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よだかの星と幸福の王子―自己犠牲という美しい罠ー

私にとっての地雷であり、忘れられない物語

私は小学生の頃、初めて宮沢賢治の「よだかの星」を読んだ時にわんわん泣きました。小学生の頃はまだいじめられていなかったのですが、幼稚園から低学年の頃はよく「ハブられる」子供だったんです。だからきっと、よだかの中に自分の孤独を見出したのでしょう。

一方、オスカーワイルドの「幸福の王子」を読んだときは、なんでそんな純粋でいられるのかわからなくて。王子にはつばめがいてくれたからよかったものの、なんでそんな自己犠牲をした上につばめまで巻き込むんだって、怒りの方が少し強かった記憶があります。幸福の王子の方を小さい頃に読んだからかもしれません。

どちらにしても、この二つの物語は私にとって地雷でもあるし、忘れられない物語なんです。なぜなら、自分を犠牲にして誰かの幸せが成り立つのならそれが一番美しいと感じているから。

はっきりいって、自己犠牲の上に成り立つ誰かの幸せなんて書いている時点で、自分に酔いしれてるヤバいやつですよね。なのに、私はそれでも誰かの役に立つということが素晴らしいと思ってしまうし、だからこそこの物語が忘れられないのです。

宮沢賢治の孤独が生んだ愛の形

賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と語りました。この言葉を初めて知ったとき、私は鳥肌が立ちました。なんて美しくて、なんて切ない考え方なんだろうと。

「みんなが町で暮らしたり 一日あそんでゐるときに おまへはひとりであの石原の草を刈る そのさびしさでおまへは音をつくるのだ」という詩「告別」からは、彼の深い孤独が伝わってきます。孤独こそが創作の源泉だと彼は理解していたんですね。

賢治は自分を凡人中の凡人だと思っていました。でも、その凡庸さが世間の常識と一致しないことに気づいて、自分が世間から孤立してしまっているのではないかという不安に苛まれていたんです。

この孤独感は、まさによだかが感じていた疎外感と重なります。でも賢治は、その孤独を燃料として、他者への愛を注ぎ続けた。「私は暗い生活をしています。薄暗がりの中ではるかに青空をのぞみ、飛び立ちもがき悲しんでいます」と告白しながらも、農民のため、教育のため、そして「世界全体の幸福」のために働き続けたんです。

オスカーワイルドが語った愛の真実

ワイルドの「愛を必要とするのは完全な人間じゃない。不完全な人間こそ、愛を必要とするのだ」という言葉に出会ったとき、私は何かがストンと腹に落ちる感覚を覚えました。

ワイルドは社交界の寵児でありながら、同時に深い孤独を抱えていました。男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに亡くなった彼の人生は、愛することの困難さと美しさを物語っています。

「人が恋をする時、それはまず、自己を欺くことによって始まり、また、他人を欺くことによって終わる」なんて、なんて皮肉で、なんて的確な愛の描写なんでしょう。でも「幸福の王子」では、そうした複雑さを超えた純粋な愛―自己犠牲的な愛を描いたんです。

二人の作家に共通する美しい孤独

宮沢賢治とオスカーワイルド。この二人には、驚くほど多くの共通点があります。

まず、どちらも社会の「周縁」にいました。賢治は東北の農村で、当時の文壇からは離れた場所で創作活動を続けた。ワイルドは同性愛者として、ヴィクトリア朝の道徳的な社会から排斥された。

次に、どちらも「美」に対する独特の感性を持っていました。賢治の作品は視覚的イメージを喚起する美しさがあるし、ワイルドは耽美的な世紀末文学の旗手でした。

そして最も重要なのは、両者とも「愛」を作品の中心に据えていたこと。ただし、その愛は報われることのない、自己犠牲的な愛だったんです。

なぜ私たちは同じ気持ちになるのか

「よだかの星」と「幸福の王子」。結末は違うのに、なぜ私たちは同じような感情を抱くのでしょうか。

それは、どちらも「純粋な愛」の究極形を描いているからです。よだかは、自分の存在が他の生き物に迷惑をかけることを悲しみ、最終的に燃え尽きて星になることを選ぶ。幸福の王子は、街の人々の苦しみを見て、自分の美しさや価値あるものをすべて与え尽くす。

どちらも、愛するがゆえに自分を犠牲にする。そして、その犠牲によって得られるのは「美しい死」です。よだかは星となり、王子は醜い銅像となって取り壊されるけれど、つばめと一緒に神によって天国に召される。

私たちがこの物語に心を奪われるのは、この「自己犠牲的な愛の美しさ」に魅了されるからなんですね。結末は悲しいけれど、その悲しさの中に、この世では決して報われることのない純粋さへの憧れがある。

私の中にある危険な美意識

正直に告白すると、私はこの考え方を変えなくてはならないと頭では理解しています。今まで色々な人の知恵に触れてきて、「自己犠牲が一番美しい」なんて価値観は危険だとわかっているんです。

でも、物語としてはどうしても嫌いになりきれない。これが私の本音です。

現代の私たちは、効率と合理性を重視する世界に生きています。自己犠牲は「非合理的」で「不健全」だと言われる。確かにその通りです。自分を大切にしない人が、本当の意味で他者を愛することなんてできるはずがない。

でも、それでも私たちが「よだかの星」や「幸福の王子」に心を動かされるのは、そこに現代社会が失ってしまった何かがあるからかもしれません。計算のない愛、見返りを求めない愛、ただただ相手のことを思う愛。

美しい罠から逃れられない私たち

孤独と闘い、愛に生きる。これを純粋にやってのける人はどのくらいいるのでしょうか。

宮沢賢治は「永久の未完成これ完成である」と語りました。私たちの愛もまた、永遠に未完成なまま、それでも完成しているのかもしれません。

よだかが星になった夜空は、今も私たちの頭上に広がっています。そして街角のどこかで、小さな燕が誰かのために羽ばたいているかもしれません。

自己犠牲という美しい罠から完全に逃れることはできないけれど、それでもその美しさを知っていることが、きっと私たちを少しだけ優しくしてくれるのだと思います。

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