的であり続けることが難しくなっていくのでしょう。
本当に持続可能な多様性は生まれるのか
少し視点を引いて、歴史を眺めてみましょう。
遊びはなぜ管理されてきたのか
時代を問わず、権力や秩序が強まる局面では「遊び」は管理され、制限されてきました。
祭りは統制され、余興は禁じられ、自由な集まりは咎められてきたのです。
それは、「遊び」が無益だったからではありません。
むしろ為政者たちは「遊び」が人を内側から動かす力を持っていることを、よく知っていたからではないでしょうか。
人々に主体性が芽生ると、生産性の低下や、反抗的態度が生まれる危険因子になるリスクを恐れていたからだと考えられます。(※1関連コラム)
とはいえ、これは誰かが悪かったという話ではありません。
生産性が低下することも困るし、自我の目覚めによる反乱などを恐れていただけのこと。
しかし、今は自由の国の日本です。
私たち一人ひとりが、いつの間にか「心が動くこと」よりも…「役に立つこと」「評価されること」を優先するよう、静かに慣らされてきたことにそろそろ気づいても良い頃です。

あの頃は心が勝手に動いていた
ここで、少しだけ自分の記憶をたどってみてください。
子どものころ、時間を忘れて没頭した遊びはありませんでしたか。
誰に褒められなくても、上手かどうかも関係なく、「やめ時が分からなかった」体験。
あの感覚は、完全に消えてしまったわけではないはずです。
ただ、忙しさや正しさの層の奥に、そっと押し込められているだけ。
つまり「遊び」とは、才能の話でも、贅沢の話でもないのです。
「自分は何に反応する人間なのか」を思い出す、とても現実的な入り口なのだと思うのです。
自分の心が自然と弾んでいたあの感覚をまず思い起こしてみましょうよ。

「多様性」がなぜこんなにしんどいのか
自分の心が躍動するものを思い出すこともなく「多様性の時代」「持続可能な社会」と言われたら、しんどくありませんか。
心が動いていない状態での多様性は、どうしても「できることのバリエーション」「強みの違い」として語られがちです。
でも、本当に好きなことでもないのに、「私はこれができます」と唱え続ける種類が多いことを多様性と呼ぶのは、どこか無理があるように思えてなりません。
好きでもないことを、長く続けることほど、苦しいものはありません。

本来、多様性や持続可能性の根っこには「これが本当にやりたい」「これがたまらなく好き」という軸があるはずです。
その過程で、「自分にはできないこと」が可視化されるほど「それなら手伝いましょうか」と別の人が活きる場面が増えていく。
今は、その順番が逆転してしまっているように感じます。
実際に、自分の身の回りで「私はこういうことがしたいのですが、これができません」と言いやすくなった実感は、どれほどありますか?
一人ひとりの「これがやりたい!」という主体性を寛容に受け入れ、同時に「何ができないのか」を相互に支えあう。
そんな関係性の積み重ねこそが、本質的な「ありがとうの循環経済」の土台になるのです。
大人も子どもも「できない」が言えない
職場の会議で「何か意見はありますか?」と聞かれたとき、多くの人は正解になりそうな答えを探し始めます。
本当は「分からない」「今は判断できない」と感じていても、それを口にするのは怖い…無能だと思われる気がするからです。
でも「まだ分からない」を言えない職場で、誰かの「これがやりたい」が育つでしょうか。
そもそも会社が示すビジョンに共感できない中・会社のビジョンが理解不能ならば、もっと深刻になります。
「もっとアイディアはないのか」と叱責を受けても、自分の意見が採択されると「それ…君ができるんだね・やるんだね」と責任を取らされたらどうしようと億劫になります。
そうなってしまうと、斬新な意見やアイディアは出ず、寡黙な時間だけが過ぎ去っていく。
その場にいる上司にも部下にも双方に原因はあるとは言え、何ら解決していかないのは、会社にも働き手にもそれぞれ未来をこうしていきたい!という主体性の欠如が根本的なところになります。

家庭の中にある「何でもいい」の怖さ
これは家庭でも同じです。
「やりたいことを見つけなさい」と言いながら、親自身は「別にやりたいことはない」「何でもいい」というのでは、説得力に欠けます。
そして案外どの家庭にもありがちな些細なことも、ボディブローのように徐々に悪影響もあったりします。
「今夜の御飯は何をつくろうか?」
「ん?なんでもいいよ…」
この他愛もないやりとり…心当たりはありませんか。
家族にはいつも「〇〇が食べたい!」と言ってくれた時のほうが、買い出しや料理のモチベーションも上がります。
しかしまあ、いつ聞いても「何でもいい」と言われたら料理をつくるほうのストレスはどんどん積み上がります。
それぞれが「どうしたいのか」を磨く感性というのは、日々の暮らしの中に宿るものです。
それなのに親同士の会話に「何でもいい」が日常化すると、子どもの感性や主体性も磨かれません。
そして、親は本当は疲れていることも、迷っていることもあるのに「親がちゃんとしていなければならない」「大人は完成形でなければならない」という刷り込みを、自分自身にかけ続けている。
心を動かすことがなく、頭だけを使わないといけない日々の生活だなんて…それが「心豊かな暮らし」とは言えますか?
子どもは、言葉以上に「大人が本音を隠して生きている姿」を見ています。

偏差値は何を測り、何を測らないのか
「やりたいことばかりをしていたら、良い大学に行けない」
その不安は、とてもまっとうだと思います。
偏差値は、言われたことを理解し早く正解を出す力を測る重要な指標です。
けれど同時に、社会に出てから本当に問われるのは…
自分は何に心が動くのか
何ができなくて、どこで助けを求めるのか
これらを把握している力です。
偏差値は、子どもを社会に「通す力」は測れても、社会の中で「生き続ける力」までは測ってくれません。
高学歴となって有名企業に就職しても、結果として社会の生活者の安心と安全を脅かす不祥事に加担する社員の増加が後を絶ちません。
自分を会社に「通す力」だけが磨かれ、社会に与える心豊かさは蔑ろにしてしまっていることすら気づかない状況は、ドラマの世界だけではなく、現実問題として過去にどれだけの事例があるでしょうか。(※2・関連コラム)
「私にはできません」が言えない空気なんでしょうね。

「これがやりたい」が見えない人へ
ここまで読んで「それでも自分には“これがやりたい”が見えない」と感じた方もいるかもしれません。
でもそれは、あなたに意欲がないからでも、あなたが夢を諦めたからでもありません。
ただ長い間「それは役に立つの?」「それで食べていけるの?」と問い返され続けてきただけ。
だから、無理に見つけなくていいんです。
朝の満員電車で喩えてみると
「できます」をアピールして競う社会は、朝の満員電車によく似ています。
同じ時間、同じ方向、同じ基準。
少しでも早く、少しでも前へ。
立ち止まる余白はなく、遅れた人は、押され、はじかれ、いつの間にか「自分が悪い」と思わされる。
それは、効率もよく、成果も数字も、分かりやすい。
だからこそ、疑われにくい。

一方で…
「できない」を差し出せる社会は、路地裏の商店街のようなものです。
魚屋は魚に集中し、八百屋は野菜に集中する。
できないことまで背負わない。
足りないところは、顔の見える範囲で自然と補い合う。
派手さはないけれど、息ができる。
人の温もりがある。
しかし五感で示せても、こうしたことは数値化しづらいので分かりにくい。
それでも「できる」を一点に集めると、結局は富の集中に加担する傾向が強くなります。
一方で「できない」を分かち合えば、役割は分散してそれぞれの居場所は増えていくはずです。

いったん満員電車から降りてみましょうか
満員電車から、 一度降りてみませんか。
路地裏には、 まだあなたの役割が 残っています。
「やりたいことはあるけれど、もう今さら職場で発揮できるものじゃない」
そう感じているとしたら、それはあなたの意欲が枯れたからではないと思うのです。
多くの場合「発揮してはいけない場で、発揮しようとしてきた」…その疲労が、諦めという形を取っているだけです。
満員電車の中で、急に立ち上がって踊れないのと同じように、今いる場所のルールと空気の中では、出しようがなかっただけなのかもしれません。
「やりたいことがない」のではなく「やりたいと言ってはいけない学習」を、あまりにも長く続けてきただけなんですよね。

必要なのは、いきなり転職することでも、起業することでもありません。
まずは、自分の中にまだ残っている小さな違和感や、ちょっとした工夫、「それ、やらなくてもいいのに」と言われそうな提案を、自分の中で見捨てないことだと思うのです。
それは、満員電車の中で席を譲るような、目立たない行為かもしれませんが、確実に「路地裏」へと続く感覚です。
わが子や次世代の若い人たちに同じ轍を踏ませたくないと願うならば、自分のやりたいことでもないのに無理をして纏っていた心の鎧を少しずつ脱いでみる…
そうやって等身大の自分と向き合うようになると、自然と仲間も出てくるものですよ。
次世代に同じ轍を踏ませないために
「できない」を言い合える社会は、弱い社会ではありません。
「遊び」が中心となる社会は、浮ついたふざけた社会ではありません。
それは、人が人として生き続けられる社会です。
一人ひとりの「これがやりたい」と「これはできない」が自然に混ざり合うところ。
ここに本当の意味での「ありがとうが循環する経済」が育つと、私は信じています。
そこに求められているのは資本家や政治家のチカラではなく、一人ひとりの生活者の日々の暮らしのあり方ではないでしょうか。(※3・関連コラム)

キラキラした綺麗な話をしたかったのではないのです。
むしろ、本気で楽しく生きるということは何一つ楽なことではありません。
それでも…
自分らしさに蓋をしてがんばっているからこそ早く楽になりたいだなんて…次世代の子ども達に同じ轍を踏ませることを断ち切るのは、生活者一人ひとりが問われています。
これをあらためてコラムにしたためました。
そろそろ本気で楽しく生きてみましょうか♪

Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
<関連コラム>
※1・遊びが歴史的に統制されてきた背景
※2・企業不祥事がなくならない理由
※3・生活者が未来の価値を創る
