「私はこれデいい」「私はこれガいい」~家族の共有を強要にしない暮らしへ~
「これでいい」と「これがいい」。
似ているようで、この二つの言葉のあいだには大きな違いがあります。
このコラムでは、この言葉の違いを手がかりに『家庭の心理的安全性と自分らしさの回復』について考えてみたいと思います。
心理的安全性という言葉は、職場や学校で語られることが多いですが、実は夫婦や親子といった家庭の中でも、日々少しずつ失われている可能性があります。
「まさか、うちは大丈夫」
そう思っているときほど、少し立ち止まってみてもいいのかもしれません。
日頃ご自身は「これがいい」とハッキリとした軸みたいなものがある反面、旦那さんや奥さんが「私はこれでいいや…」ということが口癖になっているようなことに心当たりがありませんか?

「これでいい」は、条件の中で折り合いをつけた選択です。
周囲との摩擦を避けながら、無難なところに落ち着く感覚。
一方で「これがいい」は、自分の感性や納得から生まれる選択です。
そこには主体性があります。
しかし現代社会では、「私はこれがいい」と言える大人よりも「私はこれでいい」と生きている大人の方が多いように感じます。
多くの人が職場では、ミスなく業務をこなすことに集中しています。
家庭に帰れば、今度は「ちゃんとした親」であろうと頑張る。
それは決して悪いことではありません。
むしろ、多くの大人が責任を果たそうとしている証でもあります。
しかし、その積み重ねの中で、いつの間にか「自分らしさ」を後回しにしてしまうことはないでしょうか。
そんなとき、人は「これでいい」と折り合いをつけながら生きてしまうのかもしれません。
それは納得ではなく、どこかあきらめに近い折り合いです。
夫婦の会話から少しずつ失われるもの
結婚前は、互いの関心や感性に興味を向け合っていたはずなのに、結婚後はそれぞれの立場で日々のタスクに追われ、ゆっくり対話する余裕がなくなっていく。気づけば、相手の関心ごとに目を向ける時間も減ってしまう。
例えば、こんな会話はないでしょうか。
「最近、こんなことが気になっていてね」と話しかけても、相手は仕事で疲れ切っていて反応が薄い。
あるいは「それは少し考えすぎじゃない?」と軽く否定される。
逆に「最近こんなことに関心が出てきたんだけど」と話しても「子育てに追われている中でよくそんな余裕があるのね」と皮肉で一蹴されてしまう。
一つひとつは小さなやり取りでも、無反応・無関心・否定が積み重なると、人は次第に自分の内面を言葉にすることを控えるようになります。

こうした空気は、かつての体育会系の部活動などで見られた「無視」や「否定」による指導文化と、どこか重なるところがあります。
「教育的指導」という名のもとに行われるそれらの行為も、ときに本人の意図とは別に「ここでは自分らしさを出さない方がいい」という空気を生み出してしまうことがあります。
そうしたことと同じことで、家庭の中でも心理的安全性は、目に見えないかたちで少しずつ削られていくのかもしれません。
家庭は本来、安心できる場所のはずです。
しかし、日々の小さなやり取りの中で、知らず知らずのうちに自己表現がしにくくなっている。
気づかないうちに、静かに広がる「心理的安全性の低下」が起きているのかもしれません。
共有しない領域から取り戻せる自分らしさ
では、どうすれば自分らしさを取り戻せるのでしょうか。
私は一つのヒントとして、「共有しない領域」に目を向けています。
家庭生活の多くは「共有」です。
家、家計、子育て、暮らしのルール。
だからこそ、そこでは衝突や遠慮が生まれやすい。
しかし、必ずしも家の設備や家具など、家族で共有しないモノもあります。
例えば、装い…洋服や小物は基本的に個人のものです。
また食卓でも、料理を家族ごとに変えるのは難しくても、器やカトラリー、ランチョンマットならそれぞれ違っていてもよいでしょう。
こうした「共有しない生活用品」は、自分らしさを表現する小さな入り口になります。
時間や空間は共有すれど、共有することがないモノは衝突が起きにくい分、心理的安全性を保ちやすいからです。
実はこういう装いが好きだった。
こういう器で食事がしたかった。
そんな小さな発見が「私はこれがいい」という感覚を少しずつ思い出させてくれます。

「好きが溢れる顔」が家庭の空気を変える
自分の「好き」を少しずつ表現していく。
すると、不思議と人の表情も変わってきます。
得意げな顔というのは、ときに周囲の反感を買うことがあります。
しかし、好きなことに夢中になっている顔はどこか柔らかく、周りも否定しにくいものです。
家族の中で誰かが「好きが溢れている顔」をしていると、その空気は少しずつ広がっていきます。
「そんな服が好きだったんだね」
「その器、いいね」
そんな何気ない一言から、家族の会話が少し変わることもあります。
そういったものは、家族に相談する必要すらなく、自己表現がしやすいものです。

ここで「いや、服や食器ですらそれほど自由に表現できる家庭の空気感ではない」という人がもしいるならば…それこそ家庭内で心理的安全性が担保されていないことを示していませんか。
服や食器選びで「自分はこれがいい」と言える環境であるならば、まずは家族と共有しない「モノ」から自己表現を楽しむことから始めてみてはどうでしょう。
案外「そうそう、私はこうしたものが好きだった」という再発見だったり、「こういう装いがしたい」という主体性の一歩につながることがあります。
一方で、家族が「自分はこんな服を着てみたい」と言った時「それはあなたには似合わないんじゃない?」と、軽く言ってしまうこともあるかもしれません。
もちろん悪気があるわけではありません。
けれど、そうした何気ない一言が、相手にとっては「自分らしさを出しにくい空気」につながってしまうこともあります。
もし思い当たる場面があれば「もしかすると、家族が自分らしくいられる空気を少し狭めてしまっていたのかもしれない」と、一度わが身の振る舞いを振り返ってみてもいいのかもしれないのです。
小さな「これがいい」を体験してみる
大阪・南港にあるリトアニアリネンのショップでは、衣食住に関わる個人事業主たちと協力しながら、生活者の背中を押す「こもれびと」という活動が行われています。
暮らしの中で「ワタシ コレが イイ!」と感じるきっかけを見つけるワークショップが一年を通じて小まめに開催されるものです。

大きな挑戦ではなく日常の小さな「好き」に気づくこと…そうした体験が、人が自分らしさを取り戻すきっかけになることもあります。
人と比べなくてもいい。
誰かに勝たなくてもいい。
自分だからできる、小さく輝く歩みでいいのだと思います。
「私はこれでいい」ではなく「私はこれがいい」。
そんな言葉が、暮らしの中でふと口にできる瞬間が、少しずつ増えていけばいいなと思います。
そして、子どももまた、そうした親の背中をじっくりと見ているものです。
「共有」が「強要」に変わってしまうとき
家庭には「共有」することが多くあります。
暮らしを共にする以上、それは自然なことです。
しかし、知らず知らずのうちに「共有」が「強要」に変わってしまうことがあります。
家事は共有のはずが、いつの間にか役割の強要になってしまう。
価値観の共有のつもりが「それが正しい」という空気を生んでしまう。
そうした境界が曖昧になったとき、人はどこか息苦しさを感じるのかもしれません。
たとえ息苦しさを感じていなくても、家庭の中で独特の固定観念が固まり、お互いの視野が少しずつ狭くなってしまうこともあります。
だからこそ、家庭の中にも「共有しない領域」があってもいいのではないでしょうか。
敢えて「共有しない領域」を設けるいくことも必要なのかもしれません。

服や食器のような小さな選択でもいい。
「私はこれがいい」と言える小さな場面があることが、自分らしさを守る余白になるのだと思います。
以前、我が家でも家族三人映画館に出向いて「私はコレが観たい!」というものを尊重し合い、それぞれが好きな映画を観てから、食事で合流するなんてこともあたりまえのようにありました。
そうした小さな「これがいい」が重なっていくと、気づけば家庭の空気そのものも、少しずつ変わっていくのかもしれません。
「私はこれでいい」ではなく「私はこれがいい」。
そんな言葉が、暮らしの中で自然に口にできる家庭で増えていくといいなと思います。
まずは自分にも、そして家族にも、少しだけ寛容でいられる暮らしから始めてみたいものです。
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
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