できないを言い合えると心豊かな経済に変わる
「短所の克服」を求めすぎる社会の限界
生き残る術よりも生き抜くありようを
好きなことや夢中になれることを入り口にすると、学びは本来いくらでも広がっていくものです。
それなのに世間では、そうしたことよりも「やりたいことは、やるべきことをやってから」という言葉が、いまだに常識化しています。
できることを磨くことと同時に、苦手を「自覚する」ということは大切。
けれど私が違和感を覚えるのは、とにかく苦手なことを「克服しなさい」という一方向の価値観です。
その違和感の背景には…「まずやりたいことからやりなさい。人生には限りがあるんやからね。」という、母が当然のように私の背中を押し続けてくれたことがあるのでしょう。
「得意科目が、必ずしも好きなこととは限らないでしょ。まずはあなたが本当に夢中になれることを探しなさい。大切なのは、その好きなことを深めるためにはどんな学びが必要なのかを自分で見出せるようになることよ。」

だから私は、幼少の頃から全科目が平均点以上になったことがありません。
それでも、好きなことを深めるために必要な学びは、自分なりに自然と見つけるようにもなり、その学びは決して楽なことではありませんが、楽しいことに結び付けることが目的であるため、苦しいと思ったこともありません。
社会を生きるうえで「生き残る術」を身につけることは、確かに必要です。
できることを増やし、弱点を補い、求められる役割に応える。
多くの人が、そうして懸命に生きています。
けれど、「生き残る術」の前に「どう生き抜くか」「どう生きたいのか」が抜け落ちてしまったとしたら…
それは心豊かに生きているというより、体だけが動く生命維持装置を背負っている状態に近いのではないでしょうか。
できないと言えない社会は人が疲弊する
今の社会には、子ども時代に「可能性」よりも「短所の克服」を求められすぎた大人が、少なくないように感じます。
好きなことを探究するのは後回し。
あるいは「そんなことをしてはいけないのではないか」という楔(くさび)が、今も心に刺さったままの人も多いのではないでしょうか。
その結果、「自分は何がしたいのか」よりも「自分は何ができます」と主張し続けることが、生き残るための術になってしまった…好きなことでも夢中になれることでもないそれを、ずっと続けなければならなくなるのにです。
けれどそれは、心のどこかで無理を抱えたまま走り続ける生き方です。

好きなことから学ぶと建設的になる
本来、子どもたちにとっては、多くの大人こそが「本気で好きなことを深める背中」を見せるべき存在であるはずです。
好きなことを深めていくと、不思議なことが起こります。
これまで苦手だった分野にも、「必要だから学びたい」という気持ちが、自然と芽生えてくる。
親と子がやっていることは違っても、好きなことを入口にして、本気で向き合う姿勢には共感できる…そこには「教える側/教えられる側」ではない、相互のリスペクトが生まれます。

短所の克服が「あたりまえ」になる歪み
一方で、苦手の克服を最優先し続けると、人は次第に「自分らしさ」を見失っていきます。
本気で深めたいことよりも、人の目を気にしながら「がんばること」が、いつの間にか習慣になります。
そしていつか「私も我慢してきたんだから、あなたももっとがんばりなさい」という価値観の押し付けが、無自覚のまま次の世代へ手渡されてしまう。
自分が未体験・未経験なことは、誰でも想像も、理解も、共感も難しいものです。
だからこそ大人は「自分らしさと向き合う」前に、まずは苦手を克服しなさいと言ってしまうのかもしれません。

生き抜くありようが経済の土台になる
だから私は常々思うのです。
経済の土台になるのは「生き残る術」を競い合う人たちではなく、一人ひとりが自分らしく生き抜こうとする姿そのものなのではないでしょうか。
正しく生き残る術より、 互いの「できない」を持ち寄りながら、美しく生き抜こうとする人たちがいる社会ならば、 経済はもっと人間的になるのではないかと信じて止みません。
一人ひとりの「これがやりたい!」という主体性を寛容に受け入れ、 同時に「何ができないのか」を支えあう。
そんな関係性の積み重ねこそが、 本質的な「ありがとうの循環経済」なのではないでしょうか。

そんなことを考えていた時、文化翻訳家・ニールセン北村朋子さんのコラム『デンマークとHyggeの間にあるもの』の一節に出会いました。
苦手なことは頑張らない デンマークではジェネラリストみたいな人は社会も会社も求めていないんですよね。 自分が得意じゃないことも、他に得意な人がいて、その人とカバーしあえるという考え方なんです。
だから学校でもあまり苦手なことを頑張れとは言わないし、自分の得意なことをどんどん伸ばしていく形で学びが進んでいきます。 本当にデンマーク発祥のおもちゃのレゴみたいな感じで、自分の得意なものと他の人の苦手なものがハマって、その組み合わせの妙がイノベーションになるという考え方なのです。 小さい頃から自分はこれでいいのだと実感する確認作業を繰り返して自尊心が育まれ、人生の主導権を自分が握っていくことにつながっていくのだと思います。
ここで書かれていることは、何も特別なことでも、感服すべき「他国の素敵な話」でもないように、私には感じられました。
不必要な鎧を身にまとうことなく、等身大の自分が社会の中で活かされる。
だからこそ、他者との関わりも自然に活きてくる。
とてもまっとうな、人の在り方です。
そしてこうも思うのです。もしかすると江戸時代の庶民も、こうした感覚の中で暮らしていたのかもしれません。
「私はこれがしたい…でも、これはできません・ここが苦手なのです」
そう言えるからこそ、「それなら私ができます」という人が現れる。
自分にとっては当たり前にできることが、誰かにとっては心からの「ありがとう」になる。
そこに、あたりまえ(できること)と、ありがとう(できないこと)が循環する、心豊かな経済が立ち上がることは間違いありません。

以前のコラムでも取り上げましたが、営業とは本来、相手の営みに関心を持ち、自分の生業で寄り添うことです。
頭を使って自分の「できる」を売り込みにいく行為ではありません。
心を使って相手の「できない」に寄り添うことです。
生き残る術を競い合う社会から、自分らしく生き抜くありようが尊重される社会へ。
「私はこれができません」と躊躇なく言えること。
そして、周りの誰もそれを責めないこと。
そんな自分にも他者にも寛容な社会こそが、これからの経済の礎になると、私は信じています。
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
<参考コラム>
学校では教えてくれない営業の本質
