実録丨【第2話】癌の私を置いて消えた恋人が、人生を変えた話 〜顕現〜
次に会う約束は、9月の連休でした。
それまでの間も、私たちは毎日連絡を取り合い、その日が来るのを楽しみに過ごしていました。
ただ、この頃の私の生活は、ほとんどすべてが彼に向いていました。
憧れていた人と付き合えたことで舞い上がっていたのと同時に、癌が進行しているかもしれないという恐怖も、どこかで抱えていたからです。
そのせいか、心のどこかで「このままではいけない」という小さな違和感も感じていました。
来たる9月、私は彼の住む関東へ向かいました。
彼が車で迎えに来てくれて、そこから温泉地へ向かう予定でした。久しぶりの再会と旅行に、私はどこか浮き立つような気持ちでいました。
ただ、車に乗ったとき、ふと小さな違和感を覚えました。
彼の居住地とは違うナンバーの車で、ドリンクホルダーには女性用の日焼け止めが置かれていました。キャップは埃をかぶっていて、長い間使われていないように見えました。
その時は深く考えないようにしました。
小さな違和感は、
旅行の楽しさの中に紛れていきました。
温泉旅行そのものは、表面上は穏やかで楽しい時間でした。一泊二日、温泉に入り、食事をして、ゆっくりと過ごしました。
三連休だったこともあり、最後の一泊は彼の家に泊まることになりました。
彼の家で見たもの
家の扉を開けた瞬間、私は言葉を失いました。
室内は長い間整理されていない様子で、
まるで時間が止まっているようでした。
部屋のあちこちには、6年前に亡くなった恋人の持ち物がそのまま残されていました。
そしてテーブルの上には写真立てが置かれ、
遺影と、患部のレントゲン写真が並べられていました。
まるで祭壇のような光景でした。
その瞬間、私は心の中で悟りました。
「あ、この人はまだ、亡くなったことを受け入れられていないんだ」
彼は笑顔で
「さ、座って」
と、その祭壇の前に私を座らせようとしました。
私はどう反応すればいいのか分かりませんでした。
過去を大切にすること自体は、決して悪いことではありません。
けれど、その場所に立ったとき、私はある感覚に襲われました。
まるで、
他の女性を愛しているのを認めてほしい
と言われているような気持ちでした。
私は彼の恋人としてそこに立っているはずなのに、
同時に別の女性の存在を正面から受け入れることを求められているような、奇妙な感覚でした。
その居心地の悪さは、言葉ではうまく説明できませんでした。
また、彼はまだ亡くなった彼女を手放せていない。
むしろ、どこかでこの世に引き止め続けているようにも見えました。
そして彼自身もまた、その記憶と共に生きることに縛られている。
まるで彼女と共依存のような状態になっているのではないか――自身を戒めるかのような自己犠牲的な生活空間を見て、私はそんなふうにも感じました。
亡き彼女と私が重なった瞬間
その瞬間、これまでのやり取りが、頭の中で一本の線のようにつながりました。
これまでの連絡を思い返すと、彼は私の体調が悪いときには心配してくれていました。
けれど、それ以外で私自身のことを深く知ろうとしてくれたことは、あまり多くなかったように思います。
今振り返ると、彼は私そのものを見ていたというより、どこかで亡くなった彼女の存在を通して、私を見ていたのではないか。
そんな感覚がありました。
それは、私にとってとても悲しいことでした。
温泉旅行も、彼は「癌に効く泉質」を調べて選んでくれていました。
旅行中も、りんごやニンニクなど「癌に良い」と言われる食べ物を、かなり強く勧めてきました。
最初は、私の体を思いやってくれているのだと思っていました。
でも、その優しさの中に、どこか必死さのようなものが感じられていました。
なぜそこまで強く勧めてくるのだろう、と心の奥で小さな違和感が残っていました。
そして、あの部屋の光景を目の当たりにしたとき、その違和感の理由が結びついたのです。
私と付き合ったあと、彼が家に帰ると、そこにはその光景が広がっている。
亡くなった彼女の写真があり、彼女が暮らしていた当時のままの生活がそこにある。
そんな日常が続いていたのだと思います。
もしかすると彼の立場から見れば、私の方が浮気相手のように感じられたのかもしれません。
その光景に向き合うたびに、彼はどこかで、まるで自分が浮気をしてしまったかのような気持ちになり、亡くなった彼女に対して罪悪感を抱いていたのではないでしょうか。
そして、もしかすると彼は、亡くなった彼女を救えなかった過去を、私でやり直そうとしていたのかもしれない。
だからこそ、私の病気に対しても、あそこまで必死だったのではないか。
そんな考えが頭をよぎりました。
そして、部屋の状態と、それまでの彼の行動がすべてつながった瞬間、胸の奥がすっと冷たくなるのを感じました。
居酒屋での会話
私は生と死が混在するような空間に立っていると、急に気分が悪くなりました。
とっさに「外でご飯を食べよう」
と提案しました。
彼は特に気にした様子もなく、なぜか
「この家には男友達しか来たことがないからね」
と、明らかな嘘を言いました。
居酒屋に着いても、私の気持ちはなかなか落ち着きませんでした。
そんな私を見て、彼は言いました。
「竜胆も過去大変だったって言ってたけど、何があったの?」
そこで私は、自分の過去の話をしました。
過去にDVを受けたこと
会社でハラスメントを受けたこと
告発して上層部の画策で追い詰められたこと
決して軽い話ではありませんでしたが、包み隠さず話しました。
すると彼は言いました。
「さっきから暗いの、君が自分の過去の話して暗くなってるじゃん。俺までダメージ食らうわ」
私は一瞬、戸惑いました。
私の記憶では、空気が変わったのは彼の家を見てからでした。
でもいつの間にか、「空気が暗くなった理由」が私のせいになっているように感じました。
私は勇気を出して言いました。
「暗くなったのは、あなたの家を見てからだけど…」
すると彼ははっきり言いました。
「俺は変わらない」
「あのことは乗り越えるものじゃない」
「これからも片付けるつもりはない」
私は、過去を忘れてほしいと言ったわけではありません。
ただ、今一緒にいる相手として、少しでも配慮が欲しかった。せめて一言説明が欲しかった。
でもその期待は、私の一方的なものだったのかもしれません。
それでも私は、そのとき強く感じてしまいました。
彼は、私ではなく、亡くなった恋人を愛し続けている。そして私は、その人の代わりとしてここにいる。
そう感じてしまったのは、彼の過去の私への扱い方と、部屋の光景がどこかで結びついてしまったからです。
眠れない夜
その夜、私はほとんど眠ることができませんでした。
部屋の空気は、とても重く感じられました。
遺影がこちらを見ているような錯覚もありました。
私の中では、まるで三人でそこにいるような感覚がありました。
彼と
過去にいた誰かと
そして私
そんな空間の中で、私は一睡もできないまま朝を迎えました。
東京駅での別れ話
翌日、私たちは東京駅へ向かいました。
彼は誕生日プレゼントを買おうと言い、大丸に寄りました。
でも私は、何も欲しいと言える気分ではありませんでした。
彼は私を見ていない。
亡くなった恋人を投影しているだけなのではないか。
そんな気持ちでいっぱいでした。
一人の女性として見られていない現実が、胸に突き刺さっていました。
私は予定より早く帰ろうと思いました。
新幹線の改札に向かおうとしたとき、彼は突然言いました。
「もう、恋人じゃなくて同期に戻ろう」
突然の言葉でした。
彼は十分な説明もしないまま、
この場を終わらせようとしているように感じました。
それがどうしても納得できませんでした。
そこから東京駅で長い時間話し合うことになりました。
彼は言いました。
「暗い態度が嫌だ」
「君の自己犠牲的なところが重い」
「共依存みたいに感じる」
今回の出来事、関係がうまくいかない原因は、
全て私の性格にあるのではないかという話でした。
確かに私は、自分の中に自己犠牲や共依存的な部分があることを自覚していました。
アダルトチルドレンかもしれない
愛着障害かもしれない
正直、数年前から自身で調べて答えに辿りついていました。
けれど、根本を変える行動はしていませんでした。
変わらなくていい言い訳ばかりを探していたのです。
だからこそ、その言葉は強く刺さりました。
私の選択
それでも私は、すぐに関係を終わらせることができませんでした。
当時の私は、まさにアダルトチルドレンの思考のど真ん中にいました。
彼を手放したくない。
この状況を招いたのは、自分が悪いのではないか。
そんなふうに思っていたからです。
私は彼に言いました。
「カウンセリングに通って、自分の問題と向き合う。だから、一ヶ月だけ待ってほしい」
彼ははっきりとした答えは出しませんでしたが、その提案を受け入れてくれました。
そして帰り際、彼は言いました。
「毎日連絡は取ろう」
その言葉を信じて、私は名古屋へ帰りました。
腹を括りました。
自分の問題から、もう逃げない。
全部向き合う。
そう決めました。
けれど、このときの私はまだ知りませんでした。
この一ヶ月が、そしてその直後に起きる出来事が、
私の人生を大きく変えることになるということを。
ここから、私の本当の闘いが始まります。
(第三章へ続く)
